第二十三話 ぺっぺっぺっ
城壁の下で一人ぽつんと取り残され、私は途方に暮れていた。
見上げても、目の前にそびえ立つのは高い城壁ばかりで、所長の姿は、すでに向こう側へ消えてしまっている。もちろん、私に所長のような芸当ができるはずもない。
……どうしろっていうのよ。まさか、本当に私を置いて?
そんなことを考えていると、突然、体に何かがまとわりついてくる感覚がした。
「うわ! 最悪。茂みの中を突っ切ってきたから蜘蛛の巣にいっぱい引っかかっちゃった。口の中にも入りそう! ぺっぺっ!」
顔の前で手を振り回し、髪や服についた蜘蛛の巣を取り除こうとする。細い糸が指に絡みつき、払っても払ってもなかなか取れない。
しかも、さっきから頬のあたりで何かがもぞもぞしている気がする。
……いやあああ! 虫だったらどうしよう!
必死になって蜘蛛の巣を取り除いていると、頭上から声がした。
「こら、朝倉。暴れるな」
はっとして顔を上げる。
城壁の上から、所長がこちらを見下ろしていた。
「あっ! 所長っ。置いてかないでください!」
「いいからじっとしてろ」
そう言うやいなや、私にまとわりついていた糸が動き出した。
「あれ? これ、蜘蛛の巣じゃなくて所長の糸だったんですか?」
「今から引き上げる」
「うわあああっ! ちょっと待って! 心の準備が――!」
私は、ものすごい勢いで宙に引き上げられるのを覚悟した。
ところが、体がふわりと浮き上がったかと思うと、糸は私を包み込むように支え、そのままゆっくりと上昇していく。
足元の草むらが少しずつ遠ざかっていく。思わず周囲を見回すと、夕日に照らされた糸が淡い金色を帯びながら空中に幾重にも伸びていた。風を受けるたびに糸がわずかに揺れる。そのたびに光が流れるように走り、空中へ描かれた無数の線が、夕暮れの空を彩っていた。
こんなに細く繊細な糸が、私の体をしっかりと支えている。
そう思うと、さっきまで蜘蛛の巣だと勘違いしてあんなに必死に振り払おうとしていたのに、今はまるで、見えない手に優しく抱き上げられているような気分だった。
◇
私はそっと城壁の上に降ろされた。
足が石畳に触れたのを確認すると、私を包んでいた糸がするすると引いていく。顔を上げれば、所長はもう左手の端末を確認していた。私を運んできたことなど、たいした手間でもなかったらしい。
「所長、これからどうすれば?」
声をかけると、所長は端末から顔を上げ、王宮の一角を指さした。
「リディア姫はバルコニーにいる。ダザムもそこへ行くはずだ。我々もそこへ向かう」
指の先に目を向ける。
王宮の白い壁面から張り出したバルコニーに、一人の女性が立っていた。手すりに身を寄せ、遠くの戦場をじっと見つめている。エメラルド色の長い髪が風に揺れ、淡い水色のドレスの裾がひらりとはためいた。
……あれが、リディア姫。
その姿に見入っていると、不意に遠くから雄たけびが響いてきた。
「ひめぇぇー、どぉこなのよぉおー!」
……え?
私は思わず、声のした方向へ顔を向けた。
聞き覚えのある声。いや、忘れようがない。あの野太い声に、なぜか妙に色っぽい語尾。
……あの声、ダザムだ。
姫を探しているらしいが、ずいぶんと声が大きい。これだけ離れていても聞こえるのだから、近くにいる者はたまったものではないだろう。
隣を見ると、所長もちょうどこちらを見ていた。
一瞬、視線が交わる。
「急ごう」
所長はそれだけ言うと、城壁の上を走り出した。
「は、はい!」
私も慌ててその後を追う。
眼下には、戦火に揺れる王宮の景色が広がっていた。
◇
ペタペタペタペタッ――
私たちはバルコニーを目指し、城壁の上を駆けていった。
走りながら、私は疑問に思ったことを口にした。
「ところで、どうやってダザムのコアを調整するんですか?」
そう聞くと、所長は腰から二つの銃を取り出す。
それをみて私は目を丸くした。
それは、どこか奇妙な形をした銃だった。
黒いグリップと引き金、短い銃身。そこまでは普通の銃と変わらない。しかし、銃身の上部には、透明な円筒形の注射器が一本、横向きに取り付けられていた。
一方には内部に赤い液体、もう一方には淡い紫色の液体が満たされている。側面には細かな目盛りが刻まれ、先端には鋭い針が備わっていた。
まるで、水鉄砲のタンクを巨大な注射器に置き換えたような形状だ。
銃でありながら、弾丸の代わりに注射器を撃ち出す。そんな使い方なんだろう。
「こいつを使う。まずは中和剤を打ってコアから共感性低下剤を引きはがす。それが効いている間に新たな低下剤を打ちこみ不純物ごと上書きする」
「二回も打つんですね。大変そう。じゃ、がんばってください」
「なにいってるんだ。朝倉が打つんだぞ」
「…………え?」
「俺はダザムを糸で拘束するから」
「――ええぇっ!?」
「大丈夫だ。適当に向けて撃てば、後はある程度誘導してくれるから」
……大丈夫って言われても。
その瞬間、脳裏に今朝の光景がよみがえってきた。
横切る黒猫。目が合うカラス。そして――ダンゴムシ。
――あぁ。責任重大だよぉ。嫌な予感がするよぉ。
銃の挿絵が規約に引っかかって作れませんでした。残念。




