第二十八話 待ち合わせ
会社を出た時には、空はもうすっかり夜の色になっていた。
エントランスの自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、私は足早に建物の外へ出る。
――やばい。遅くなっちゃった。
仕事を片づけているうちに、思った以上に時間が経っていた。慌てて腕時計を確認すると、待ち合わせの時刻を少し過ぎている。急いで入口の周囲を見回した。
すると、すぐに探していた人物が見つかる。
入口脇の街灯の下に、神楽坂所長が立っていた。スマートフォンを眺めるでもなく、ただ腕時計に目を落としている。
――あー、やっぱり先にいた。
思わず小走りで駆け寄った。
「すみません、待ちましたか?」
声をかけると、所長は腕時計から目を離し、こちらを向いた。
「いや、今来たところだ」
――ぷふっ。
あまりにも即答だったので、思わず吹き出してしまった。
「絶対嘘ですよね」
「ん?」
「さっきのセリフです。今来たところって」
所長は一瞬きょとんとしたあと、口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ、五分前に来たところ」
「ほら、待ってるじゃないですか」
二人で顔を見合わせ、軽く笑いあった。
「あれ? どこに行くんでしたっけ?」
「おいおい。嘘だろ。甘いものを食べに行くって――」
「ふふ。冗談ですよ」
「もういい。行くぞ」
所長は呆れたように言うと、さっさと歩き出した。
私もその隣に並ぶ。
仕事中は、いつも所長の後ろをついていくことが多い。こうして並んで歩いていると、普段よりも少しだけ距離が近く感じる。
駅の方へ向かうのかと思ったけれど、所長は途中で人通りの少ない通りへと曲がった。
さっきまで聞こえていた賑やかな話し声が、少しずつ遠ざかっていく。代わりに耳に届くのは、通りを走り抜ける車の音と、頬を撫でる夜風の音くらいだった。
「そういえば、夜から営業するカフェなんでしたっけ? 珍しいですよね」
「あぁ。一般的には、カフェは朝から夕方まで営業して、夜は閉めるか、バー寄りになることが多いからな」
「ですよね」
「一日の仕事を終えた人たちが集まる場所ってのが、コンセプトらしいぞ」
「へぇー、なんかいいですね」
仕事が終わったあと、わざわざ立ち寄りたくなる場所。そんな店があるのは、ちょっと羨ましい。
明かりの灯った窓や、店先を飾る小さな看板を眺めながら歩いていると、やがて所長が足を止めた。
「ここだ」
顔を上げる。
目の前には、レンガ造りの落ち着いた建物が建っていた。
派手な看板はない。入口の脇に掲げられた小さなプレートと、窓から漏れるほのかな明かりが、静かな通りを優しく照らしている。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
夜から営業していると聞いて、もっと若者向けの賑やかな店を想像していたけれど、目の前にあるのは、まるで街の片隅にひっそりと隠れているような店だ。
ガラス越しに店内を覗くと、壁際には本棚が並び、暖色の照明がテーブルを柔らかく照らしている。落ち着いた雰囲気が、外からでも伝わってきた。
……ここなら、ゆっくり過ごせそう。
そう思っただけで、肩に残っていた仕事の疲れが、ほんの少しだけ軽くなった気がする。
「お気に召しそうかな?」
隣から、どこか得意げな声が聞こえた。
振り向くと、所長がこちらを見ている。
……なんだか、ちょっと悔しい。
私は店をもう一度眺めてから、素直に頷いた。
「悔しいですけど、いいですね」
「なんで悔しいんだよ」
所長は呆れたように笑った。
そんなやり取りが、なんだか楽しい。
所長が入口のドアに手をかけた。
開いた隙間から、コーヒーの香りがふわりと漂ってくる。
「行こうか」
「はいっ」
私は所長の後に続いて、店の中へ足を踏み入れた。
仕事のことも、今日まで抱えていた悩みも、今だけは少し脇に置いて。
夜になってから始まる、少しだけ特別な時間へ。
◇
店のドアをくぐった瞬間、外の空気がふっと遠ざかった気がした。
柔らかなジャズが小さく流れ、会話やコーヒーマシンの音と自然に溶け込んでいる。
「いらっしゃいませ」
店員さんの落ち着いた声が聞こえる。
案内された席へ向かう途中、私は思わず店内を見回した。
外から見たときも雰囲気のいい店だと思ったけれど、中もいい感じに落ち着いていた。
照明は全体的に暗めで、天井から吊るされたランプが琥珀色の光を落としている。深い茶色の木壁には古い額縁やモノクロ写真が飾られ、本棚には小説や雑誌が並んでいた。観葉植物の緑も、さりげなく空間に彩りを添えている。
食器が触れ合う音やコーヒーを淹れる機械の音に、あちこちから楽しげな話し声が重なっている。ときおり笑い声も聞こえ、ほどよい賑やかさだった。
一人で来ている客も少なくない。本を読む人、何かを書き留める人、コーヒーを片手に窓の外を眺める人。それぞれが自分の時間を楽しんでいた。
……なんだ。けっこう一人の人いるじゃない。
案内された席に腰を下ろし、テーブルに置かれていたメニューを手に取った。
私はてっきり、甘いものを食べに来たのだと思っていた。夜カフェと聞いていたし、ケーキやパフェといったスイーツを楽しむ店を想像していたのだ。
ところが、いざメニューを開いてみると、意外にも軽食が充実していた。パスタにホットサンド、キッシュにオムライス。どれも写真がおいしそうで、眺めているだけなのに、だんだんとお腹が空いてくる。
「あ……」
そこでようやく、私は仕事が終わってから何も食べていないことに気がついた。
思わずメニューに目を落としたまま固まっていると、向かいに座った所長も同じことに気づいたらしい。
「甘いものもいいけど、先に食事にするか」
「そうですね」
私は即座にうなずいた。
むしろ、メニューを眺めているうちに、すっかり食事をする気分になってしまっていた。パフェのつもりで来たのに、今では目の前に並ぶ料理の写真のほうも気になってしかたない。
甘いものは、そのあとでもいい。
◇
食事は思った以上においしかった。
私が頼んだオムライスは、ふわりとした卵の中にバターの香りが閉じ込められていて、スプーンを入れるたびに湯気が立った。中のチキンライスも濃すぎない味付けで、最後まで飽きずに食べられる。
向かいで所長が頼んだパスタもかなり当たりだったらしく、珍しく黙々と食べていた。
そして、気づけば二人ともきれいに平らげていた。食後のアイスティーを飲みながら一息ついたところで、私はテーブルに置かれた注文用のタブレットを手に取る。
――デザートは別腹♪
画面を開くと、ケーキやパフェ、プリンといったスイーツがずらりと並んでいた。どれも写真を見るだけで食欲をそそられる。食事メニューに負けず劣らず、デザートにも力を入れているらしい。
ところが、いくつか商品を眺めているうちに、私は妙なことに気づいた。
……なに? この名前
『残業討伐モンブラン』『有給取得記念パフェ』
『締切突破チーズケーキ』『明日なんとかなるプリン』
「…………」
私はタブレットを持ったまま、しばらく画面を見つめた。
――ふざけてるのか、客に寄り添おうとしているのか、絶妙なラインを反復横跳びしているネーミングだわ
私はタブレットを眺めながら、どのパフェにしようか悩んでいた。
どれもおいしそうなのがいけない。いや、名前のインパクトのせいで決めきれない気もする。せっかくなら、ここでしか食べられなさそうなものを選びたい。
しかし、悩めば悩むほど決められない。
「はーやーくー」
向かいから、間延びした声が飛んできた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は慌ててパフェの中から一つを選ぶと、注文用のタブレットを所長に差し出した。
所長は受け取ったタブレットに目を落とし、今度は自分のデザートを吟味し始めた。料理を選んだ時よりも真剣な顔をしている。
その真剣な横顔を眺めていると、ふいに所長が口を開いた。
「デザートとスパダリには似たところがある」
「…………」
……どこかで聞いたようなフレーズだな
私は疑いの眼差しを向けた。すると、こちらの視線に気づいた所長と目が合う。
「……な、なんだ、その目は?」
「……本当ですかぁ? ラーメンのときにも、同じようなこと言ってましたよね」
「本当だとも。むしろ、デザートのほうが親和性が高いとさえいえる」
「えぇー……」




