第8話 九尾の女将と、隠されたスランプ
居酒屋『やどりぎ』の店の中は、開店から間もないというのに、早くも常連客たちの楽しげな話し声と、香ばしい調理の匂いで満たされている。
「おっ、千歳のお嬢ちゃん! 今日の小鉢も絶品だな。このコリコリした食感がたまらねぇ」
「ありがとうございます、迅さん。それ、神恵堂で交換した新鮮な貝を、さっと生姜醤油で和えたものなんです」
カウンターの特等席に陣取った門兵の迅さんが、大衆向け麦酒のジョッキを傾けながら満足そうに笑う。その隣では、翔琉さんがおいしそうに串焼きを頬張っていた。
看板娘のミミちゃんも、見違えるほど手際よくなった足取りで、空いたお皿を下げたりお茶を配ったりと大忙しだ。
コユキは相変わらず常連客たちの足元をちょこちょこと歩き回り、みんなの癒やしとして愛嬌を振りまいている。
外の喧騒とは隔絶された、温かく穏やかな空間。
私はカウンターの奥で、次の注文の仕込みをしながら、ふと胸の内で心地よい達成感を噛みしめていた。この小さな店が、少しずつこの皇都のなかに根を張り、あやかしたちの心のよりどころになりつつある。その事実が、料理人として何よりも嬉しかった。
けれど、そんな平和な日常を切り裂くように、その事件は突然訪れた。
バァン……ッ!!!
突如として、店の入り口のガラス戸が、蝶番が壊れんばかりの荒々しい勢いで開け放たれた。
あまりの強烈な音に、店内の空気が一瞬で凍りつく。客たちの手がぴたりと止まり、全員の視線が一斉に出入り口へと向けられた。
「『やどりぎ』って居酒屋は、ここかいっ……!!」
そこに立っていたのは、周囲の空間を圧倒するような、ただならぬ美貌と、どこか刺々しい殺気を纏った女性だった。
漆黒の夜空を思わせる艶やかな長髪。その背後には、ふさふさとした純白の美しい九尾の尾が、優雅に、そして誇らしげに揺らめいている。着飾った豪奢な着物は、彼女がこの街でも相当な地位にいることを無言で物語っていた。
店内にいた迅さんが、その姿を認めるやいなや、思わず「おや……?」と低い声を漏らし、ビールジョッキをそっとテーブルに置いた。
「どうしたんですか、迅さん。あの人、知り合いですか?」
私が怪訝そうに小声で尋ねると、迅さんは眉間に深い皺を寄せ、面倒くさそうな顔をして私に耳打ちした。
「おいおい千歳のお嬢ちゃん……よりによって、あいつがここに乗り込んきちまったぞ。あの女は、この街の一等地で、華やかな高級居酒屋『宵月』を営む気位の高い女将で、九尾の狐の玉藻だよ。この皇都じゃ、誰もが知る有名店さ」
玉藻……。
噂には聞いたことがあった。皇都のメインストリートに店を構え、富裕層や位の高いあやかしたちを相手に、豪華絢爛な料理と高価な名酒を提供しているという、あの『宵月』の女将。
そんな大御所の店主が、どうしてこんな庶民的な我が『やどりぎ』に?
思考を巡らせる私の前を、玉藻は怒りに満ちた足取りでカウンターへと近づいてきた。その琥珀色の瞳は、怒りと焦燥でギラギラと燃え上がっている。
「ちょっと、そこの人間……っ! あなたね、うちの常連客をごっそり奪っていった小娘っていうのは!」
詰め寄る彼女から放たれる圧倒的なプレッシャーに、ミミちゃんが「ひっ……!」と小さく悲鳴を上げ、私の背中にぴたりと隠れた。コユキも警戒したように耳をペタリと伏せ、「ヴーッ」と小さく威嚇の声を漏らす。
「はあ……その、お客様を奪ったと言いますと……?」
私が戸惑いながら問い返すと、玉藻は怒りを隠そうともせず、両手をカウンターに叩きつけた。
「とぼけないでちょうだい! 最近、うちの店に顔を出していた若い連中や、鼻の利く常連たちが、こぞって『宵月よりやどりぎのほうが旨い』『あっちに通う』って言って、パッタリと足を向けなくなっちまったのよ! ひよっこ人間が、こんなちっぽけな店でうちの客を奪って、のうのうと我が物顔でのさばっているなんて……そんなの、許されるわけがないだろっ!」
その言葉には、ただの嫉妬だけではない、店を背負う者としての切実な焦りと、プライドを傷つけられた深い絶望が混ざり合っていた。
店内にいた迅さんが、見かねたように立ち上がろうとしたが、私はそっと手を挙げてそれを制した。
そして、怯えるミミちゃんの頭を片手で優しくポンと撫でてから、真正面から玉藻さんの怒りに満ちた瞳を見据えた。
怒鳴り込まれたというのに、私の胸の内には不思議と恐怖はなかった。
あるのは、目の前で震えるほどに悔し涙をこらえている、同じ『料理人』の姿に対する共感だけだった。
「……お叱り、ありがとうございます」
私が静かに、そして真っ直ぐな声音でそう告げると、玉藻は拍子抜けしたように目を丸くした。
「は……? なによ、その余裕そうな態度は。今すぐその暖簾を畳んで、この街から出ていけって言ってるのよ!」
「はい。ご立腹な理由も、よく分かります。でも、私は自分ができる精一杯の料理を出しているだけで、誰かの客を無理やり引き抜いたつもりはありません」
私は一歩も引かず、穏やかに言葉を続けた。
「それに……そんなに怒鳴るくらい、今の玉藻さんは追い詰められているんじゃないですか? 本当に自分の料理に絶対の自信があって、店が繁盛しているなら、こんな風にわざわざよその小さな店に怒鳴り込みになんて来ないはずです」
「なっ……! なによ、私をからかってるのっ……!」
「からかっていません。もしよければ……あなたの店のお料理を私に食べさせてください。そして、何がいけないのか、何にお客さんが離れていっているのか、一緒に考えさせてくれませんか?」
私のその真っ直ぐな瞳と、微塵の悪意もない提案に、玉藻さんは息を呑んだ。
彼女の纏っていた棘のある殺気が、わずかに揺らぎ、気圧されたように一歩後ずさる。
「……っ、あんた……なにを……」
「ここでは何ですし、一度座って、落ち着いてお話を聞かせてください。温かいお茶でもお入れしますから」
私が優しく微笑みかけながら空いている席を勧めると、玉藻さんはしばらくの間、信じられないものを見るような目で私を見つめていたが、やがて力なく肩の力を抜いた。
「……勝手なことばかり言って……。まあいいわよ、そこまで言うなら、あんたの腕がどれほどのものか、この私に味見させてみなさいよ」
そう言って、玉藻さんは不機嫌そうに着物の裾を翻し、カウンターの端にどっしりと腰を下ろしたのだった。
§
店内のピリついた空気は、私が淹れたほうじ茶を玉藻さんが一口飲んだことで、ようやく和らいだ。
ミミちゃんも恐る恐るカウンターに戻り、コユキはすっかり安心したのか、再び玉藻さんの足元で丸くなっている。九尾の狐である彼女の着物の裾を、小さな管狐がモフモフとした毛並みで温めているという何ともシュールな光景に、玉藻さんは「……まったく、変な動物ね」と小さく呟き、ふっと頬を緩めた。
「それで……話ってなんなのよ。あたしの店の何がダメだっていうわけ?」
玉藻さんは湯呑みを置き、少しだけトゲを引っ込めた声で尋ねた。
私はカウンター越しに彼女の目を真っ直ぐ見つめ、静かに切り出した。
「実は、最近うちの店に来てくれる常連さんたちから、色々な話を耳にするんです。『宵月さんは相変わらず豪華ですごい料理が出るけれど、最近はなんだか疲れてしまう』って」
「疲れる……? うちの料理が?」
「はい。高級食材をふんだんに使い、見た目も華やかで、幾重にもスパイスや凝ったソースが使われている。それは確かに一級品の芸術品です。でも……人間やあやかしが、一日の終わりに本当に身体が欲する味って、そういうものじゃない時もあるんです」
私の言葉に、玉藻の表情がハッと強張った。
「本当に身体が欲する味……?」
「ええ。お酒がグイグイ進んで、一口食べた瞬間に『あぁ、今日も一日頑張ってよかったな』って肩の力が抜けるような、優しくてどこか懐かしい『家庭の味』や『おつまみ』なんじゃないでしょうか」
図星を突かれたのか、玉藻さんはぐっと言葉に詰まり、視線を自分の膝元へと落とした。
彼女の背後で揺れていた九尾の尾が、どこか寂しげにしゅんと垂れ下がる。
「……っ、分かってるわよ、そんなことくらい……!」
玉藻さんは震える声で、ぽつりぽつりと本音をこぼし始めた。
「うちの店は『宵月』っていう高級店の看板を背負っているの。常連客も、皇都の貴族や、肥えた舌を持った偉い連中ばかり。だから、いつだって他店の一歩先を行くような、豪華で、誰も真似できないような華やかな料理を出し続けなきゃいけないという呪縛があったのよ」
彼女は顔を上げ、苦悩に満ちた瞳で私を見た。
「最近ね……お客さんたちが、私の作る凝った料理を残すようになったの。『美味しいけれど、もうお腹いっぱいだ』って。本当は、もっとシンプルで、お酒が進む気取らない料理を出したいって、私自身も心のどこでは分かってたわよ。でも……『宵月の女将がこんな大衆的なものを出すな』って言われるのが怖くて、プライドが邪魔をして、引き算のレシピが作れなかったの……!」
見栄とプライドに縛られ、誰にも弱音を吐けずに独りで悩み続けていた職人のスランプ。
その告白を聞いた瞬間、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。同じ料理人として、その苦しさが痛いほどよく分かるからだ。
「玉藻さん……あなたは、本当に料理を愛しているんですね」
「……当たり前でしょ。私は、誰よりも美味しいものでみんなを笑顔にしたいから、あの店をやってるのよ」
涙をこらえながら気丈にそう言い切る彼女の姿は、敵対するライバルどころか、同じ夢を追う誇り高い同志に見えた。
「だったら、怖がる必要なんてありませんよ」
私は明るく微笑みかけながら、テキパキと調理台の準備を始めた。
「今日、ここで私が作る料理を食べてみてください。そして、そのレシピを全部あなたにあげます。あなたの店で、あなたのプライドのままで、その『優しい味』を出せばいいんです」
「……は? あんた、正気なの!? 私たちはライバル同士で、さっきまで怒鳴り込んでた相手よ? なんでそんな親切にするのよ!」
玉藻さんは目を限界まで見開いて、信じられないといった顔で私を凝視した。
「ライバルかもしれないけれど、同じ美味しいお酒と料理で客を喜ばせたい仲間でもありますから。それに、美味しいものを作る仲間が増えるのは、料理人として純粋に嬉しいんです」
私がそう言ってニッコリと笑うと、玉藻さんの美しい頬に、みるみるうちに赤みが差した。
「っ……この……調子のいい小娘ね……!」
彼女は恥ずかしそうに顔を背けながらも、その口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
「よし、それじゃあお見せしましょう。『やどりぎ』特製の、お酒がグイグイ進む絶品おつまみレシピを二品!」
私は気合を入れ直し、包丁を手に取った。
一品目は、下茹でに時間をかけ、赤味噌と出汁でじっくりとトロトロになるまで煮込んだ『出汁がしみこんだ牛すじの豆腐煮込み』だ。
牛すじ肉の濃厚な旨味が、絹ごし豆腐の芯までしっかりと染み込み、青ネギの清涼感と一味唐辛子のピリッとした辛味が全体の味を引き締める。一口食べれば、日頃のストレスや疲れがスーッと溶けていくような、極上の家庭の味。
そして二品目は、ただの唐揚げとは一味違う、ひと手間で劇的に化ける『特製ダレの鶏の唐揚げ・香味野菜ソースがけ』。
カリッと香ばしく揚げたジューシーな鶏肉に、生姜、ニンニク、長ネギをみじん切りにして特製の甘酢ダレと合わせた香味野菜ソースをたっぷりとかける。揚げ物のボリューム感がありながらも、香味野菜の酸味で驚くほどさっぱりと食べられ、ビールやハイボールが止まらなくなる禁断の一品である。
「お待たせいたしました! 『牛すじの豆腐煮込み』と、『特製ダレの鶏の唐揚げ』になります!」
湯気を上げる二皿がカウンターの上に並べられた瞬間、店内にたまらなく食欲をそそる芳醇な香りが広がった。
迅さんや翔琉さんたち常連客からも「おいおい、今日のそれはまた一段と匂いが反則だぜ!」と羨ましそうな声が飛ぶ。
「……これ、が……」
玉藻さんは息を呑みながら、おそるおそる箸を伸ばした。
まずは『牛すじの豆腐煮込み』を一口。トロトロに煮込まれた牛すじと、出汁を吸った豆腐を口に含んだ瞬間、彼女の美しい瞳が大きく見開かれた。
「──っ……!」
言葉にならない感嘆の息が漏れる。
続いて、『鶏の唐揚げ・香味野菜ソースがけ』を頬張ると、玉藻さんはついに耐えきれなくなったように、両手で顔を覆ってしまった。
「なんなのこれ……高級な食材なんて使っていないのに、どうしてこんなに胸の奥が熱くなるのよ……。出汁の優しさが、心の隅々にまで染み渡る……!」
「どうですか? これなら、『宵月』の常連さんたちも、きっと喜んでくれますよね」
私が優しく尋ねると、玉藻さんはゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で私を真っ直ぐに見つめると、素直に頭を下げた。
「……私の負けよ。完敗だわ」
彼女は照れくさそうに頬を染めながら、小さく息をついた。
「あんたのこと、最初は大嫌いな小娘だって誤解していたよ。でも……本当にありがとうね、千歳」
「どういたしまして。いつでも相談に乗りますから、お互い美味しいお店を作っていきましょうね」
その夜、『やどりぎ』のカウンターには、ライバルであるはずの二人の女性が並んでグラスを合わせ、楽しそうに料理のアイデアを語り合う姿があった。
外の夜空には、穏やかな月明かりが優しく輝いており、二つの店の間には、あたたかな新しい縁がしっかりと結ばれていたのだった。




