第十九話 正装はスーツで
私たちは、モニターを見つめたまま固まっていた。
画面の中では、ダザムが王都へ向かって馬を走らせている。巨体を揺らしながら、手綱を握り、馬の背にしっかりと内股でまたがるその姿は、意外にも競馬のジョッキーに見えなくもなかった。
……おねぇ言葉さえ、なければ。
「じゃあ、回収してコアの再調整ですか?」
「……無理だよ、奈々ちゃん」
熊さんが悲しそうな顔で首を振る。
「え? どうして?」
「忘れたのか。ライブ中だ」
所長がモニターを見つめたままそう返す。
「――あ!」
誰も口を開かなかった。
画面を見つめる社員たちの顔には、なんとも言えない表情が浮かんでいる。誰もが何か言いたそうにしているのに、誰も何も言わない。そんな気まずい沈黙が、モニター室を満たしていた。
「じゃあ、いったいどうすれば……」
「回収できないのであればこちらから行くしかあるまい」
「まさか、所長!」
所長がモニターから熊さんに視線を移した。
「『スーツ』を使う」
「でも、申請出してないですよ。勝手に使ったら――」
「かまわん。申請は今出す。だが、返事を待つ時間はない。すぐに用意してくれ」
――『スーツ』何のことだろう? 研修では習ってない。それに『こちらから行く』って……。
「あの、『スーツ』ってなんですか? はじめて聞くんですけど」
私は隣にいた社員に聞いた。
「あぁ。研修じゃ習わないよね。物語の中に入るための特殊衣装のことだよ」
「――物語に入る!? そんなことできるんですか?」
「バグを直接取り除いたり、物語を正常に進めたりするための装備でね。いわば、物語の中に入って問題を解決する黒子みたいなものかな。めったに使わないし、上の許可も必要だから、研修では詳しく教えないんだ。不具合を後から修正するっていう面もあるからあまり公にもされていないんだよね」
――知らなかった。そんなものがあるなんて
私が質問をしている間にも、神楽坂所長は他の社員たちに指示を飛ばしていた。
「人が入っても物語の容量は大丈夫そうだな」
「扉を開いて、アンカーの準備をしておいてくれ」
「王宮付近の目立たない場所を確認しておいてくれ」
そんな所長の指示が飛び交う中、社員が駆け込んできた。
「ハァ、ハァ……スーツ……届きました」
「何着だ?」
「すいません。よそに出払っていて所長専用の『シノビ』とあとは旧型が一着しか確保できませんでした」
そう言って、その社員はテーブルの上に二着の『スーツ』を並べた。
一着は、全身を黒で統一された忍び装束だった。体にぴたりと沿う上衣に、動きやすそうな細身の脚絆。腰には黒い帯が巻かれ、余計な装飾は一切ない。光沢を抑えた生地が、どこか只者ではない雰囲気を醸し出していた。
これが、おそらく所長専用の『シノビ』なのだろう。
私はもう一着を手に取る。
旧型と呼ばれていたそれはシノビとは似ても似つかなかった。色はシノビと一緒で黒だが、材質が全く違う。まるでゴムのようだった。
旧型を広げてみる。装飾はまるでなく顔を出すであろう部分に穴が開いているだけの簡素なものだった。これじゃまるで――
「――ウエットスーツみたい」
スキューバダイビングなんかでよく見るアレ。
一度そう思ったら、もうそれにしか見えない。
そこでふと視線を感じる。気が付くと、スパダリ課の全員が私を見ていた。
「え!? え!? なんですか」
熊さんが私の肩をポンと叩く。
「奈々ちゃん。よろしくね」
「ええぇえ! ムリです、ムリです。やったことないですし」
「みんな役割あるし」
「イヤですよぉ。熊さんやってください」
「ボクがこれ着ると破けちゃうんだよ」
そう言うと、熊さんは申し訳なさそうな顔をした。
私は身代わりを探すため他の社員を探した。
サッ。一人の社員と目が合う。
「最近腰が痛くて」
サッ。視線を移す。
「ゴムアレルギーなんで」
サッ。視線を別の社員に移す。
「何事も若いうちに経験しないとね」
サッ。さらに別の社員へ視線を移す。
しかし、もう誰一人として私と目を合わせようとしなかった。
……そこで、私は気づいた。スパダリ課のみんなが、手元の書類を見つめたり、端末を操作したり、やけに熱心に仕事をしている――フリをしていることを。
――この人たち。
こうなったら泣き落としだ。
私はもう一度熊さんに向き直ろうとしたところに声がかかる。
「朝倉。頼む。時間がないんだ」
所長の声に、私は振り返った。
その表情を見て、言いかけた言葉が喉につかえる。
いつもの余裕のある笑みはない。真っ直ぐに私を見つめるその目には、一刻も早く事態を収拾しなければならないという焦りと、私に託そうとする真剣な思いがにじんでいた。
……そんな顔、ずるいじゃないですか。
ここで断れるほど、私は薄情じゃない。
「……はい」
私は諦めたように、小さく息を吐いた。
◇
実演室に隣接した着替え部屋で、私はスーツに着替えることになった。
旧型のスーツは、見た目だけでなく着心地までウェットスーツそのものだった。体にぴったりと張りつくうえ、慣れていない私には一人で着ることなど到底できない。結局、ほかの女子社員たちに手伝ってもらい、なんとか着用に成功した。
着替え部屋を出ると、所長はすでに着替えを済ませていた。
ゲートの前には、バリスタを思わせる奇妙な装置が置かれている。所長はその前に立ち、何やら機器の状態を確認していた。
私が出てきたことに気づくと、所長は確認の手を止め、腕を組んだ。
「おそいぞ、朝倉」
黒を基調とした忍び装束は、所長のために誂えたのではないかと思うほど見事に似合っていた。
体に沿った装束が、広い肩幅と引き締まった体つきを際立たせている。腰に巻かれた帯も、腕や脚を覆う黒い布も、無駄な装飾がないぶん、所長の整った顔立ちをいっそう引き立てていた。
長い黒髪が肩からさらりと流れる。
いつものスーツ姿とはまるで違って、静かな佇まいなのに、そこにいるだけで目を引く存在感があった。その姿は忍者というより、まるで物語のラスボスか、伝説の暗殺者。こんな人が闇夜に現れたら、敵だって思わず見惚れてしまうんじゃないだろうか。
「すみ……ません……」
私は、思わず言葉に詰まった。
ふと、ガラスに映った自分の姿が目に入る。
隣に立つ所長と、見比べてみた。
――だっせぇぇぇええー!!
真っ黒なスーツに、顔だけがぽっかり浮かんで見える。歩くたびに、足元からペタペタと情けない音まで響いてくる。
それに比べて、所長はどうだ。
全身黒ずくめの忍び装束を完璧に着こなし、立っているだけで絵になる。
……差がありすぎない!?
あまりにも情けない自分の姿に、私は泣きたくなった。
「……所長」
「なんだ?」
「……して……さい」
「ん?」
「交換・して・ください! 私もそっちの忍者みたいなやつがいいですっ!」
「な、なに言ってるんだ!? もう時間がないし、これは専用だから――」
「絶っ対嫌です。そっちじゃなきゃ行きませんっ」
なおも食って掛かろうとした私の左腕を誰かがつかんだ。
「はい、奈々ちゃん。これなくさないように気を付けてね」
振り向くと、熊さんが私の左の手首に小型のタブレット端末を素早く取り付ける。
「……なんですか、コレ」
「このタブレットでこっちとやり取りしたり、物語の様子をリアルタイムで見れるんだ」
見ると所長の左腕にも同じタブレットがついている。
タブレットの画面を見ると、中では王国が帝国の襲撃を受けている最中だった。
「あとはアレか……」
そう言うと、所長は黒い円の中央まで歩いていき、天を仰いだ。
――ん?……アレ??
「バビロンウィンドゥ・起動」
所長の声と共に、黒い円から光が立ち上った。
光はゆらめきながら上昇し、所長の頭上へと集まっていく。やがて、幾重にも重なった光が横へと広がり、巨大な一枚の画面を形作った。テストの際、実演室の背景を生み出していた光だ。しかし、今度は風景を描き出す代わりに、画面いっぱいに文字が浮かび上がり始めた。それは、目で追うのも難しいほどの膨大な量だ。
「えぇ……これって。――まさか!」




