第9話 九尾の再訪と、広がっていく夜の輪
あれから数日が経過した。
皇都のメインストリートに堂々と店を構える高級居酒屋『宵月』に関する噂は、瞬く間にこの街のあやかしたちの間へと広がり、そしてここ『やどりぎ』のカウンターにまで届いていた。
「いやぁ、聞いてくれよ千歳のお嬢ちゃん! 最近の『宵月』はマジですげえことになってるぜ」
いつものように仕事帰りに立ち寄ってくれた門兵の迅さんが、大衆向け麦酒のジョッキを豪快に傾けながら、興奮気味に声を弾ませた。
その隣で翔琉さんも、串焼きを頬張りながら深々と頷く。
「そうそう! 以前のあの気取った感じも悪くなかったけどさ、最近の宵月は一味違うんだよ。高級な雰囲気はそのままで、なんというか……こう、心からホッとするような絶品の家庭料理や、お酒がグイグイ進む粋なおつまみが出されるようになってさ。敷居が少し下がったおかげで、俺たちみたいな柄の悪い連中でも気兼ねなく通えるようになったんだ」
「へえ、それはすごいですね。玉藻さんも、きっとすごく頑張っていらっしゃるんですね」
私がグラスを拭きながら嬉しそうに微笑むと、迅さんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ああ。何でも、あのプライドの高い九尾の女将が、最近じゃすっかり柔らかい笑顔を見せるようになって、常連の間じゃ『あの女将に何があったんだ? まるで別人のように魅力的になった』ってもっぱらの評判さ。客足が戻ったどころか、以前よりも大繁盛で予約を取るのも一苦労らしいぜ」
「そうなんですね……。なんだか、私まで誇らしい気持ちになっちゃいます」
あの日、我が『やどりぎ』に怒鳴り込んできた玉藻の切羽詰まった表情と、料理人としての誇りに満ちた横顔が脳裏に蘇る。
彼女は自分のプライドを一度かなぐり捨てて、私が伝授した引き算のレシピや家庭の味を真摯に受け入れ、自分の店へと見事に昇華させたのだ。そのプロとしての決断力と実行力には、同じ料理人として心から敬意を抱かざるを得なかった。
ライバル店という関係を超えて、お互いに切磋琢磨できる良き仲間ができた。その事実が、異世界であるこの『かくりよ』の片隅で生きる私にとって、どれほど心強い支えになっていることか。
店の中では、看板娘のミミちゃんが「お待たせしました、冷えたビールです!」とテキパキとお盆を操りながら常連客に笑顔を振りまき、その足元では看板狐のコユキが「キュッ」と愛らしい鳴き声を上げて客の足にじゃれついている。
オープン当初の静けさが嘘のように、この『やどりぎ』はたくさんの温かい縁を紡ぎながら、日々着実に成長を続けていた。
§
それからさらに数日が過ぎた、ある日の夕暮れ時。
開店前、仕込みを終えた私が、カウンターの端でコユキと遊んでいた時のことだった。
カラン、と心地よい引き戸の音が店内に響いた。
「お邪魔するわよ。あら、今日も一番乗りかしら?」
ふと顔を上げると、そこに立っていたのは、見事な九尾の尾を優雅に揺らし、艶やかな着物を纏った美貌の女性──玉藻さんだった。
今の彼女は、あの時のような殺気や刺々しさは微塵もなく、その表情には余裕と洗練された大人の色気が満ちあふれている。その両手には、いかにも高級そうな木箱が抱えられていた。
「あ、玉藻さん! いらっしゃいませ!」
私がパッと顔を輝かせて出迎えると、玉藻はふっと麗しい笑みを浮かべ、カウンターの特等席へと歩み寄った。
「こんにちは、千歳。今日も良い香りが漂っているわね。この店はいつ来ても居心地がいいわ」
「ありがとうございます。どうぞ、一番座りやすい席に座ってくださいね」
玉藻さんが腰を下ろすと同時に、すたすたと足音を立ててミミちゃんが冷たいおしぼりを持ってやってきた。
オープン当初は、恐ろしげな九尾の女将の剣幕に怯え、私の背中に隠れてブルブルと震えていたミミちゃんだったけれど、今やもうすっかりそんな面影はない。
「いらっしゃい、玉藻お姉さん。おしぼり、どうぞ!」
ミミちゃんは背筋をピンと伸ばし、お盆の上に載せたおしぼりを両手でしっかりと差し出した。
その健気で可愛らしい様子に、玉藻さんはふっと目を細め、まるでお姉さんのような優しい眼差しを向けながら、頭をそっと撫でた。
「あら、ありがとうね、ミミ。相変わらず働き者で可愛い看板娘ね、あなたは見ているだけで癒やされるわ」
「えへへ……ありがとう!」
ミミちゃんは嬉しそうに照れ笑いを浮かべ、しっかりとペコリとお辞儀をしてから厨房のほうへと戻っていった。
その成長した姿をしみじみと眺めながら、私は玉藻さんが抱えていた立派な木箱に視線を移した。
「それにしても、その木箱は一体……? 何か持ってきてくださったんですか?」
「ふふ、これ? 先日のお礼をまだちゃんとしてなかったからね。あなたが教えてくれたレシピがすごい大評判になってしまって、おかげで『宵月』の売上も客足も完全にV字回復よ。これはそのお礼の、人間界じゃなかなか手に入らない『極上の霊果の詰め合わせ』。ぜひお店で使ってちょうだい」
玉藻さんが差し出した木箱の蓋をそっと開けると、そこには宝石のようにツヤツヤと輝く、見たこともないほど美しく芳醇な香りを放つ果物たちが並んでいた。
これだけの代物をサラリと手土産に持ってくるあたり、さすがは大繁盛店の女将である。
「わあ……すごい! ありがとうございます、玉藻さん。デザートや果実酒の仕込みに使わせてもらいますね!」
「ええ、期待しているわ。それじゃあ、今日も極上の料理と美味しいお酒をたっぷり楽しませてもらうとしましょうか。まずは、いつものアレをお願いできるかしら?」
「はい、かしこまりました!」
私が威勢よく返事をし、手際よくグラスや調理器具の準備を始めようとした時だった。
頭の中に、ふと心地よい鈴の音のようなシステム音が響いた。
《システム通知:店舗の貢献度および累計の霊格の澱が規定値に達しました》
《これより、位階が上昇します》
《【霊位一階(初階)】 ⇒ 【霊位二階(中階)】》
瞬間、目の前の空間がわずかに揺らぎ、見えない波紋が店全体に広がっていくのが分かった。
「おや……?」
わずかな気配の変化を敏感に察知したのか、玉藻さんがふっと首をかしげ、周囲を見回した。
「どうかしましたか、玉藻さん?」
「ううん……なんだか今、この店全体を包む霊気がフワッと一段階、豊かになったような気がしたけれど……気のせいかしら?」
「さすがですね、玉藻さん。実は……今ちょうど、お店の位階が上がって『霊位二階』になったところなんです」
私の言葉に、玉藻さんは目を丸くした。
「あら、そうなの!? おめでとう、千歳! 順調に店が大きくなっている証拠じゃない」
「ありがとうございます! おかげさまで、お店の空間も以前より少し広くして、座席数もカウンターだけでなく、奥にちょっとした小上がり席が増やせるようになったみたいなんです」
「お店の規模まで変わるのね。不思議なこと」
そう、システムが拡張されたおかげで、このこぢんまりとした空間は、より多くのあやかしたちをゆったりと迎え入れられるキャパシティを手に入れていた。
そして何より大きいのは、『八百万神恵堂』で交換できるラインナップが一気に豪華になったことだ。
私は嬉しそうに微笑みながら、玉藻さんの前に新しいお品書きをそっと差し出した。
「そういえば、お店の位階が上がったことで、扱えるお酒の種類も一気に増えたんです。せっかくですから、今のうちの自慢のラインナップをご紹介しますね」
「へえ……どんなお酒が加わったのかしら。見せてちょうだい」
玉藻は興味津々な様子でお品書きを広げた。
そこに並ぶ文字を見た彼女の瞳が、さらに驚きで見開かれる。
「これは……!」
「はい! 仕入れられるようになったのは、まず定番の雑酒やビールだけじゃなく、キリッとした喉越しと芳醇な香りが楽しめる『上等な清酒』。それから、麦の香ばしさと深いコクがたまらない、少しダークな色合いの『黒ビール風の麦酒』。さらに、芳醇な樽の香りとまろやかな口当たりが大人な『樽熟成の白ワイン』に、ピートの香りが漂う本格的な『スコッチ風ウイスキー』、そしてそれを炭酸で爽やかに割った『クラシック・ハイボール』なんかもご用意できるようになりましたよ!」
人間界のバーや高級居酒屋に引けを取らない、贅沢な酒の数々。
それらを目の当たりにした玉藻さんは、感嘆のため息を漏らしながら、パタパタとお品書きを扇子のように軽くあおいだ。
「まさか、こんな隠し球を手に入れたなんてね……。大衆的な居酒屋の顔をしていながら、裏ではこれだけの銘酒を揃えているなんて……どれもかくりよでは入手が困難なお酒よ」
「ふふ、ありがとうございます。せっかく来てくださるお客さんたちに、もっといろんな楽しみ方をしてほしいですからね」
「そうね……。これだけのラインナップを揃えられたのなら、うちの店もうかうかしていられないわね。ライバルとして、ますます気が抜けなくなっちゃったわ」
玉藻さんは口元に艶やかな笑みを浮かべながら、どの酒にしようか楽しそうに思案し始めた。
「あら、そういえば……さっきのお品書きの中に、『上等な清酒』があったわね?」
「はい、ございますよ!」
「じゃあ、それを冷酒で一杯いただこうかしら。今日の小鉢に一番合いそうだし、その味を試してみたいわ」
「かしこまりました! それでは、さっそく最高に冷えた上等な清酒をお持ちしますね!」
手際よく氷で冷やした美しい切子のグラスに、透き通るように綺麗な『上等な清酒』をトクトクと注ぎ入れ、玉藻の目の前へとそっと差し出す。
グラスの表面にはうっすらと涼やかな水滴がつき、そこから立ち上るお米の芳醇で上品な香りが、周囲の空気をふわりと潤した。
「お待たせいたしました。当店自慢の冷酒になります」
「ありがとう」
玉藻さんは切子のグラスを指先で上品につまみ上げ、まずはその香りをゆっくりと楽しむように軽く鼻を近づけた。
そして、涼やかな瞳を細めながら、一口だけ少量を口に含む。
その瞬間、彼女の美しい眉がふわりと緩み、陶酔したような吐息が零れ落ちた。
「! あら……これは……!」
「いかがですか……?」
「すごく……澄んでいるわ。雑味が一切なくて、お米のふくよかな甘みと上品な旨味が口いっぱいに広がりながら、スーッと綺麗に喉の奥へ消えていく……。冷酒にすることで、そのキレの良さが一層引き立っているわね。これは素晴らしいお酒だわ、千歳」
玉藻さんはすっかり気に入った様子で、グラスを見つめながらもう一口、美味しそうにクイッと飲み干した。
「気に入っていただけてよかったです! それでは、そのお酒に最高に合う最初のお通しをお持ちしますね」
私は厨房に戻り、先ほど仕込んだばかりの新鮮な食材を使って、手際よく小鉢を仕上げた。
あの一件をきっかけに、すっかり私の良きお姉様的存在、そして何でも話せる親友のような関係になった玉藻さん。
彼女はカウンターに戻ると、冷酒のグラスを片手に、私に向けてクスリと笑った。
「そういえばね、千歳。最近のこの皇都の裏事情というか、あやかしたちの間での新しいトレンドについて、耳寄りな情報があるのだけれど、聞いてみる?」
「えっ、本当ですか? ぜひ聞かせてください!」
料理人をしながら、あやかしの街のトレンドや裏事情を知ることは、店の経営や新しいメニュー開発のヒントになる。私は興味津々でカウンター越しに身を乗り出した。
「ふふ、人間には少し分かりにくいかもしれないけれどね……実は最近、この皇都の北部にある古い水脈のあたりで、ちょっとした新しいお祭りというか、季節の行事が流行り始めているのよ。若いあやかしたちの間では、ただ酒を飲むだけじゃなくて、こう、『幻想的な夜の景色と一緒に嗜む』のがステータスになっていてね……」
玉藻さんはしっとりとした声で、あやかしの街特有の興味深い話を次々と語ってくれた。
季節の移り変わりによって好まれる酒の傾向や、どの界隈のあやかしたちが今どんな味に飢えているのかなど、大御所の女将ならではの的確でディープな情報は、聞いていて本当に面白かった。
私たちは冷酒を酌み交わし、美味しい小鉢をつまみながら、まるで何年もの親友であるかのように、他愛のない冗談や料理の情熱について語り合った。
店の中は心地よい笑い声と、和やかな熱気に包まれている。
ミミちゃんやコユキも、楽しそうに私たちの会話のまわりをちょこちょこと行き来しており、まさに理想的な「あたたかな夜のひととき」がそこにあった。
その時──。
不意に入り口のガラス戸がガラリと開かれ、見慣れない人物が入店して来た。




