第七話 テスト開始
ガラスに表示されていた数値が、一斉に切り替わる。
「シーン167っ!」
その瞬間。
――ザーッ。
「わっ」
実演室の中に、雨が降り始めた。もちろん、本物の雨ではない。
黒い円の内側。
先ほどまで再現されていた豪華な王宮の広間が、瞬く間に別の景色へと変わっていく。
高い天井が消え、壁が消え、大きな窓もシャンデリアも消えていく。
代わりに現れたのは夜の闇。石造りの床に白い手すり。そして、その向こうに広がる王宮の庭園。どうやら、王宮のテラスらしい。
ザーッ、ザーッ、と雨音が響く。テラスの外では激しい雨が降っていた。いや、正確には、雨が降っているように見えるエフェクトが展開されている。
作り物の雨。それなのに、ガラスの向こう側では雨粒が石畳を濡らし、水たまりを作り、庭園の木々を激しく揺らしている。
「すご……」
思わず呟いた。まるで、本当にそこだけ別の世界になってしまったようだった。
その時、小さな声が聞こえた。
私ははっとして、テラスの中央へ視線を向ける。
そこに、一人の女性が立っていた。
先ほどまで王子と向かい合っていたあの令嬢だ。
近くで見ると、その美しさは想像以上だった。
雨に濡れた栗色の髪が、白い頬や細い首筋に張り付いている。長い睫毛には雨粒がいくつも残り、その下の大きな瞳は涙で濡れていた。
けれど、ただ綺麗なだけではない。
今にも壊れてしまいそうな儚さと、それでも必死に涙を堪えようとしている健気さがあった。
ふっくらとした唇をきゅっと噛みしめ、肩を震わせている。その姿は、まるで雨に打たれながら咲く一輪の花のようで――。
「……っ」
小さく息を詰まらせるような声が聞こえた。
◇
彼女は王子に背を向け、白い手すりの前に立っていた。
肩が小さく震えている。
「……ひどい……」
か細い声。けれど、不思議なほど耳に残る。高く澄んでいて、まるで小さな鈴をそっと鳴らしたような、可愛らしい声だった。
「どうして……あんなこと……」
最後の言葉が震える。
令嬢は俯いた。
「わたし……一生懸命、頑張ったのに……」
ぽたり。
涙が一粒、石畳へ落ちた。
「うぅ……」
◇
小さく漏れた泣き声に、私は思わず息を呑んだ。
――声まで可愛い。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
ガラスの表示が素早く切り替わる。
【ヒロイン:悲哀状態】
【涙:検出】
【心理的負荷:上昇中】
【スパダリ対応条件:発生】
モニター室の空気が、一瞬で変わった。
「お」
誰かが小さく声を上げる。
「きたきた♪」
熊本さんが、楽しそうに呟いた。
私は再びガラスの向こうへ視線を向ける。
泣いている令嬢。
その少し後ろには、金髪の王子。
そして、ガラスに表示された注文書の一文。
【ヒロインが泣いている時――最初に抱きしめること】
◇
アルベルト王子が、ゆっくりと歩き出した。
一歩、また一歩と雨の降りしきるテラスに、靴音が響く。
降りしきる雨音のせいだろう。令嬢はまだ気づいていない。
肩を震わせたまま、手すりの向こうを見つめている。
「わたし……」
可愛らしい声が、雨音に溶けていく。
「そんなつもりじゃ……なかったのに……」
アルベルトは何も言わない。ただ静かに彼女の後ろまで歩み寄る。
そして、すっと両腕を伸ばした。
アルベルトの腕が、雨で冷えた女性の身体をそっと包み込む。
逃げようと思えば、いつでも逃げられる。けれど、確かにそこにいると分かる。そんな優しい抱擁。
令嬢の身体が、びくりと震える。
「……っ」
◇
アルベルトは何も言わない。
注文書には書かれていた。
【ヒロインが泣いている時――最初に抱きしめること。「泣くな」とは言わない。理由を聞くまで無理に慰めない。ヒロインが話し始めたら最後まで遮らない】と。
モニター室では誰も口を開かなかった。
さっきまであれほど騒がしかったスパダリ課の人たちが、ガラスの向こうをじっと見つめている。
◇
「…………」
令嬢はしばらく何も言わなかった。
ただ、王子の腕の中で小さく肩を震わせている。
「……アルベルト様」
令嬢が小さく呟いた。
泣いているせいか少し掠れているのに、それでも鈴を転がすような綺麗な声だった。
「……わたくし、頑張ったんです」
王子の腕の中で、令嬢が続ける。
「みんなの役に立ちたくて……迷惑をかけないようにって……」
言葉が途切れる。
また涙が落ちた。
「でも……結局、いつもみたいに……」
王子は黙っている。
令嬢が言葉を続けるのをただ待っていた。
「……わたくし、とんでもない失敗をしてしまいました」
その可愛らしい声は、今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。
「……ローゼリア。落ち着いて話してくれ」
令嬢ローゼリアは俯いたまま、震える声を絞り出した。
細い肩が雨に打たれ小さく震えている。
「今日……王妃様や、たくさんの貴族の皆様がいらっしゃる前で……わたくし……あなたのことを……」
ローゼリアはぎゅっと目を閉じた。
「アルデンテ様と呼んでしまいました……!」
ローゼリアは涙を拭いながら続ける。
「その場には王妃様もいらっしゃって……わたくしの言葉を聞いた瞬間……」
彼女は震える声で、その時の様子を語り始めた。
――『あら?』
王妃の顔から、笑みが消えた。
――『今、この子のことを何と呼んだの?』
ローゼリアは恐る恐る答えた。
――『……ア、アルデンテ様と』
その瞬間。
――『誰の息子が半茹でなのよぉぉぉっ!』
「わたくし、どうしてあんな名前を……! アルベルト様のお名前を間違えるなんて……しかも、公衆の面前で……!」
細い肩が震えている。
「王妃様にも、王子殿下にも、皆様にもご迷惑を……」
「それで、ここまで泣いていたのか」
アルベルトは、少しだけ目を丸くした。
「……はい」
ローゼリアは小さく頷いた。
「わたくし、なんて失敗を……」
言葉の途中で、アルベルトがローゼリアを抱き寄せる腕にそっと力を込めた。
自然と二人の距離が縮まっていく。
ローゼリアが顔を上げると、すぐ目の前にアルベルトの顔があった。
雨に濡れた髪をアルベルトの指先が優しく撫でる。
「君がそう呼ぶのなら」
「アルベルト様?」
「僕は今日からアルデンテでいい」
「……え?」
アルベルトは、少しだけ笑った。
「悪くない名前だ」
「そ、そうでしょうか……?」
「ああ。少し芯が残っているようで、それでいて柔らかい」
アルベルトはローゼリアの顔を覗き込む。
「君の隣に立つものとしてふさわしい名だ」
ローゼリアはそっと瞳を閉じた。
長い睫毛が、かすかに震えている。
アルベルトの顔がゆっくりと近づく。
もう少しで、唇が触れ合いそうな距離。
その瞬間――。
ローゼリアの鼻から勢いよく赤い液体が噴出した。
――ドクドクドクドクドク!
◇
「はい、ごうかーく♪」
その声と同時だった。
血まみれになりながらアルベルトに抱きしめられていたローゼリアの手の中に、いつの間にか巨大なハンコが現れる。
――いつの間に?
私が呆然としている間にも、ローゼリアは何のためらいもなくそのハンコを振り上げる。
そして――。
ポンッ。
軽快な音とともに、アルベルトの背中へとハンコが押しつけられた。
次の瞬間、アルベルトは電池が切れたかのように動きが止まり、その白い礼装の背中にデカデカと二文字の文字が浮かび上がった。
『合格』
「ふぅ」
ローゼリアは満足そうに息を吐いた。
私の頭が状況を理解できないでいると、ローゼリアは何事もなかったかのように、自分の髪へと手を伸ばした。
栗色の長い髪を、ぐっと掴む。
ベリッ。
「…………え?」
ローゼリアの髪が剥がれた。
いや、正確には髪ではなかった。
彼女が掴んでいたのは、長い栗色のウィッグだったらしい。
その下から現れたのは、艶やかに光を反射する長い黒髪。
さらに驚いたことに、髪が変わっただけではなかった。先ほどまで、今にも消えてしまいそうなほど儚げだった表情がすっと変化していく。弱々しく伏せられていた瞳が鋭くなり、涙に濡れていたはずの顔には、いつの間にか凛とした表情が浮かんでいた。
その顔に――私は、見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではない。
私が恐る恐る、その名前を口にする。
「……しょ、所長!?」
令嬢ローゼリア――いや、神楽坂玄房所長は口元に薄く笑みを浮かべた。




