第5話 麦酒が結ぶ縁と、看板娘の誕生
すっかり日が落ちた皇都の片隅。
木造建築の居酒屋『やどりぎ』のガラス戸を開け、私は店先の軒下に真新しい暖簾を掲げた。藍色の布地に染め抜かれた『やどりぎ』の文字が、夜風に心地よく揺れている。
昼間に起きた怒濤のようなドタバタ劇、そして熱を出した猫耳の少女・美々(ミミ)の看病があったせいで、今日、初日の開店時間は予定よりも少し遅くなってしまった。
二階の部屋に行き、温かいおうどんを食べ、すっかり熱の下がったそのミミちゃんの様子を見ると、ベッドですやすやと平和な寝息を立てて眠っていた。
彼女の小さな胸の上下を確認し、私は静かに階段を下りてカウンターの裏へと回った。
§
開店の準備を整えてからしばらくのこと。
表の通りから、ドタドタと武骨な足音が近づいてきたかと思うと、ガラス戸が勢い良く開かれた。
顔を見せたのは、あの昼間に皇都の門前で会った狼の亜人である門兵二人組だった。
「いらっしゃいませ!」
「おっ、開いてるな。よお、来たぜ、お嬢ちゃん」
「おう。外まで美味そうな匂いがプンプン漂ってやがったから気になってしょうがないぜ」
豪快に笑いながらカウンターの席に着く二人。野性味あふれる彼らの体躯は、庶民向けのカウンター席を少し狭く感じさせるほどだ。
私はおしぼりと冷えた水を用意しながら、明るく声をかけた。
「お疲れ様です。昼間は門の前でどうもありがとうございました」
「なに気にするな。仕事のうちだ」
「さっそく冷やかさせてもらったが……ほう、中はなかなか落ち着くじゃねえか」
そう言って席にどっしりと腰を下ろす二人に、私はまず手始めに小皿を差し出した。
「お待たせしました。まずはお通しになります」
「おっ、先付けなんて小洒落たもんがあるのか。ただ酒を出すだけの店が多い中、気がきいてるじゃねえか」
二人の前に置いたのは、『炙り鶏皮の鬼おろしポン酢』だ。
香ばしく直火で炙って余分な脂をしっかりと落とした鶏皮は、皮目のパリッとした香ばしさと、中のコリコリとした絶妙な弾力ある食感を残している。そこへ、シャキシャキとした食感が残る荒おろしの大根(鬼おろし)を山盛りに乗せ、自家製の特製ポン酢をたっぷりと回しかけたものだ。
「ほほう……これまた、いい匂いがするじゃねえか」
物珍しそうに箸を伸ばし、大根おろしをたっぷりと絡めた鶏皮を口に運ぶ二人。
次の瞬間、彼らの耳がピクリと大きく反応した。
「ん……っ!? 美味いっ……!」
「ほんとだ……これ、すっげえさっぱりしてて、それでいて鶏皮の旨味がジュワッと広がるぞ……!」
「だろ? 鶏の脂をポン酢の酸味と大根の辛味がすっきりと流してくれるから、いくらでも食べられちまうな」
二人が目を丸くして感動しているのを見て、私は心の中で小さくガッツポーズをした。よし、第一関門はクリアだ。
「これをつまみだしたら、今度は無性に冷てえ酒が欲しくなるな……おい、お嬢ちゃん。この店にはどんな酒があるんだ?」
待ってましたとばかりに、私は頭の中で『八百万神恵堂』のメニュー一覧を呼び起こす。
まだ私の位階は低いから、貴族が飲むような高級な古酒や秘蔵のワインは交換できない。
けれど、彼らの好みに合いそうな、ワイルドで大衆的なラインナップはしっかりと揃っている。
「当店でご用意できるお酒はですね……まず、米の旨味がダイレクトに残る素朴で力強い『雑酒・濁酒』。炭酸のシュワッとした爽快感はあるけれど、少し雑味や苦みが強いエール風の『大衆向け麦酒』。それから、安価な木の実を発酵させた少し酸味の強い『量産型の果実酒』。あとは、モルトの比率が低くてアルコール感をガツンと感じる『安価なブレンデッド・ウイスキー』に、それを炭酸で割った『木の実のシンプル・ハイボール』なんかがありますよ」
私がすらすらとメニューを読み上げると、二人は顔を見合わせ、片方の男がニヤリと笑った。
「ほう……麦酒か。エール風のやつってのは、このお通しの鶏皮に一番合いそうだな。それをもらおうか」
「はい、かしこまりました! 大衆向け麦酒ですね。少々お待ちください!」
私は神恵堂から交換して冷やしておいたガラスのジョッキを取り出し、きめ細かな泡が立つように慎重にビールを注いで二人のもとへと運んだ。
琥珀色に輝く液体の上で、白い泡がシュワシュワと心地よい音を立てている。
「お待たせしました。当店自慢の大衆向け麦酒です」
二人は物珍しそうにジョッキを持ち上げ、豪快に喉を鳴らしてそれを飲み干した。その直後、彼らの目が見開かれ、言葉を失ったように固まった。
「な……なんだこれ……っ!?」
「くぅ〜っ……! 口に入れた瞬間、シュワシュワと舌を引っ掻くような炭酸が跳ねる……! 少しだけ特有の苦みはあるが……なんだこのキレは……! この喉越しの鋭さは、ただの酒じゃねえ、人間界のとんでもない発明品だぞ……っ!」
あまりの衝撃に、男の一人はジョッキをテーブルにカンと強く置き、赤らんだ顔で声を大にした。
「こりゃあたまらねえ! 酒がこれだけ美味いんだから、この店主が作る料理のほうも期待できそうだな。おい、このビールの最高の相棒になる、酒が進んで仕方がない肉料理を出してくれねえか!」
私の料理人としての血が、ふつふつと熱くたぎり始める。
こんな荒くれ者で、けれど美味しいものを純粋に愛してくれそうな客には、あれを出すしかない。
「ふふ、それじゃあ私のイチオシをお出ししますね。お待ちください!」
私が厨房へと引き返し、コンロの火を強める。
選んだのは、『猪の味噌漬け串焼き(ジビエ風)』だ。
野生味あふれるしっかりとした歯ごたえの猪の赤身肉を、特製の甘辛い赤味噌とニンニク、すりおろし生姜を混ぜ合わせたタレにじっくりと漬け込み、注文を受けてから炭火のグリルで一気に香ばしく焼き上げる。
この大衆ビール特有の『少し強い苦みやワイルドな雑味』は、実はこうした野性味のある肉の旨味や、濃厚な味噌のコクと合わせることで、お互いの個性を殺さず、むしろ最高に引き立て合う最強の相性を生み出すのだ。この少しクセのある肉の脂を、ビールの苦みがキリッと締めてくれるという、居酒屋のカウンターの真骨頂とも言えるペアリングである。
ジューシーに脂が滴る焼き立ての猪肉の串を、香ばしい匂いとともに二人の目の前へとドンと置いた。
「お待たせしました。『猪の味噌漬け串焼き』になります」
お皿が置かれた瞬間、味噌が焦げた香ばしい匂いが立ち込め、二人の視線が釘付けになった。
「うおお……なんだこの濃厚そうな香りは……!」
「たまらん……! いただかせてもらう!」
迷うことなく串にかぶりつき、豪快に肉を噛みしめると、彼は天を仰いだ。
「はぁーっ……! 柔らかくて、でも肉自体の旨味がギュッと詰まってやがる……この甘辛い味噌のコクがたまらねぇ……!」
「そこでこの麦酒をこうしてキュッとやるんだよ……見てろって」
もう一人が、すかさずジョッキを傾け、冷えたビールを喉に流し込む。
「くぅぅ〜っ! たまらん! この少し苦くてシュワシュワする麦酒に、この香ばしい味噌の串焼きが合わないわけがねぇだろ! おい、贅沢すぎやしないか、この時間は……!」
二人は夢中になって串を平らげ、空になったジョッキでお代わりを次々と注文してくれた。
あっと言う間に時間は過ぎ、すっかり満足した様子で二人は財布を取り出した。
「ふぅ、食った食った! すっかり酔いちまったぜ。それじゃあ、お勘定を頼むわ」
「はい、お疲れ様でした。お代はしめて……」
計算を済ませ、ニコニコと霊貨を受け取る私に、彼は豪快に笑いながら胸を張った。
「いやぁ、いい店を見つけたぜ。あ、そうそう。俺の名前は迅。で、こっちの食いしん坊が翔琉だ。これからこの皇都の警備の帰りは毎日のように寄らせてもらうからよ、しっかり覚えといてくれよ!」
「はい、迅さんと翔琉さんですね。もちろん大歓迎です!」
二人は満足そうに腹をさすりながら、心地よい酔いに満たされた足取りで店を後にしていった。
その背中を見送りながら、「またのお越しをお待ちしております!」と声をかける私の頬は、心地よい達成感で自然と緩んでいた。
その後も、店の前を通りかかった他の亜人や旅の商人が、目新しい暖簾とどこかから漂う美味しそうな匂いに惹かれて何人かふらりと立ち寄ってくれた。
どのお客さんも、私の出す料理と手頃なお酒に目を丸くして喜んでくれ、初日としては上々の滑り出しと言ってよかった。
§
すべての営業を終え、パタパタと戸締まりを済ませた深夜。
静まり返った一階から、私はそっと二階の居住スペースへと戻ってきた。
手洗いと身支度をすませて薄暗い部屋のドアを開けると、それまで布団の中でぐっすり眠っていたはずのミミちゃんが、起き上がってちょこんと座っていた。
彼女の大きな琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
「あれ、ミミちゃん? 起きちゃったのかな。もしかして、まだどこか痛いところとか、苦しいところがある?」
私は慌ててベッドの脇へと歩み寄り、彼女の視線の高さに合わせて優しくその場にしゃがみ込んだ。
「ううん……痛くないの。なんだか、すごくよく眠れたから……」
「そっか、よかったぁ。安心したよ」
ミミちゃんは不安そうに、頭の上の小さな耳をぴこぴこと可愛らしく動かしながら、私の顔をじっと見つめている。
私は彼女の冷え残っている小さな手をそっと自分の両手で包み込み、ゆっくりと温めながら微笑みかけた。
「あのね、ミミちゃん。実はね、ミミちゃんにお願いというか、相談があるんだけど……聞いてくれるかな?」
「なに……? ちとせ」
少し身構えたように首をかしげるミミちゃんに、私は言葉を選びながら、自分の胸のうちを優しく丁寧に語りかけた。
「ミミちゃん、身寄りもなくて、これから行くところもないんでしょう? だったらさ、よかったらここで私と一緒に暮らして、この『やどりぎ』の給仕役として、お店を手伝ってくれないかな?」
「……え……? あたしが……?」
ミミちゃんは信じられないといった様子で、クリクリとした大きな目をさらに丸く見開いた。
あやかしの街の片隅で、誰にも見向きもされず、行き倒れて死にかけていた彼女にとって、この温かい場所で暮らさないかという誘いは、あまりにも優しすぎて、夢物語のように聞こえたのかもしれない。
「うん。行き倒れていたところをこのまま放っておけないし、それにね、私一人でこの広いお店をずっと切り盛りしていくのは、正直ちょっと心細いんだ。だから、もしよかったら、ミミちゃんに看板娘としてお店を手伝ってもらえたら、すごく、すごく助かるの。もちろん、ここに住んでいいし、美味しいご飯も毎日お腹いっぱい食べられるから、もう何も心配しなくていいんだよ」
私の言葉を聞き終えると、ミミちゃんの琥珀色の瞳の奥から、こらえきれなくなった大粒の涙が、ぽろり、ぽろりと途切れることなくこぼれ落ちた。
彼女は震える小さな両手で、私の手をぎゅっと、痛いくらいに強く握り返した。
「……あたし……ちとせと一緒にいて……いいの……? こんな、役立たずのあたしが、ここにいても……いいの……?」
「もちろんだよ。私、ミミちゃんみたいな可愛い妹が欲しかったんだ。よかったら、私と本当の家族になろう?」
その瞬間、ミミちゃんの表情から不安の色が完全に消え去り、代わりにまばゆいほどの光が差した。
「うんっ! なりたい……! ちとせの妹に、なりたい……っ! ここにいたい……!」
ミミちゃんは堪えきれなくなったように私の胸へと勢いよく飛び込んできた。
私はその小さくて温かい背中を優しく両手で抱きしめ、愛おしく何度もその頭をなで続けた。彼女の体温が、私の心までもじんわりと温めていく。
遠く離れた異世界の空の下で、私とミミちゃんの新しい家族としての生活が始まった瞬間だった。
「さてと、ミミちゃん。まだ無理しちゃダメだけど、体調が完全によくなったら、うんとこのお店の手伝いを頑張ってもらうからね。よろしくね、看板娘さん」
「うんっ! 任せて、ちとせ! あたし、頑張っていっぱいお手伝いするね!」
ミミちゃんは涙を拭いながら、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべ、ぴんと耳を立てて力強くうなずいて見せた。
窓の外に目をやると、あやかしの街の宵闇の空に、いつの間にか美しい星々が瞬き始めていた。
小さな居酒屋の温かい灯りは、明日もきっと、たくさんの優しい縁をこの場所に連れてきてくれる──そんな確信を胸に、私はミミちゃんとともに穏やかな眠りについた。




