第二十四話 注射の時間
私たちは、目的の場所へとたどり着いた。
目の前には、夕日に照らされた王宮の庭園が広がっていて、その向こうには白い壁面から張り出したバルコニーがあり、少し見上げるような角度で、その全体を見渡すことができた。
そう、ここはバルコニーではない。そこから少し離れた、王宮を取り囲む城壁の上。
足元には石畳が続き、背後には高い見張り塔がそびえ、眼下には真っ白な花が咲く庭園が広がっている。
「バルコニーじゃなくてここでいいんですか?」
「あぁ、あそこじゃ目立ちすぎる。だから、ここから狙う。ダザムはあの渡り廊下を通るはずだ」
所長が指さした先に目を向ける。
庭園を挟んだ向こう側、王宮の白い壁面から張り出したバルコニーへと、渡り廊下が伸びていた。
城壁の上からは、その様子がよく見える。渡り廊下には支柱以外に身を隠せるようなものもなく、そこを通る者の姿は遠くからでもはっきりと確認できそうだった。
なるほど。あそこを通るなら、ここから狙うのが一番よさそうだ。
いざ撃つということを想像すると、急に緊張がこみ上げてきた。銃を握る指先が小刻みに震え、そのたびに注射器の中で液体がちゃぷちゃぷと揺れる。
「ふぅ、ふぅ、緊張するぅー」
「し、静かに。来たぞ」
所長の声に、私ははっと顔を上げた。
庭園の向こう、渡り廊下に大きな人影が現れた。
ダザムだ。
彼は渡り廊下へ足を踏み入れると、すぐさまバルコニーに立つリディア姫を見つけた。
「姫ぇぇー!」
その姿を認めた途端、ダザムは姫に向かって勢いよく走り出した。
「合図をしたら撃ってくれ」
所長はそう言うと、両手をダザムに向かって伸ばした。
次の瞬間、服の裾から極細の糸がするすると伸び始めた。夕日の光を受けてかすかに輝く糸は、風を切るように庭園の上を走り、一直線にダザムへと向かっていく。
糸はその巨体に次々と巻きつき、腕や胴を絡め取った。走っていたダザムの足が、ぴたりと止まる。
所長がこちらを振り向いた。
「今だっ! 朝倉!」
「はいっ!」
私は銃を握り直し、ダザムに狙いを定めた。指先が震える。けれど、ここで失敗するわけにはいかない。息を止め、引き金を引いた。
バシュンッ!
鋭い発射音とともに、赤い液体を満たした注射器が銃身から飛び出した。注射器は空を切り、庭園を越えて一直線にダザムへと向かっていく。
そして――。
ぷすっ。
注射器は見事、ダザムのお尻に命中した。
「あたっ……た? やりました! やりましたよ! 所長!」
「まだだっ! もう一発、すぐに――うわっ!」
所長の体がぐらりと前方へ傾いた。
何事かと左手の端末に目を向ける。モニターの中では、ダザムが肩や胸についた糸を鬱陶しそうに払い落としていた。
『あらやだ。蜘蛛の巣がいっぱい。あとでお掃除しなきゃ』
そんな呑気なことを言いながら、ダザムは再び走り出した。
所長の糸が巨体に絡みついたまま、ピンと張り詰める。
次の瞬間――。
――ズザザザザーーーーーッ!
所長の体が前方へ引っ張られた。踏ん張る間もなく、靴底が石畳を滑っていく。
「なんて馬鹿力だ。朝倉、頼んだ」
「はい! わかりました」
私は、紫の液体の入ったもう一丁の銃を構え、ダザムに狙いをつけた。
照準の先には、所長の糸を引きずりながら進む巨体がある。外すわけにはいかない。私は息を止め、引き金に指をかけた。
その瞬間――。
ドンッ! ドンッ!
耳をつんざく帝国の砲撃音が響き渡る。空気が震え、足元の石壁がびりびりと揺れ、その直後、背後で、凄まじい破壊音が轟いた。
振り返る間もなく、頭上から石片が雨のように降り注ぐ。何が起きたのかと見上げると、すぐ後ろにそびえていた見張り塔の壁面に、大きな穴が開いていた。壁にゆっくりと亀裂が走り、塔全体が軋むような音を立てる。
そして――ゆっくりと、こちらへ傾き始めた。
私は慌ててダザムへと視線を戻す。
けれど、落ちてきた石片で舞い上がった砂煙が視界を遮り、さらに渡り廊下の支柱がダザムの巨体に重なっていた。
――狙えない。このままじゃ、まともに照準を合わせられない。
背後で、石が砕ける音が響く。
ギギギギ……と耳障りな軋みを上げながら、見張り塔がこちらへ傾いてくる。
足元に、じわじわと影が伸びてきた。
私は銃を握りしめたまま、迫りくる塔を見上げる。
――怖い。逃げたい。
塔の影が、私の体を覆う。
――でもっ!
私は迷わず銃を所長へ向かって放り投げた。
「所長っ!」
所長がこちらを振り向く。
張り詰めていた糸が、ダザムの巨体に引っ張られて大きく揺れた。
所長は一瞬だけ目を見開くと、すぐさま糸を手放した。
そして、飛んできた銃へ手を伸ばす。
――パシッ!
銃が、所長の手に収まった。
「私のことはいいから、ダザムをっ!」
そう叫んだ私を、所長は信じられないものでも見るような顔で見つめていた。
いつも余裕たっぷりで、何が起きても動じない所長。そんな彼が、今は目を見開いている。
――ふふ。そんな顔もするんだ。
こんな状況なのに、少しだけおかしかった。
けれど、いつまでもそんなことを考えてはいられない。
頭上から、軋みを上げながら崩れ落ちてくる塔が迫っていた。
大きくなっていく影が、私の全身を覆い尽くす。
逃げる時間なんて、もうない。
――怖いな。でも、【頑強】ついてるから死なないよね。多分。
自分に言い聞かせるように考えて、私はぎゅっと目を瞑った。その瞬間――
――ドガァァァンッ!!
耳をつんざく轟音とともに、塔が城壁へと叩きつけられた。
石が砕け、壁が崩れ、無数の破片が周囲へと飛び散る。
凄まじい衝撃が足元から突き上げてきた。
だが――
――あれ? 意外となんともない。
覚悟していた痛みは、いつまでたってもやってこない。
恐る恐る目を開けようとした、そのとき、耳元で苦しげな声が聞こえた。
「――くっ! かはっ」
聞き覚えのある声に、心臓が跳ねた。
「え、所長!?」
「……朝倉。無事か」
目を開けると、すぐ横に所長の顔があった。
乱れた黒髪が額にかかり、その隙間から苦し気に歪む表情が覗いている。
所長は私を守るように覆いかぶさり、頭をかばうように腕を伸ばしていた。スーツの背中は裂け、降り注いだ塔の破片がその上に散らばっている。
「所長ぉーー!!」




