第八話 僕と私のローゼリア
所長は、手にした栗色のウィッグを指先でくるくると回しながら黒い円の外へと歩いていく。そして、その足が黒い円の外へ出た瞬間。
――スゥッ。
実演室の景色が、一瞬にして変わった。
「……え?」
先ほどまで降りしきっていた雨が消え、石畳を濡らしていた水たまりも、ローゼリアの顔やドレスを汚していた鼻血も、まるで最初からそこには存在していなかったかのように一瞬で跡形もなく消え去った。
続いて、黒い円の中に広がっていた王宮のテラスが淡い光となって崩れ始める。夜の庭園、白い手すり、石造りの床。それらが次々と消えていき、その下から元の真っ白な実演室が姿を現した。
二つの部屋をつなぐ扉が開く。
――ウィーン。
その瞬間、待っていたかのようにスパダリ課の社員たちが次々と実演室へなだれ込む。
「所長、お疲れさまでした!」
「今回も完璧でした!」
「いやあ、すごかったですね!」
「あっ」
その勢いに押されるようにして、私も一緒に実演室へと入ることになった。
……というか。まだ、頭がまったく追いついていない。
呆然としている間にも、周囲の社員たちはどんどん所長のもとへ集まっていく。気がつけば私も、その流れに巻き込まれるようにして前へ進んでいた。
所長は囲まれるようにして立ちながら一人ひとりの言葉に軽く頷いている。
「所長、そちら預かります」
一人の社員が駆け寄る。
「ああ」
所長は、指先で弄んでいたウィッグをその社員へと手渡し、ふと、こちらを見た。
「……ん?」
所長は私の姿を認めて声をかけてきた。
「あぁ、朝倉。お疲れ。どうだった」
「…………」
私の口がぱくぱくと意味もなく開閉した。
「……な、な、な、なな、な、な」
「ん?どうした。急に自分の名前を連呼して」
「な、なんで……所長……それに……声……」
「あぁ。……『この声かしら』」
所長の声が一瞬で変わる。
雨のテラスで泣いていた、あの儚げで可憐な令嬢――ローゼリアの声へと。
「………」
ぽかんと口を開けた私を見て、所長が胸を張り、どこか得意げに鼻を鳴らす。
「ふふん。私は『両声類』と呼ばれている」
あっけにとられていると、すぐ後ろから小さなため息が聞こえた。
「はぁー……」
後方にいた女子社員の一人が、両手を胸の前で組んでいる。
「尊い。尊すぎるわ……」
「一生推せます」
もう一人の女子社員も深く頷いた。
「これ見逃すなんてありえない」
「ほんと、それ」
そして二人は、まるで何か大切なものを見届けたかのような顔で所長たちの方を見つめる。
「このために会社来てるんだから」
「わたしもー」
――おい。
私は思わず振り返り、視線でツッコミを入れた。
……いや、待てよ。
さっきの会話で、一つだけ気になることがある。私は所長へと向き直った。
「毎回所長がヒロイン役やってるんですか?」
「前は持ち回り制だったんだけどな、いつの間にか押し付けられて私の役目になっている」
「……熊本さんもやったことあるんですか」
熊本が照れたように頭を搔く。
「不評すぎて一回で終わっちゃった」
――王女様になった熊本さん。
思わず想像する。
大柄な身体に立派な肩幅、そしてそれを納める煌びやかなドレス。
「……ぷっ」
駄目だ。どうしても笑いがこみ上げてくる。
「いや、笑うなよ」
「す、すみません……でも、他にも女性の社員さんだって――」
そこまで言いかけた瞬間だった。
――ぞくっ。
なぜか、背筋に冷たいものが走った。
……これは……殺気!
恐る恐る周囲へ視線を向ける。すると、視界の端で先ほど「このために会社来てるんだから」と言っていた女子社員が、じっとこちらを見ていた。
そして――何も言わずに、ゆっくりと首を横に振る。
その目がはっきりと訴えていた。
『余計な・ことは・言うな』と。
「…………」
私はそっと口を閉じた。
◇
テストを終えた社員たちは、それぞれモニター室へ戻ることなく、その場でタブレットや携帯端末を確認していた。
先ほどまで表示されていた各種パラメーターが、次々と更新されていく。
【人格安定率:正常】
【コア定着率:100%】
【感情波形:異常なし】
【愛情形成因子:正常放出】
「異常はなかったか」
「んー、大丈夫そうですね」
一人の社員がタブレットを確認しながら答えた。
「そうか」
所長は周囲を見回す。
「じゃあ、このまま『送り出し』だ」
所長は再び、実演室の中央にある黒い円の中へと歩いていく。黒い円の中心まで進むと、所長は足を止めた。そして、つま先で床を二度軽く打ち鳴らす。
カッ。カッ。
さっきまでただの黒い円だった床が、かすかに震えた。
「起動」
所長がそう告げた直後。
――ブオォン。
低く、重々しい音が実演室に響いた。黒い円の内部から、淡い光がゆっくりと浮かび上がってくる。
「扉、オープン」
所長の声に応えるように、黒い円の中央が大きく揺らいだ。
次の瞬間。
――ゴゴゴゴゴ……。
「えっ」
私は思わず声を漏らした。
黒い円の床が、ゆっくりと盛り上がっていく。その中心から、巨大な両開きの扉がせり上がってきた。やがて二枚の扉は天井近くまで伸びると、低い音を響かせながら動きを止める。そして、ゆっくりと左右へ開いていった。
――ギィィィィィ……。
扉の向こうには一見すると何もないように見える。しかし、よく見るとそこにはまるで宇宙のように広がった深い闇があった。無数の光が浮かび、その奥には星々のような輝きが広がっている。
「……すご」
思わず声が漏れた。しかし、さらに驚くことが起こる。
扉の奥、星々の間に一筋の光が浮かび上がった。それはまるで、どこかへ続く道のように曲がりくねっている。青白い光の線は、遥か遠くまで続いているようだった。
ハンコを押され、動きを止めたアルベルトは、その光景を静かに見つめていた。
所長が、そんな彼の隣へ歩み寄る。そして、そっとその肩に手を置いた。
「さ、頑張ってこいよ」
ぽん。
軽くその背中を押した。
アルベルトは静かに頷くと、扉の向こうへと足を踏み出す。一歩、また一歩と光の道に沿ってアルベルトは歩き始めた。その背中が、少しずつ遠ざかっていく。
これから彼が向かうのは、先ほどまでテストで再現されていたあの物語の世界。
けれど、もうこれはテストではない。
アルベルト・フォン・ローゼンベルクという一人の男がこれから物語の中で生きていく。
そして――ローゼリアに恋をする。
ローゼリアを守り、彼女と笑い、ともに悩み、ときには傷つく。
胸の奥に、ほんの少しだけ不思議な気持ちが広がる。
さっきまで彼はただの「商品」だったのに……でも今は、扉の向こうへ歩いていくその背中を、もうそんなふうには見ることはできない。
アルベルトの姿が、光の奥へ消えていく。
そして最後に、扉の向こうから淡い桃色の光が一度だけ瞬いた。




