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島の石鹸、帰る石  作者: 春凪とおる


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第一話 拾った石、森の目

夜明け前の西表島は、まだ深い藍色をしていた。

海は眠っているように静かで、遠くから寄せる波の音だけが、暗い浜辺に白くほどけていた。

マングローブの森は黒い影となって川の両岸に立ち並び、ときおり、名前も知らない鳥の声が細く漏れた。


宮田佳乃は、宿の薄い布団の中で目を覚ました。

昨日からずっと眠りが浅く、胸の奥が小さく震えている。

旅先でだけ感じる、いつもの生活から切り離された不安と自由が、混ざったような感覚だった。


畳の上に置いたリュックの脇には、小さな紙袋があった。

中には、昨日の夕方に集落の工房で買った手作りソープが入っている。

月桃の香りがする、淡い緑色の石鹸。

角は手のひらに沿うように丸められていた。


工房の女性は言った。


「これはね、月桃を使った石鹸なの。

 泡立ちは派手じゃないけど、洗ったあとに少しだけ島の匂いが残るよ」


佳乃はその言葉が気に入って、ひとつ買った。

東京へ帰ったら、忙しい朝にこの石鹸で顔を洗おう。

そうすれば、職場の蛍光灯の下でも、この島の朝を少しだけ思い出せる気がした。


紙袋の横には、もうひとつ、小さなものがあった。

昨日、浜辺で拾った石だった。


親指ほどの大きさで、黒と灰色が混ざり、ところどころ白い筋が走っている。

濡れているときは艶があって、まるで誰かの目のように見えた。


浜には珊瑚の欠片や貝殻がたくさん落ちていたのに、その石だけが妙に重たく、確かなものとしてそこにあった。

持ち上げると手のひらにぴたりと収まって、なぜか胸をつかまれた。


「持って帰ろう」


旅の記念に、石をひとつ持ち帰る。

それくらい、誰でもすることだ。


そう思うのに、今朝、まだ暗い部屋の中でその石を眺めていると、佳乃は少しだけ後ろめたかった。

島のものを、島から離していいのだろうか。


大げさだ、と彼女は思った。

たかが石ひとつだ。誰のものでもない。

海辺に転がっていたものだ。

それでも、石は黙って佳乃を見ているようだった。


佳乃はリュックに着替えを詰め、手作りソープの紙袋を丁寧に奥へ入れた。

石は少し迷った末、上着のポケットに入れた。

手のひらで包むと、石は冷たかった。


昼過ぎには船で石垣島へ戻る。

島にいられるのは、あと半日だけだった。

 

朝食のあと、佳乃は荷物を背負ってひとりで宿を出た。

宿の主人からは、船までの時間に近くの遊歩道を歩いてみるようすすめられていた。


「ただし、道を外れないでくださいね。

 西表の森は、見た目よりずっと深いですから」


佳乃は軽くうなずいた。

遊歩道の入口には、イリオモテヤマネコの写真が載った看板が立っていた。


丸い耳、太い尾、鋭い目。

絶滅危惧種であり、交通事故が大きな脅威になっていること。

夜間は車の速度を落とすこと。


佳乃は看板の前で足を止めた。

この島にしかいない猫。名前は知っていた。

けれど、実際に同じ島にいると思うと、不思議な気持ちになった。


もちろん、簡単に会えるものではないだろう。

そう思いながら、佳乃は森の中へ入った。

 

道は湿っていて、踏むたびに靴底が柔らかく沈んだ。

木々は空を覆うように枝を伸ばし、葉の隙間から細い光が差し込んでいる。

ここでは、人間が少しだけ通らせてもらっているだけなのだと感じた。


歩き始めてしばらくすると、佳乃は上着のポケットに手を入れた。

石が指先に触れる。


冷たい。朝からずっとポケットに入れているのに、

少しも温まらない。

ふと、道の脇で何かが動いた。


佳乃は立ち止まった。

草がかすかに揺れている。風ではない。

息を止めて見つめていると、葉の間から、茶色い影がすっと出てきた。


猫だった。いや、猫に見えた。

けれど東京の路地で見かける猫とは違う。

体は低く、尾は太く、耳は丸い。

毛並みは暗い斑に覆われ、目は琥珀色に光っていた。


心臓が大きく跳ねた。イリオモテヤマネコ。

声が出そうになって、佳乃はとっさに口を押さえた。


ヤマネコは道の真ん中に立ち、佳乃を見ていた。


ほんの数秒だったかもしれない。

けれどその時間は、長く引き伸ばされたように感じた。

森の音が消え、波の音も鳥の声も遠のき、世界には佳乃とヤマネコだけが残った。


ヤマネコの目は、美しかった。

同時に、何かを責めているようにも見えた。

佳乃は動けなかった。


ヤマネコはゆっくりと視線を下げた。

佳乃の上着のポケットへ。


佳乃は思わず石を握った。

その瞬間、ヤマネコは身をひるがえし、森の奥へ消えた。

草が一度だけ揺れ、それきりだった。


佳乃はしばらく立ち尽くしていた。

胸が苦しいほど鳴っている。

会えた。見てしまった。本当にいた。


けれど、喜びより先に、奇妙な怖さがこみ上げてきた。

あの目は、何だったのだろう。


ポケットから石を取り出すと、黒と灰色の小さな石は、何の変哲もないはずなのに、手のひらに乗せるとずしりと重かった。


「返せってこと?」


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