第十六話 テストは安全に
「シーン、2の029っ」
黒い円の中が夜に変わる。森の木々が倒れる音と人の悲鳴が交差する。ときには爆音が響いていた。
シーン2の029ってたしか……。
モニター上のシーン割を見る。
前線陣営に慰問にきたリディア姫。王宮から遠く離れ、会うことができなかったダザムに久々に会えると心を弾ませる。だが、運悪く陣営に突如、魔物の群れの暴走『スタンピード』が発生する。命からがら逃げだしたリディアはお付きの騎士とはぐれ、一人森の中を逃げ惑う。
……おぉ、なかなか緊迫したシーンだ。
実演室に視線を戻す。
◇
リディアは一本の木に手をつき、俯いたまま肩で息をしていた。
さっきまでの優雅な姿は、もうどこにもない。
淡い水色のドレスは泥に汚れ、裾のレースはところどころ破れている。腰まで届いていたエメラルド色の髪も乱れ、頬には細い枝で擦ったような傷が残っていた。
それでも、その姿はどこか痛々しいほど美しい。
リディアは荒い呼吸を繰り返しながら、唇を噛みしめていた。
やがて――ぎゅっと結ばれていた下唇から、少しずつ力が抜けていく。
そして、震える唇から、小さな声がこぼれた。
「……ダザム」
切なく、儚い声。
森の奥へ逃げていくこともなく。
誰かに届くこともなく。
ただ、静まり返った森の中へ、ぽつりと落ちていった。
パキッ。
森の静寂を、乾いた音が裂いた。
「……っ」
リディアの肩が跳ねる。ゆっくりと顔を上げ、音のした方へ振り向いた。
そこに――一匹の魔物が立っていた。巨大な牡牛を思わせる姿の魔物。盛り上がった筋肉に覆われた巨体に太い首。地面を踏みしめる四本の脚。そして、その両目は――禍々しく赤く輝いていた。
「……ひっ」
声にならない息が漏れた。
魔物が、一歩近づく。
ズン。
地面がわずかに震えた。
リディアは動けなかった。
――逃げなきゃ。
頭では分かっている。けれど、足が動かない。
魔物との距離が、さらに縮まる。鼻先から、白い息が漏れた。
ブルルル……。
生暖かい吐息が、リディアの頬を撫でる。
――近い。
リディアは息を詰めた。
魔物が頭を低くする。そして、後ろ足で地面を掻いた。
ザッ、ザッ。
土が跳ね、その巨体が今にも飛び出そうとしている。
「……逃げ、なきゃ……」
リディアは震える手を地面につき、立ち上がろうとする。
けれど――。
「……っ」
力が入らない。何度も転び、走り続けた。もう、立ち上がるだけの体力すら残っていなかった。
魔物が低く唸る。
赤い目が、リディアを捉えた次の瞬間――。
ドンッ!
地面を蹴り、巨大な魔物が突進してきた。
「――!」
逃げられない。
迫ってくる巨体。撒きあがる土煙。地面を揺らす轟音。
リディアはぎゅっと目を閉じ、覚悟を決める。
「――ダザムッ!」
森の中に、悲鳴にも似た声が響き渡った。
ドォン!
轟音が鳴る。
だが――痛みはない。体は無事だった。恐る恐る目を開けると眼前には土埃が激しく舞っていて何も見えなかった。次第に土埃が落ち着いてくる。すると、その中で月明かりに照らされた牡牛にも負けないほどにたくましい背中が見えた。
この背中を、私は知っている――。
「ご無事ですか、姫」
「――ダザムっ!」
その声には隠しきれない喜びが滲んでいた。
視界の端にはダザムに殴られた牡牛が木の下で気絶している。
「遅くなり申し訳ございません。他の者ももうすぐ来るはずです」
振り向いたダザムは傷だらけだった。その体には鎧はない。魔物の群れを抜けるために、途中で脱ぎ捨ててきたのだろう。いたるところから血が流れ、体中に痣ができている。
「もちろんカインもすぐここに――」
それ以上言葉を発することができなかった。リディアが抱き着いてきたからだ。ダザムは一瞬びっくりしたような顔をしたが、すぐ優しい表情を浮かべる。よほど怖かったのだろう、そう思ったダザムはそっとリディアの両肩に手を置いた。
「もう大丈夫です。俺が来たから」
「あなたはいつもそう。わたしのためにこんなに傷ついて。もっと自分を大切にして。だって――だって、わたしはあなたのことが――」
メキメキメキ
リディアの切実な声を遮るように、森の中で不穏な音が響いた。
振り向くと、牡牛のぶつかった木が根元から折れ始めていた。
「あぶないっ」
ダザムが姫を守るように抱き寄せる。
大きな胸に抱かれた姫は驚きつつも頬を染め、その口からは甘い吐息が漏れた。
「あっ……。……あが!? あがががががががが」
メキメキメキ……バキっ
もう一度音がする。
――ただし、今度はリディア姫の背骨から出た音だった。
◇
「ふ、ふごう……カクッ」
不自然なほどにエビぞりになったリディア姫、もとい神楽坂所長の体。さかさまになった頭からエメラルド色のウィッグがずれ落ちる。所長は白目をむき、口から泡を吹いていた。
森の背景は消え、元の実演室に戻る。
「大丈夫ですか、所長ぉぉー!」
スパダリ課のみんなが駆け寄った。私も駆け寄りながら、ダザムのパラメーターを思い出す。
――【腕力:悪魔的】。
悪魔。そう、悪魔すぎたのだ。
社員の手を借り、ダザムの悪魔の抱擁から解放された所長は息を吹き返していた。
ふらついた体を熊さんに支えられ、肩で息をする。その姿からは、先ほどまでリディア姫を演じていた優雅さなど微塵も感じられなかった。
荒い息のまま所長は熊さんの方を向く。
「ハァ……ハァ……。『ガワ』の方のスペックを見落としてた。死ぬところだった」
「悪魔的ってどれぐらいでしたっけ」
「確かSSS超えてEXだ。このままじゃリディアがダザムに殺される。『ガワ』の調整間に合うか?」
「あと二週間ですよね。工場持ってくと時間かかるからウチでやりましょう。調整くらいならここでもできますから」
「二週間後か……ギリギリまで調整してくれ」
……二週間後までギリギリ?
いつもなら調整が終われば即『送り出し』のはずだ。こんなことは今まで無かった。
私は疑問をそのまま口に出した。
「どうしてギリギリまでやるんですか?」
「ん? 言ってなかったか。『ウーホホ』は初回はライブでやるんだ」
ふふ、ウーホホって略すんだ。ん? 今、なんて言った。
「えっ、ライブって……」
「そうだ。生放送だ。だから絶対に失敗できない」
「えええぇーー! なまほうそぉぉーーー」




