第8話
「……私、家に帰るわ」
結局、最後にそう口にするのが精一杯だった。
食べかけだったイチゴパフェの最後のひと口を無理やり口の中へ押し込み、ぬるくなり始めたカフェオレを喉へ流し込むと、甘ったるいミルクの味とイチゴソースの酸味が変に混ざり合って、胸の奥にじわっと重たい感覚だけが残った。さっきまでなら「美味しい」で終わっていたはずなのに、今はその味すら現実感を強める材料にしかならなくて、私は視線を逸らすように窓の外へ目を向けた。
雪はまだ降っていた。
街灯のオレンジ色の光に照らされた白い粒が風に流されながら静かに舞い落ちていて、車道の端に積もった雪の表面を通り過ぎる車のヘッドライトが濡れたみたいに光らせている。その景色は間違いなく「冬」そのもので、さっきまで自分がいたはずの夏の世界とはまるで別の場所みたいだった。
亮平はその間も、ぽつぽつと何かを話していた。
“未来”。
“歴史”。
“運命”。
“存在していない”。
どれも言葉そのものは知っているはずなのに、今の私にはその意味が上手く飲み込めなかった。まるで知らない国の言葉を、日本語っぽい響きだけで無理やり理解しようとしているみたいに頭の中で言葉だけが空回りしていく。
でも別に、亮平の話が嫌だったわけじゃない。
むしろ逆だった。
もし全部ただの冗談なら、どれだけ楽だっただろうと思う。
「なんやそれ、映画の見すぎやろ」
そう言って笑い飛ばしてしまえば済む話だった。けれど亮平は、最初から最後まで一度も笑わなかった。茶化すことも誤魔化すこともなく、まるで本当に“それ”を経験してきた人みたいな目で私を見ていた。
その目が怖かった。
冗談には見えないのに、現実とも思えない。
その曖昧な境界線の上に自分が立たされている感覚が、どうしようもなく気持ち悪かった。
私は椅子を引いて立ち上がると、そのまま逃げるみたいにオニオンズのドアを押し開けた。店内の暖房で温められていた頬に、外の冷たい空気が一気にぶつかってくる。息を吸い込むと鼻の奥がつんとして、肺の中まで冬の空気が入り込んでくるのがわかった。
寒い。
でも、それ以上に頭の中がぐちゃぐちゃだった。
背後から亮平の声が聞こえた気がしたけれど、私は振り返らなかった。そのまま雪の積もった歩道を蹴るように走り出す。
きゅっ、きゅっ、と雪を踏む音が耳の奥で響く。
吐き出す息は白く、街の明かりの中へ溶けていく。
冬の住宅街は驚くほど静かだった。クリスマスイブだからなのか、雪のせいなのか、普段なら車通りの多い道まで妙にひっそりとしていて、遠くの国道を走るトラックの音だけが、低くくぐもった響きで空気の奥から聞こえてくる。
その静けさが、逆に怖かった。
見慣れているはずの街なのに、全部が少しずつ違って見える。
コンビニの前に積もった雪。
信号機の上に被さる白。
商店街のアーケードに吊るされたクリスマス用の電飾。
どれもちゃんと“神戸の街”なのに、そこに流れている時間だけが私の知っているものと噛み合っていない。
私は本当につい数時間前まで、蝉の声を聞いていたはずなのだ。
制服の袖から入ってくる湿った夏の風にうんざりしながら、英語の授業だるいなとか、今日の放課後どうしようかなとか、そんなくだらないことを考えながら歩いていた。
それなのに今は、雪が降っている。
世界そのものが、前触れもなく裏返ってしまったみたいだった。
家へ辿り着いて玄関のドアを開けると、暖房の効いた空気がふわっと身体を包み込んだ。灯油ストーブの匂いと、晩ご飯の準備でもしているのかキッチンの方から漂ってくるコンソメスープみたいな匂いが混ざっていて、その生活感が逆に胸の中を締め付ける。
「どこ行ってたん?」
リビングの方から誰かの声が聞こえた。
たぶん母さんか、もしかしたら梨紗だ。
でも私は返事をする余裕がなくて、そのまま視線も合わせずに二階へ駆け上がった。階段を上がる自分の足音だけがやけに大きく響いて、逃げるみたいに部屋へ飛び込む。
ドアを閉める。
鍵をかける。
制服も脱がないままベッドへ倒れ込み、毛布を頭から被った。
――夢なら、早く覚めて。
本気でそう思った。
こんなの、現実なわけがない。
だっておかしいじゃないか。
朝まで確かに夏だったのだ。
海沿いの湿った風も、アスファルトから立ち上る熱気も、コンビニの前で鳴いていた蝉の声も、全部ちゃんと存在していた。
なのに気づけば雪が降っていて、今日は2013年のクリスマスイブらしい。
意味がわからない。
自分が今いるこの世界が“どこ”なのかを考えようとすること自体、たぶん普通じゃない。でも普通じゃないことが、今まさに現実として起きているのも確かだった。
目を閉じても、頭の中にはさっきの会話が何度も浮かんでくる。
“キミは未来から来た”。
“キミは死ぬ”。
“未来ではもう存在していない”。
考えないようにしようとしても無理だった。
だって目を開ければ、世界の色そのものが変わってしまっている。
昨日まで――いや、ついさっきまで見ていたはずの夏の景色が、どこにもない。
海の上できらきら光っていた青。
夕方になると白く霞んで見えるアスファルト。
汗ばむ制服。
入道雲。
そういう“夏”の色が、全部どこかへ消えてしまった。
代わりにあるのは、どこまでも白く、冷たく、静かな冬だけだった。
私は毛布の中で小さく息を吐いた。
みんな、どこに行っちゃったんだろう。
キーちゃんも。
学校のみんなも。
朝まで確かに存在していたはずの“私の日常”そのものが、世界から切り離されてしまったみたいだった。
外へ出れば何か変わるかもしれないと思った。
けれど実際は逆だった。
外へ出れば出るほど、余計に混乱する。
街はちゃんと存在している。
コンビニも、信号機も、商店街も、全部そこにある。
なのに流れている時間だけが違う。
しかも久しぶりに再会した幼馴染は、“自分は50年後から来た65歳だ”なんて、冗談みたいなことを真顔で言い出す始末だ。
もう何を信じればいいのかわからない。
カレンダーは2013年。
私は2014年から来たらしい。
しかも半年後に死ぬ予定らしい。
意味がわからなさすぎて、逆に笑えてきそうになる。
でも笑えない。
頭の奥ではずっと、あの交差点の記憶がちらついていた。
クラクション。
巨大な影。
身体が浮く感覚。
地面が消える瞬間。
あれが現実だったのなら。
もし本当に私は一度死んでいるのなら。
――今ここにいる私は、なんなんだろう。
考えれば考えるほど、不安だけが胸の中に積もっていく。
これからどうすればいいんだろう。
別に何かを期待しているわけじゃない。
むしろ、何も起きないでほしい。
ただ元の夏へ戻りたい。
英語の小テストがどうとか、花火大会がどうとか、そんなくだらないことで悩んでいた日常へ戻りたい。
なのに世界は、何事もなかったみたいに進んでいく。
テレビからはクリスマスソング。
窓の外には雪。
家族は普通に笑っている。
おかしいのは私だけみたいだった。
ひょっとしたら、本当に死んでいるのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、背筋がぞくっと冷えた。
私は慌てて胸に手を当てる。
ドクン。
ドクン。
ちゃんと音がした。
心臓が動いている。
でも、その音をどこまで信じていいのかわからない。
夢の中だって走れば苦しくなるし、転べば痛い。
今感じている“現実っぽさ”が、本当に現実である保証なんて、どこにもない。
私は布団の中でじっと耳を澄ませた。
心臓の鼓動。
自分の呼吸。
暖房の低い駆動音。
窓の外を吹き抜ける風の音。
全部ちゃんと聞こえる。
なのに、そのどれもが少しだけ遠く感じた。
まるで薄いガラス一枚を挟んで世界を眺めているみたいに、自分だけが現実から半歩ずれている感覚が消えない。
私は胸に当てた手へ、そっと力を込めた。
この鼓動は、本当に“私”のものなんだろうか。
いつもと変わらない日常の中に、この音はちゃんと存在しているんだろうか。
もし私が本当に死んでいるのだとしたら。
もしここが、“死んだあとに辿り着いた世界”なのだとしたら。
――今こうして鳴っているこの心臓は、一体なんなんだろう。




