第6話 常世の森と、小さな神使
朝の光が皇都の石畳を柔らかく撫でる頃、居酒屋『やどりぎ』のカウンターの端で、私は両腕を組んで小さく唸っていた。
「うーん……やっぱり、そうだよねぇ」
目の前には、昨日仕入れた食材の控えと、メモ用紙が広げられている。
もちろん、神恵堂のシステムを開けば、新鮮な野菜や肉、酒類に至るまで、大抵のものはボタン一つで手に入る。それは非常に便利で、現代の料理人である私にとってこれ以上ない強力な武器だ。
けれど、昨夜の営業で迅さんや翔琉さんと話しているうちに、ふと強い興味が湧いてきたのだ。
『このかくりよの森や野山には、人間界にはない珍しいキノコや香草、霊気を含んだ山菜が自生している』
そう迅さんが教えてくれた。
居酒屋の料理の幅をさらに広げるためにも、そして何より、料理人としてこの世界の自然の恵みに直接触れてみたかった。神恵堂の恩恵に甘えるだけでなく、自分の足で見つけて採ってきた素材を使うことこそが、本当の意味で『生きた料理』を作ることに繋がるのではないか。
「ねえ、ちとせ?」
トコトコと足音を立てて近づいてきたのは、頭の上の猫耳をぴこぴこと動かしたミミちゃんだった。すっかり元気を取り戻した彼女は、今や『やどりぎ』の頼もしい看板娘である。今日はエプロンをキュッと結び、開店前の掃除を手伝ってくれている。
「どうしたの、ミミちゃん」
「あのね、さっき外の常連さんが言ってたの。皇都のすぐ外にある『常世の森』には、すごく香りが良くて美味しい『霊茸』や『風香草』っていう珍しい香草がいっぱい生えてるんだって」
「本当!? それ、ちょうど私も気になってたところなのよ」
「うん! 私もお手伝いしたいな。一緒に行ってもいい?」
ミミちゃんの期待に満ちた琥珀色の瞳を見つめ、私は少し考え込んでから優しく首を横に振った。
「気持ちはすごく嬉しいけど、今日の午前中はミミちゃんにお留守番をお願いしたいの。私はちょっと森の様子を見て、すぐに戻ってくるからさ。お土産に美味しい木の実でも採ってきてあげるから、お留守番よろしくね」
「うう……本当は一緒に行きたいけど……分かった! お留守番、ちゃんと頑張るね。気をつけて行ってきてね、ちとせ!」
ミミちゃんの頼もしい返事をもらい、私は軽装に動きやすい上着を羽織り、小さな麻袋を肩に下げて、皇都の外へと続く森へ向かうことにした。
§
皇都の重厚な城壁をくぐり、少し歩くと、そこには人間界のそれとは全く異なる、神秘的で深い森が広がっていた。
どこまでも背の高い神代杉のような巨木が空を覆い、地面には柔らかい苔の絨毯が敷き詰められている。木漏れ日が幾重もの光の筋となって地上に降り注ぎ、空気がひんやりとしていて、肺の奥まで清らかな霊気が染み渡るようだった。
「わぁ……すごい。空気が全然違う……」
私は深く息を吸い込みながら、慎重に足を進めた。
道の両脇には、見たこともない色鮮やかな花や、ほのかに青く発光する苔などが群生している。まさに見渡す限りの自然の宝庫だ。
「ええと、迅さんが言ってたのは、湿り気のある朽ち木の近くに霊茸が生えやすいってことだったっけ……。あそこの大木の根元あたり、怪しいな」
私は足元を注意深く観察しながら、トコトコと森の奥へと歩を進めた。
地面から漂う土と草木の匂いに混じって、ほんのりと甘く芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。これはもしや、目当ての香草の匂いかもしれない。胸を高鳴らせながら、私は一歩一歩、慎重に草木をかき分けていった。
その時だった。
「──クゥーン……ッ!」
静寂に包まれた森の奥から、か細く、どこか切なげな動物の鳴き声が聞こえてきた。
「……ん? 今の声……」
風の音にかき消されそうになりながらも、確かにそれは何かの生き物が苦しんでいるような響きを帯びていた。
私は反射的に足を止め、声が聞こえた方向へと耳を澄ませる。茂みの向こう、少し開けた小高い丘の陰から、再び微かにその声が響いた。
「どうしたんだろう……放っておけない!」
私は草木をかき分けて急ぎ足でその場所へと駆けつけた。
目の前に広がっていたのは、小さな木漏れ日の差す窪地だった。
そしてその中央に、一人の高貴な雰囲気を纏った青年が、膝をついてしゃがみ込んでいるのが目に入った。
青年は、人間とは思えないほど整った美しい顔立ちをしており、その頭部には、漆黒の中に微かに青藍色の光を宿す立派で気品のある角が誇らしげに生えていた。上等な仕立ての着物を纏い、羽織が風に揺れている。
その青年は今、ひどく困ったような、そしてどこか優しげな眼差しを足元に向けていた。
「どうしたんですか……?」
私が思わず声をかけると、青年はハッとしたように顔を上げ、私を一瞥した。その瞳は夜空の星のように深く澄んでいたが、驚きはすぐに柔らかな笑みへと変わった。
「おや……人間がこんな森の深くまで。いやなに、この小さな生き物を助けてやりたいと思ってな」
「えっ……?」
青年の言葉にうなずき、そっと彼の足元を覗き込むと、そこには息を呑むほど美しい、小さな生き物がうずくまっていた。
「……これって……!」
それは、手のひらにすっぽりとおさまるくらい小さなサイズの、一匹の小動物だった。
雪のように真っ白で、まるで絹糸のように柔らかそうなフワフワの毛並み。つぶらで澄んだ碧色の瞳には、恐怖と痛みに耐えるような微かな涙が浮かんでいる。ピンと立った大きめの耳に、ふさふさとした立派な尻尾。そして額のあたりには、ほんのかすかに神秘的な赤い模様が浮かび上がっていた。
「管狐……ですね」
妖怪や神獣の類いに詳しいわけではないけれど、その姿は文献や御伽草子で見た神聖な使わしめそのものだった。
しかし、その小さな銀色の足の一本が、古びた鉄の罠──かくりよの狩人たちが仕掛けたであろう粗末な古く錆びたトラップにガッチリと挟まれてしまっていた。
「痛かったな、もう大丈夫だ」
青年は低いながらも優しい声でそう呟くと、自らの手で慎重にその罠のバネを押し広げた。
ガチャリ、と重い金属音が響き、管狐の足がするりと解放される。
「キュウッ……!」
解放された瞬間、管狐は小さく体を震わせて青年の腕の中に転がり込もうとした。
しかし、私の存在に気づいたのか、ひょいと顔を上げ、私の足元へとヨチヨチと不器用な足取りで歩み寄ってきた。
「あっ……」
管狐は私の足元にピタリと寄り添うと、くんくんと熱心に私の靴や裾の匂いを嗅ぎ始めた。そして、安心したかのように、私の足首にその柔らかい体をスリと擦り付けたのだ。
「ふむ……。君の匂いがよほど気に入ったらしいな」
青年は立ち上がりながら、面白そうに目を細めて微笑んだ。
「あ、ありがとうございます……助けられて本当に良かったですね」
「この子はひどく怯えていたからな。人間である君の纏う温かい気配に安心したのだろう」
青年はそう言うと、足元で私を見上げる小さな管狐を優しく見下ろした。
私はふと思い出し、肩にかけていた麻袋から、今日のお弁当として持ってきたおにぎりや、油揚げの小さな切れ端を取り出した。
「もしかして、お腹が空いているのかな……? これ、食べる?」
そっと手のひらに乗せて差し出すと、管狐の大きな耳がピクリと動き、くんくんと鼻を鳴らした。次の瞬間、パクッと小さな口でおにぎりの端と油揚げをくわえ、夢中になりながら美味しそうにモグモグと頬張り始めた。
「あはは、すごい勢い……よっぽどお腹がペコペコだったんだね」
食べ終えた管狐は、満足したように小さく「キュッ」と鳴き、私の足元にすっかり居座ってしまった。もうすっかり私を母親か何かと勘違いしているのか、離れる気配が全くない。
そして不思議なことに、管狐の負っていた傷はいつの間にか完全に塞がっていた。
「怪我は塞がったようだが……すっかり君に懐いてしまったな」
「そうみたいですね……こんなに懐かれると、なんだか放っておけなくなっちゃいます」
私の言葉に、青年はふっと穏やかな笑みを浮かべ、私の顔をじっと見つめた。そして、何かを品定めするかのように、わずかに目を細めた。
「……君は、神子だな」
「えっ……? みこ、ですか?」
「あぁ。その纏う気配と、差し出した食物から発せられる微かな霊力の揺らぎ……人間でありながら、その手から生み出される料理には特別な霊力が含まれていると聞く。あやかしの傷を癒し、魂に力を与える奇跡の料理人……違いないな?」
青年の鋭くも温かい指摘に、私は思わずドキンと心臓を高鳴らせた。あの神様が言っていた『神恵』や『位階』のシステムのことといい、この世界では私の作る料理はただの食べ物ではないらしい。
「そ、そうなんですか……? 私はただ、美味しく食べてほしい一心で料理を作っているだけなんですけど……」
「謙遜することはない。その純粋な意志こそが、あやかしを惹きつける最大の力なのだろうよ」
青年は優雅にフッと息をつくと、ふと周囲を見渡し、それから再び私に視線を戻した。
「ところで、君は人間のようだが……このような森の深くまで、いったい何の用だ?」
「あ、私は……皇都のすぐ外で、『やどりぎ』という居酒屋を開いているんです。そこで使う美味しい山菜やキノコを探しに、森の中を散策していたところで……この子の声を聞いて……」
私の答えを聞いた青年は、目を丸くしたあと、どこか面白そうに声を上げて笑った。
「『やどりぎ』か。人間がこの皇都であやかし向けの居酒屋を営むとは、なかなかに面白い試みだな」
「えへへ、色々と大変ですけど、毎日すごく充実してますよ。もしよかったら……あ、お名前をお聞きしてもいいですか?」
私が慌てて尋ねると、青年は優雅にふわりと微笑んだ。
「私は……蒼。城で働いている役人だ」
「蒼さんですね。私は千歳、更科千歳といいます」
「千歳だな。ふむ、よく覚えておこう」
蒼さんは満足そうにうなずくと、足元で私を見上げる管狐に視線を落とした。
「その管狐はすっかり君に懐いてしまったようだが、どうする? そのまま連れて帰るのか?」
「はい……このままここに置いていくわけにもいかないですし、連れて帰ってお店の看板狐にでもなってもらおうかなって思ってます。ただ……野生の管狐って、普段は一体なにを好んで食べるんでしょう?」
私が首をかしげると、蒼さんは少し考え込むように視線を宙に向け、それから穏やかに答えてくれた。
「管狐は何でも食べるぞ。雑食性で、人間が食べるようなものの大抵は口にする。だが、強いて言うなら……先程君が与えた油揚げや、甘く煮た木の実などは大好物とされているな。機嫌が良いときは、小さな奇跡を分けてくれることもあるかもしれない」
「油揚げ、ですか。それならお店にたくさんありますね。教えてくれてありがとうございます、蒼さん」
「なに、礼には及ばない。さて、私はそろそろ行くべき所がある。これで失礼させてもらうぞ」
蒼さんはそう言うと、纏っていた立派な羽織を軽く整え、振り返った。
「では、千歳。またな、いつか店に顔を出させてもらうとしよう」
「はい! ぜひ来てください、美味しいお食事とお酒をたっぷりお出ししますから!」
「楽しみにしていよう」
蒼さんは静かに微笑むと、まるで風の精霊のように、一瞬にして木々の間にその姿を溶かすように消えていった。
ただ、その足元が踏みしめた草花だけが、名残の揺れを微かに残している。
「行ってしまった……不思議な人だったなぁ」
ぽつりと呟いた私に、「キュキュッ!」と足元から元気な声が返ってきた。
見下ろすと、真っ白な管狐がぴょんと跳ねるようにして私の靴の上に乗っかっている。すっかり懐いてしまい、私から一歩も離れるつもりのない様子だ。
「そうだ。君の名前を決めなくちゃね」
私はしゃがみ込み、その真っ白でふかふかの頭を優しくナデナデと撫でてやった。
「真っ白で、まるで雪みたいだから……『コユキ』。どうかな、気に入ってくれる?」
「キュウッ、キュウン……!」
コユキは嬉しそうに何度も鳴き声を上げ、私の手に頬をすりすりと擦り付けた。どうやら、とても気に入ってくれたらしい。
「よし、今日から君の名前はコユキね。よろしくね、コユキちゃん」
名前が決まった途端、コユキはピピンと耳を立て、何やら地面の匂いをクンクンとかぎ始めた。そして、私の手を引っ張るようにして、森の奥の茂みへとスタスタ歩き出す。
「えっ? コユキ、そっちになにかあるの?」
首をかしげながらその後をついていくと、驚いたことに、そこには立派な『霊茸』の群生地と、芳醇な香りを放つ『風香草』がこれでもかとばかりに生い茂っていたのだ。
「うそ……こんなにたくさん……!」
コユキが鼻の利く嗅覚で、美味しいキノコや香草の生えている場所を次々と見つけ出してくれたのだ。おかげで私の持っていた麻袋は、あっという間に極上の山菜やキノコでいっぱいに膨れ上がった。
「すごいよ、コユキ! 君、めちゃくちゃ優秀な採取の相棒じゃない!」
「キュウ〜ン!」
誇らしげに胸を張るコユキの姿があまりにも可愛らしくて、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
§
夕暮れの茜色が皇都の空を染め始める頃、私は大量の戦利品を抱え、コユキを肩に乗せたまま『やどりぎ』の暖簾をくぐった。
「ただいま、ミミちゃん!」
「あ、ちとせおかえり……って、わぁ! その可愛いモフモフは何!?」
店番を終えてカウンターから飛び出してきたミミちゃんは、私の肩の上でちょこんと座っているコユキを見つけると、目をキラキラと輝かせた。
猫耳と、真っ白な管狐。似たようなモフモフ同士、一瞬で意気投合したのか、コユキは「キュッ」と鳴いてミミちゃんの鼻先に自分の鼻をちょんとくっつけた。
「森で出会った新しい家族の『コユキ』だよ。それに、この子のおかげで最高のキノコと香草がたくさん採れたの!」
「すごーい! コユキちゃん、よろしくね!」
ミミちゃんが嬉しそうに笑うと、店の中はさらに温かく、賑やかな雰囲気に包まれた。
厨房に戻り、今日の収穫を綺麗に洗いながら、私はふと今日の出来事を思い返した。
森で出会った不思議な青年・蒼さん。そして、私の新しい家族となった看板狐のコユキ。
この『やどりぎ』という小さな居酒屋は、こうしてたくさんの温かい縁を繋ぎながら、今日もあかよしの夜空の下で、優しく灯り続けていく。
「さあて、コユキの大好きなあぶらあげを使って、今日は特製の小料理でも作ろうかな!」
包丁を手に取り、私は心地よいリズムでまな板を叩き始めた。
新しく加わった家族とともに迎える今夜の営業が、今から楽しみで仕方がなかった。




