その美しい願いを
暗く狭い洞窟の中で、
魔女は布で脇腹をきつく縛り、
小さくうめき声を上げた。
傷が熱を持ち、
額にじっとりと
汗が滲む。
湿度の高い空気を吸い込み、
魔女は長い息を吐いた。
王国兵の執拗な追撃によって
手傷を負った魔女は、
森の奥深くへと逃げ込み、
生い茂る草に入り口を覆われた
小さな洞窟に身を潜めた。
十を超える追手を炭に変え、
すでに魔力は尽きかけている。
周囲に敵の気配はないが、
それが敵の目を欺いた結果か、
罠なのか、
疲労の極みにある魔女には
判断がつかない。
洞窟の中に
荒い息だけが響く。
『予言が
成就しようとしている』
魔女のポケットがもぞもぞと動き、
中から漆黒の球が飛び出す。
魔女は洞窟の壁に背を預けながら、
黒球をにらんだ。
「勝手に出てくるな。
呼んでない」
黒球が半ばから左右に裂けて口を形作り、
一つ目が浮かびあがる。
笑みの形に目を歪め、
黒球――力を失った悪魔の残滓は言った。
『悪魔を滅ぼして後、
太陽は沈み、
月は光を失う。
陽光を求めて星は流れ、
世界は闇に包まれるだろう』
「黙れ!」
叫び、
魔女は痛みに顔を歪ませる。
黒球はふよふよと漂いながら
侮るように言った。
『そんなこと言わないで。
僕は君の疑問に答えるために
出てきてあげたんだよ?』
魔女は訝るように
眉を寄せる。
大きな一つ目が
魔女の目を覗き込んだ。
『どうして、今さら?』
黒球はそう言って
クククと嗤う。
『山に逃れて
世俗と距離を取ったのは正解。
でも、
情報まで遮断したのは
大失敗だ。
都の様子に気を配っていたら
結果は違ったかもね』
魔女は不快そうに鼻にシワを寄せる。
「説教を聞く気はない」
あらら、と残念そうにつぶやき、
黒球は一つ瞬きをする。
そしてしたり顔を作り、
教え諭すように言った。
『この国じゃ今、
増税に端を発した民衆の不満が
暴発寸前の状態にある。
人々は生活の苦しさから
現王に見切りをつけ、
新たな王を望んだ。
世界を呪う悪魔を討った
太陽の王子を
王に戴くことを』
「ばかな!
そんなこと――!」
『そう』
魔女の悲鳴のような叫びに
黒球は同意するようにうなずく。
『そんなことはありえない。
太陽の王子が王になるなんてね。
けれど世の人々は
英雄が静かに消えることを許さない。
世界を救ったその後は
自分たちを救えと迫るのさ。
英雄とは
民衆の奴隷の異名なのさ』
魔女の視線が揺れる。
息苦しさに胸を押さえる。
呼吸が早く短くなった。
黒球は面白そうに
身体を左右に揺する。
『市中には
太陽の王子は側室一派の陰謀で王宮を追放された
なんて陰謀論がまことしやかにささやかれてる。
そして
太陽の王子が戻ってくれば
悪党どもを一網打尽にして
皆を救ってくれると信じてるんだ。
王はこの状況を危険視し
事態の収拾を図った。
それが今朝の襲撃の正体、
ってわけさ』
魔女は固く目を閉じ、
目を開けて黒球をにらみ据える。
「……お前は嘘を言っている。
私のポケットにずっといたお前が
都の様子など知るはずもない」
『知っているさ』
魔女の断定をはぐらかすように
黒球はくるりと身体を一回転させた。
『僕は願いを叶える装置だと言ったろう?
世界の祈りも
世界の願いも
僕は全て知ってる。
身勝手で浅薄な
人の全てを』
黒球は声を低くする。
『王子は
君と姫の命の保証と引き換えに
無実の罪で処刑されることを
受け入れたよ』
「どうして、
勝手に!」
思わず叫び、
身を乗り出そうとして、
魔女は脇腹を抑えて
身を屈める。
黒球は皮肉げに
口の端を上げた。
『自分の有様を
見てから言ったらどう?
まさか
この洞窟に逃げ込めたのが
偶然や敵の油断や
自分の実力とでも
思っているの?
君がここにいるのは
王子との取引によって
追手が引き上げたからだよ。
王子が望んでくれなければ
君はとっくに死んでる』
身を屈めたまま
魔女は唇を噛む。
黒球は魔女を見下ろしている。
『都に着けば王子は
存在しない叛乱計画の首謀者として
処刑される。
さあ
どうする?
どうすればいいと思う?』
「……黙れ」
絞り出すような魔女の否定を
黒球は無視して言葉を続ける。
『予言は着実に
成就へと向かっている。
月の姫だって
偶像足りうる存在だ。
王が王子との約束を
律儀に守るとは限らない。
迷う時間があるのかい?
君の大切な二人が
この世から消されてしまうよ?』
「黙れ!」
『教えてあげようか?
正解を。
どうすれば二人を
守ることができるのか』
魔女は目を閉じ、
固く口を引き結ぶ。
魔女の耳元に寄り
黒球は囁くように
優しく言った。
『この世に悪魔がいればいい』
魔女は勢いよく顔を上げる。
黒球の目が微笑みの形に歪む。
『考えてもみて。
予言は
悪魔を滅ぼして後
とある。
悪魔が滅ぶことが
この予言の前提なんだ。
運命を変えるなら
前提を崩すしかない』
「そんな、こと……」
魔女が弱々しく否定する。
黒球は魔女の顔の正面に回り
まっすぐに見る。
『世界が再び危機に陥れば
人々は必ず
英雄を求める。
悪魔を討つことができるのは
太陽の王子と月の姫だけ。
ならば
悪魔がいる限り
英雄は求められ続ける。
求められ続ける限り
二人は生きていられる』
魔女の身体が小さく震える。
黒球は挑発する。
『二人を助けたいだろう?
死なせたくないだろう?
でもこのままじゃ
二人は世界にすり潰される。
自分のことしか考えない
身勝手な連中の生贄にされる。
世界を救った君たちへの
それが
世界からの返答だ』
魔女の瞳が小さく震える。
黒球は触れるほどに
魔女に近付いた。
『君になら
二人を救える。
君が
二人を救うんだ。
君にしか
二人は救えない。
君だけが
二人を救えるんだ』
瞬きも忘れ
魔女は黒球を見つめる。
黒球は詰めるように
まくしたてた。
『さあ、
どうする?
二人を助ける?
それとも見捨てる?
ためらう時間はもうないよ?
そら、
今この時も、
王子は処刑台に向かってる。
断首台の刃が
都の広場に準備されている。
救うなら今しかない。
今、決めるんだ。
二人を救うのは君だ。
二人を殺すのも君だ。
君の願いが未来を決めるんだ』
魔女の眼から
一粒の涙がこぼれる。
傷口が焼けるように疼く。
苦しい。
何も考えられない。
『二人が大切だろう?
失いたくないんだろう?
大切な人を守る、
その美しい願いを
僕は叶えよう。
さあ、
望め!
未来を!
君が――』
黒球は陶酔したように叫ぶ。
『――悪魔になるんだ!』
「ああああああああぁぁぁぁぁーーーーーーっ!!」
言葉にならぬ想いを吐き出し、
魔女は黒球に手を伸ばす。
黒球を掴むと
その形は容易く潰れた。
黒球を潰した手が
黒く染まっていく。
黒は魔女の全身を覆い
涙さえも黒く染めた。
陽光を求めて
星は流れる。
予言の通りに。
そして
世界に再び
悪魔が降り立つ。




