第7話 待ち望んでいた来客
藍色の暖簾をくぐった先には、賑やかな笑い声が溢れていた。
「おっ、今日のコユキちゃんも一段とモフモフしてて可愛いじゃねえか。ほら、おあがりよ」
「おいおい、そんなに頭を撫でるなよ、耳がペコペコ動いてるぞ」
カウンターの特等席で丸くなっているのは、すっかり『やどりぎ』の看板狐として定着したコユキだ。
常連客である門兵の迅さんと翔琉さんが、仕事帰りにふらりと立ち寄り、美味しそうに甘辛く煮たあぶらあげの切れ端をコユキに差し出している。
「キュキュッ!」
コユキは嬉しそうに小さく鳴くと、二人の差し出すあぶらあげをパクッとくわえ、美味しそうに頬張った。その愛くるしい仕草に、迅さんと翔琉さんはすっかり骨抜きにされている。
「いやぁ、本当にいい看板狐が加わったもんだな、千歳のお嬢ちゃん」
「ほんとだよな。これを目当てに来る客も増えちまってるし」
厨房のカウンター越しにその様子を見ながら、私は思わずフッと笑みをこぼした。
森で出会って保護したコユキは、今や常連客の皆さんにたっぷり可愛がられ、『やどりぎ』の不動のアイドルとなっていた。看板娘のミミちゃんも、コユキに美味しいおやつをあげたりブラッシングをしてあげたりと、お姉ちゃんぶってすっかりお世話を焼いている。
「皆さん、コユキのこと可愛がりすぎなんだから。ほどほどにしてあげてね」
「ははっ、いいじゃねえか。コユキも喜んでるしよ」
「美味い酒と料理があって、こんな可愛いモフモフまでいるんだ。仕事の疲れも吹っ飛ぶぜ!」
迅さんと翔琉さんが、言いながら豪快に大衆向け麦酒のジョッキを傾け、喉を鳴らす。
店内には香ばしい料理の匂いと心地よい活気が満ちており、店を始めてよかったと心から思える穏やかな時間が流れていた。
§
時計の針が夜の深まりを告げ、そろそろ今日の営業も終わりに差し掛かる頃。
片付けを始めていた私の耳に、カランと控えめな引き戸の音が飛び込んできた。
「まだ……やっているか?」
ふと顔を上げると、そこに立っていたのは、あの日の森で出会った高貴な青年──立派な角を持った蒼さんだった。
相変わらずの圧倒的な美しさと、夜の闇を纏うような静謐な佇まいに、店内にいた迅さんや翔琉さんも、思わず息を呑んでチラリと視線を向ける。
「あ……!」
私は手を止め、パッと顔を輝かせて出迎えた。
「いらっしゃいませ! ええ、どうぞ、どうぞ! 一番奥のカウンター席にどうぞ!」
蒼さんは静かにうなずくと、長い足取りでカウンターの端へと歩み寄り、上品に腰を下ろした。
足元では、コユキが「キュッ?」と首をかしげ、蒼さんの足元にピタリと寄り添い、くんくんと匂いを嗅ぎ始めている。蒼さんは愛おしそうに目を細め、その小さな頭をそっと撫でた。
「元気にしていたか、小狐」
「キュキュッ!」
コユキも嬉しそうに尻尾をパタパタと振っている。
「蒼さん、来てくれて嬉しいです。約束通り、お店に来てくださったんですね」
「ああ。この近くで用事があってな。ふと、君の店の温かい灯りが見えたものだから、つい足が向いてしまった」
蒼さんはそう言ってふっと柔らかく微笑み、店内を見回した。
「ふむ……なかなかに居心地の良さそうな空間だな。それでは、おすすめの酒と料理をもらおうか」
ふふ、待っていました。
相手はおそらく高位のあやかし。普通の居酒屋メニューや、荒くれ者向けのガッツリしたものだけでは少し物足りないかもしれない。
今の私の手札と、蒼さんの雰囲気にふさわしい最高の一品を頭の中で組み立てる。
まず、最初に出す『お通し』には、霊気を含んだ森の恵みと、彼の気品ある口に合う繊細な一品がいい。
……そうだ。森で採ってきたばかりの『霊茸』や新鮮な山菜、そしてキノコを用いた、素材の香りを最大限に活かす小鉢にしよう。
「かしこまりました。それでは、蒼さんには私からの特別なおもてなしをさせていただきますね」
私は厨房の奥へと振り返り、手際よく調理を始めた。
最初にお出しするお通しは、『霊茸と春菊の出汁浸し』だ。
森で採取した香りの良い霊茸と、シャキシャキとした食感の春菊をさっと茹で、昆布とかつお節の合わせ出汁に薄口醤油とみりんを加えた上品な一番出汁に優しく漬け込む。仕上げにほんのり柚子の皮の香りを散らせば、霊的な澱をスッと洗い流してくれるような、清らかで奥深い味わいの一品になる。
そして、それに合わせる『お酒』。
今の私の位階ではまだ高級な地酒や秘蔵の銘柄は扱えず、神恵堂で交換できるのは素朴などぶろくか大衆向けのビールくらいだ。
けれど、限られたラインナップの中でも、素材の持ち味を最大限に活かして最高のおもてなしをすることはできる。
『お酒』は、蒼さんのような高貴なあやかしには、あえて素朴で米の旨味がダイレクトに伝わるどぶろくを、お猪口でキリッと冷やして出そう。
最後の本命となる『おすすめの料理』。
野生味がありつつも、どこか洗練された和の趣を感じさせるもの……。
手頃な鶏もも肉を使いつつも、絶品の焼き上がりで満足してもらえる一品……そうだ、『鶏ももの香ばし網焼き(特製ネギ塩ダレ)』にしよう。
皮目をパリッと香ばしく、中はジューシーに網焼きにした鶏もも肉に、たっぷりの刻みネギとごま油、レモンの風味が効いた特製ネギ塩ダレをジュッとかける。素朴などぶろくの濃厚な甘みや酸味を、ネギ塩の爽やかさと鶏の旨味が最高に引き立ててくれるはずだ。
「お待たせいたしました。まずは当店からのサービス、お通しになります」
私は陶器の小鉢を、蒼さんの目の前へとそっと差し出した。
出汁の透き通った黄金色の中に、霊茸の美しい傘と緑の春菊が上品に盛られ、ふわりと柚子の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「ほう……これは」
蒼さんは感嘆の声を漏らし、お箸を手に取った。
蒼さんがそっと箸を伸ばし、小鉢の中から霊茸を一つまみして口へと運ぶ。
その瞬間、彼の端正な眉がわずかにぴくりと動き、驚きの色が宿った。
「……美味いな。森の香りが、余すところなく閉じ込められている」
「わぁ、分かりますか? それ、この間コユキと一緒に森の奥で採ってきたばかりの『霊茸』なんです。お出汁をしっかり吸わせてみたんですけど、お口に合いました?」
私が期待を込めて尋ねると、蒼さんは優雅に微笑みながらうなずいた。
「ああ、素晴らしい。ただのキノコではないな。上品な出汁の旨味と、霊茸特有の清らかな香りが絶妙に調和している。人の手によってこれほどまでに素材の持ち味が引き出されるとは……人間界の料理というのも、侮りがたいものだな」
隣の席で大衆向け麦酒を飲んでいた迅さんが、グラスを片手にひょいと顔を突き出してきた。
「おい若いの、そう驚くのも無理はないぜ。このお嬢ちゃんの作るメシはな、どれもこれも魂に染み入る美味さなんだからよ。この店に来てから、俺たちの毎日の楽しみが増えちまって困ってるくらいだぜ」
「ふふ、迅さん、ありがとうございます」
常連客からの嬉しい言葉に照れ笑いを浮かべながら、私は手際よく次の準備に取り掛かる。
「お待たせしました。こちらは最初にお選びいただいたお酒、『雑酒・濁酒』になります。よく冷やしてありますので、お猪口でどうぞ」
素朴な陶器の徳利から、乳白色に濁ったとろみのあるお酒を、目の前のお猪口へとトクトクと注ぎ入れる。ほんのりと発酵した米の甘い香りが、ふわりと周囲に広がった。
「濁酒か……。近頃の若いあやかたちは洗練された澄み酒を好むが、私はこういう飾らない古風な酒も嫌いではないよ」
蒼さんはお猪口をつまみ上げ、ゆっくりと香りを確かめてから、少量を口に含んだ。
その横顔を、私は少し緊張しながら見つめる。位階が低いため、神恵堂で交換できるのはどうしてもこうした大衆的な酒になってしまう。高位のあやかしであるだろう彼のお口に合うだろうか、という小さな心配があったからだ。
しかし、蒼さんは目を閉じ、口の中に広がる味わいをじっくりと堪能したあと、ふっと満足げな笑みを浮かべた。
「なるほど……。飾らない素朴な米の旨味と、わずかな発酵の酸味が心地よい。これ単体ではやや荒々しさを感じるが……これから出てくる料理と合わせることを前提としているのだな?」
「はい! よく分かりましたね。今まさに、そのお酒と最高に合うメインの料理を作っているところですから、楽しみにしていてください!」
私の言葉に、蒼さんは興味深そうに目を細めた。
「ほう、それはいい。私の期待を裏切らない味を見せてくれ」
私は気合を入れ直し、コンロの前に立つ。
選んだメインの食材は、神恵堂で手に入る手頃で新鮮な鶏もも肉だ。これを、ただ焼くだけではなく、網焼きにして余分な落としつつ、香ばしさを最大限に引き出す。
「それじゃあ、いきますね!」
ジュウウッ……! と、熱せられた網の上で、鶏もも肉の皮目が一気に香ばしい音を立てて焼き上げられていく。立ち上る煙と、脂が炭に落ちてジュッと爆ぜる香りが、店内の空気を一気に食欲をそそる匂いで満たした。
外側はカリッと香ばしく、中は肉汁を閉じ込めてジューシーに。絶妙なタイミングでまな板に引き上げ、一口大にザクザクと包丁を入れていく。包丁の刃が通り、肉汁がトレイに溢れるその感触だけで、最高の焼き上がりに仕上がっていることが分かる。
そして、ここからが腕の見せ所だ。
あらかじめ細かく刻んでおいたたっぷりの長ネギに、香り高いごま油、微量の塩、そして隠し味にほんのりレモンの搾り汁を合わせた、特製の『特製ネギ塩ダレ』。これを、熱々の網焼きチキンの上に、惜しみなくたっぷりと乗せる。
「お待たせいたしました! 『鶏ももの香ばし網焼き・特製ネギ塩ダレ』になります!」
大きめの平皿に盛られ、ジュワッとネギ塩の香りが立ち込める一品が、蒼さんの目の前にドンと置かれた。
香ばしい鶏の皮の焦げ目と、ネギの鮮やかな緑、そしてごま油とレモンの爽やかな香りが一体となり、カウンターの端に座っていた迅さんと翔琉さんも、思わず「おっ……!」と生唾を飲み込んだ。
「すげえな、この匂いだけで一杯いけちまいそうだぜ……!」
「お嬢ちゃん、今日のそれはまた一段と気合が入ってやがるな」
常連客たちのそんな反応を聞きながら、私は蒼さんの様子を窺った。
蒼さんは、目の前に置かれた皿をじっと見つめ、それからゆっくりとお箸を伸ばした。特製のネギ塩ダレがたっぷりと絡んだ鶏肉の一切れをつまみ上げ、口元へと運ぶ。
さあ、どうだろうか。
蒼さんは静かに口に含み、ゆっくりと咀嚼した。
その瞬間、彼の端正な顔立ちに、わずかに驚愕の光が走ったのが分かった。
「……これは……!」
「いかがでしょうか……?」
私は思わず身を乗り出して尋ねた。
蒼さんは飲み込んだあと、しばらく言葉を失ったように皿を見つめ、それからふっと声を出して柔らかく微笑んだ。
「参ったな……。美味い、の一言では言い表せないほどの衝撃がある」
「よかったぁ……!」
私は胸をなで下ろし、思わずホッと息を漏らした。
「皮目はパリッと香ばしく焼き上げられていながら、中の肉は驚くほど柔らかく、噛み締めるごとに旨味の汁が溢れ出す。それに、このネギ塩ダレの爽やかな塩気と酸味が、鶏の脂の甘みを引き立てつつ、口の中を全く重くさせない。計算し尽くされた見事な調和だ」
蒼さんは感心したようにそう述べると、すかさず先ほどのお猪口を取り上げ、濁酒を一口含んだ。
「なるほど……。この素朴などぶろくの濃厚な甘みとコクが、鶏肉の力強い旨味とネギ塩のシャープな塩気をしっかりと受け止め、最後に心地よいキレを残していく。これほどまでに計算されたペアリングを、人間の少女が作り出すとは……」
彼は満足そうに目を細め、再び箸を伸ばした。
その様子を見ていた迅さんと翔琉さんも、我慢できなくなったように声を上げた。
「おいおい千歳のお嬢ちゃん、ずるいぞ! そんな美味そうなもん出されたら、こっちまでまた食いたくなっちまうじゃねえか!」
「そうだそうだ! 俺たちにも同じやつを一つ頼む!」
「はーい、喜んで! 今すぐお作りしますね!」
店内は再び活気と笑い声に包まれ、心地よい熱気で満たされていった。
カウンターの端では、ミミちゃんがテキパキとお皿を下げたりお茶を配ったりと看板娘としての役割を完璧にこなしており、その足元ではコユキが小さく「キュッ」と鳴いて客たちの足にじゃれついている。
§
やがて、夜も更け、常連客たちが「ごちそうさま、また明日な!」と満足げに店をあとにしていったあと、店内には再び穏やかな静けさが戻ってきた。
最後まで残っていた蒼さんは、ゆっくりとお猪口を空けると、満足そうに息をついた。
「いや、実に素晴らしい時間だった。身も心もすっかり満たされたよ、千歳」
「ありがとうございます、蒼さん。気に入っていただけて本当に嬉しいです」
私がカウンターを綺麗に拭きながら笑顔で答えると、蒼さんは立ち上がり、懐から霊貨を取り出してカウンターの上にそっと置いた。
「これで足りるだろうか」
「あ、はい、十分すぎるくらいお釣りがきます……! 待ってくださいね、小銭を用意しますから」
「いや、取っておけ。今日の料理と酒、そしてこの心地よい空間に対する私からのささやかなチップだ」
蒼さんは穏やかに首を横に振ると、足元で名残惜しそうにまとわりつくコユキの頭を優しく撫でた。
「また来るよ、小狐。そして、千歳。君の作る料理も、いつかまた味わいに来させてもらう」
「はい! いつでもお待ちしていますね、蒼さん。次はもっと新しい料理を考えておきますから!」
私の言葉に、蒼さんは満足そうに頷くと、藍色の暖簾をくぐり、夜の闇に包まれた皇都の街へと静かに溶けるように去っていった。
カラン、と心地よい引き戸の音が響き、店内には私とミミちゃん、そしてコユキの三人が残された。
「ふう……今日も一日、無事に終わったねぇ」
私は大きく背伸びをしながら、心地よい疲労感に浸った。
この『かくりよ』に転生し、最初は戸惑いと不安が多かった第二の人生。
けれど、こうして温かい仲間が増え、美味しい料理を通じてたくさんのあやかしたちと縁を結ぶことができている。
「ちとせ、お疲れ様!」
「キュウッ!」
ミミちゃんが温かいお茶を一杯差し出してくれ、その足元ではコユキが尻尾をピコピコと振っている。
私はそのお茶を受け取り、一口飲んでから笑顔を浮かべた。
「うん、お疲れ様、皆。明日も頑張ってお客さんをもてなそうね」
『やどりぎ』という小さな居酒屋の灯りは、かくりよの夜空の下で、明日も優しく、温かく、たくさんのあやかしたちを迎えようと待ち構えていた。




