第4話 温もりの卵とじうどん
異世界の巨大都市皇都の片隅に突如として現れた木造建築の居酒屋『やどりぎ』。
その一角、大通りの喧騒から一本外れた薄暗い空き地で、私は行き倒れていた猫耳の小さな少女を背負い、温かな明かりの灯る店の中へと滑り込んだ。
§
背中から伝わってくる彼女の体温は、触れているのが怖くなるほど熱を帯びていた。
私はよろめく足を必死に叱咤し、二階の居住スペースを目指して木製の階段を駆け上がる。ギシギシと鳴る階段の音さえも、今の私にとっては切迫したカウントダウンのように感じられた。
やっとの思いで部屋にたどり着き、備え付けられたベッドの柔らかいマットレスの上に彼女をそっと下ろす。不規則に上下する小さな胸を気遣いながら、私は用意されていた布団を丁寧に掛けた。
「ふう……さて、どうしよう」
額に玉のような汗を浮かべながら、私は自分の袖で頬を拭った。
人間が熱を出したときに対処する方法なら、前世の記憶や日常の知識としていくらでもある。冷やして、水分をとらせ、安静にさせることだ。
けれど、目の前の少女は人間の子供ではない。頭の上にはふさふさとした猫の耳が生え、お尻のあたりからは愛らしい尻尾が垂れ下がっている、いわゆる『あやかし』の子供だ。
人間の身体構造とは異なるかもしれないし、ましてや人間用の薬がそのまま効くのかどうか、皆目検討がつかない。ヘタに素人判断で投与すれば、かえって毒になってしまう危険性だってある。
それでも、何か手を打たなければ、このまま熱が上がり続けて彼女の小さな命が危うくなってしまうかもしれない。何か、この世界で安全に使える特効薬のようなものは……。
「あ、『神恵』のポイントで何か交換できるかも……っ!」
脳裏に電撃が走った。
神様から与えられたシステムの存在を思い出し、私はすかさず空間に向かって「『神恵』交換」と呟いてみた。
瞬間、目の前の虚空に、まるで最新のネットショップの画面のような洗練されたウィンドウがふわりと展開された。その名も『八百万神恵堂』。
そこには、肉や魚などの新鮮な食材や、各地の上等な酒類など、居酒屋経営に必要な品々がずらりと並んでいたが、そのカテゴリの一角に『薬品・医療品』という項目を見つけた。
「よかった……! これなら……っ!」
私は焦る気持ちを抑えながらカテゴリをタップし、あやかしの子供の身体にも優しく作用しそうな解熱剤と、純度の高いミネラルウォーターを選択した。
所持している神恵ポイントをいくらか消費すると、パッと光の粒子が弾け、傍らにに実体を持った箱入りの解熱剤とボトル入りの水が現れた。
「これ……人間用だけど、熱を急激に下げる成分というよりは、和らげるタイプなら……!」
あれこれと迷っている暇は一刻もない。彼女のうめき声が少しずつ大きくなっている。
私はすぐに洗面所へと走り、水道水で冷たく絞ったおしぼりを作って急ぎ足で戻ってきた。そして、熱く火照った彼女の額に、その冷たいおしぼりをそっと乗せる。
「……ん……ひゃ……つめたい……っ」
冷たさに驚いたのか、少女が小さく身悶えし、うわ言のようなか細い声を漏らす。その小さな顔立ちは苦痛に激しく歪んでおり、見ているだけで私の胸が締め付けられるようだった。
「すぐ楽にしてあげるからね。少しでも楽になるといいんだけど……」
私は先ほど交換したミネラルウォーターのボトルを取り出し、綺麗なスプーンを使って少しずつ、その乾いた小さな唇に水を含ませてやった。
喉を通る冷たい水が嬉しかったのか、彼女はゴクリと小さく喉を鳴らした。それから慎重に解熱剤を飲ませ、濡らしたタオルで熱く火照った首筋や、リンパの集まる脇の下などを優しく、丁寧に拭っていく。
どうか効いてくれ。この小さな命を救ってくれと、祈るような切実な気持ちで看病を続けること、数十分。
あれほど激しく上下していた彼女の呼吸が、だんだんと深くなり、穏やかになってきた。スースーと、規則正しい小さな寝息が、静まり返った部屋の空気の中に混じり始める。
おそるおそる彼女の額に当てたおしぼりに触れてみると、先ほどまでの燃えるような熱さが嘘のように引き、ずいぶんとマシな平熱へと近づいていた。
「よかった……本当に、よかったぁ……っ」
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた途端、どっと激しい疲労感が押し寄せてきた。
私はその場にへなへなと座り込み、大きく深い息を吐き出した。
胸の奥底には、言いようのない温かい感情がじわっと広がっていく。見知らぬ異世界に放り出され、戸惑いばかりだった私の心に、確かな『誰かを救えた』という実感が灯った瞬間だった。
§
どれくらいの時間が経っただろうか。
窓の外の空は、いつの間にか夕暮れの茜色から、深い宵闇の青へと染まり始めていた。あやかしの国にも、人間界と同じように太陽が沈み、静かな夜の帳が降りようとしている。
「ん……あぅ……」
静かな部屋の中に、掠れた声が響いた。
ベッドの上で、小さな体がモゾモゾと心地よさそうに動き、長い睫毛がわずかに震える。
私ははっと頭を上げ、椅子から慌てて立ち上がると、ベッドの脇へと音を立てないように歩み寄った。
「気がついた? 気分はどう?」
声をかけると、少女はゆっくりと重たげなまぶたを持ち上げた。
彼女の瞳は、まるで夕暮れの琥珀のような、透き通るように美しい黄金色の輝きを宿していた。しかし、その瞳にはまだ恐怖と不安の色が混じっており、びくりと耳をピンと立てて、私の顔を警戒するようにじっと見つめている。
「っ……ここは……?」
「ここは私の居酒屋『やどりぎ』の二階だよ。覚えてる? あなた皇都の通りの真ん中で、高熱を出して倒れていたんだよ」
私が優しく微笑みかけると、少女は少しの間、ぼんやりとした頭で記憶をたぐり寄せるように沈黙していたが、やがて何かを思い出したように目を見開いた。
「……あたし……行き倒れてた、の……?」
「そう。危うく熱が上がりすぎて大変なことになるところだったんだからね。名前、言えるかな?」
彼女が人間の言葉をこうしてしっかりと理解し、話してくれることに、私はまずホッと胸をなで下ろした。
少女は少しためらった後、おそるおそる、小さくぽつりと言った。
「……美々……だよ。名前は、ミミ」
「ミミちゃんね。私は更科千歳。ちとせって呼んでいいよ」
ミミちゃんは私の名前を小さく、確かめるように何度も繰り返した。そして、私の敵意のない様子をようやく察したのか、おそるおそる布団から身を起こそうとした。
けれど、何日もの間まともな食事も摂れず、過酷な路上で衰弱していたのだろう。ふらりと体が大きく傾いたため、私は慌ててその両肩を優しく両手で支え起こした。
「急に動いちゃダメ。まだ熱が下がったばかりで体力が戻っていないんだから」
「……お腹、すいた……」
彼女の口から零れ落ちたのは、意外にも素直で、切実な欲求だった。
キュルルルル……と、ミミちゃんのお腹の虫が、何とも盛大な音を立てて鳴り響く。
その素直すぎる音に、ミミちゃんははっとしたように両手で自分の顔を真っ赤に覆い隠し、頭の上にある特徴的な三角の耳をペタリと恥ずかしそうに伏せた。
その人間離れしていながらも、あまりに子供らしくて愛らしい仕草に、私の胸はキュンと締め付けられ、思わずフッと笑ってしまった。
「ふふ、そうだよね。何日も何も食べていなかったんだもん。お腹も空くよね、当たり前だよ」
私は再びあの『八百万神恵堂』のウィンドウを脳裏に思い浮かべ、あやかしの子供の弱った胃腸にも優しく染み渡るような食材をいくつか厳選して交換することにした。
人間の料理が彼女の口に合うかどうか少しばかり不安はあったけれど、今のミミちゃんに一番必要なのは、胃に負担をかけず、そして何より冷え切った身体の芯から温めてくれるような、優しい温もりだ。
「ちょっと待っててね。今、すぐになにか温かくて美味しいものを作ってくるから」
私がそう言ってベッドから離れようとすると、ミミちゃんはまだ不安が拭えないのか、ぎゅっと私の服の裾を小さな手で掴んだ。
「……どこ、行くの……?」
「どこにも行かないよ。一階の台所で、ミミちゃんのためのご飯を作ってくるの。すぐ戻ってくるから、ね?」
「……ごはん……?」
ミミちゃんの琥珀色の大きな目が、わずかに期待の色に揺らめく。
私は優しく彼女の頭をなで、安心して眠れるように布団を整えてから、一階の厨房へと階段を下りた。
§
カチッ、と音を立ててガスコンロのつまみを回す。
チイッと青く美しい炎が立ち上がり、年季の入ったアルミの片手鍋の底を優しく温め始める。
「さてと……作りますか」
先ほど神恵堂で交換した箱を開け、コシのあるうどんの乾麺、風味豊かな梅干し、そして新鮮な卵と鮮やかな青ネギを取り出す。
ここは人間界ではなく、異世界の妖怪や神々が蔓延る『かくりよ』だ。周囲の環境は一変したし、自分の身体だって女性に変わってしまった。
けれど、目の前で空腹に怯えている小さな子供を救いたいという純粋な気持ちと、料理という仕事に真摯に向き合う姿勢だけは、東京で厨房に立っていた頃となんら変わらない。
「私は、この場所で生きていくんだ」
決意を込めてそう呟きながら、私はまな板の上に包丁を構えた。
トントン、トントン……と、リズミカルで心地よい包丁の音が、静まり返った厨房に澄んだ響きを広げていく。
ネギのシャキシャキとした清々しい香りが鼻腔をくすぐり、料理人の血を心地よく刺激する。
鍋にたっぷりの水を張り、昆布とかつお節の合わせ出汁を引く。立ち上る芳醇な香りに合わせて、醤油とみりんをほんの数滴、隠し味程度に加えた黄金色のスープが、ふつふつと優しく沸騰していく。
そこへ、ふんわりとした純白のうどんの麺を投入する。
湯気とともに立ち上るのは、何処か懐かしく、そして魂の底からホッと安心できるような優しい匂いだった。このスープの香りが、異世界であるかくりよの冷たい空気と、私のこれまでの日常をしっかりと繋ぎ止めてくれるような気がした。
「よし、後は盛りつけ」
茹で上がったばかりのうどんを丼に美しく盛り付け、熱々の黄金スープを注ぎ、中央にふんわりとした卵を落として、たっぷりの刻みネギを散らす。
そうして、私は出来上がったばかりの卵とじうどんを慎重にお盆に載せ、再び二階の部屋へと階段を上っていった。
「お待たせ、ミミちゃん」
ガチャリとドアを開けると、ミミちゃんは布団の上で上半身を起こし、じっと扉の方を見つめて待っていた。
お盆を小さな木製のテーブルに置いた瞬間、部屋いっぱいに広がる出汁の上品な香りに、ミミちゃんは思わず「はっ……!」と息を呑んだ。
「わぁ……っ……!」
ミミちゃんは小さな鼻をヒクヒクと大きく動かし、丸く見開いた瞳で丼をじっと凝視する。その頭の上の三角耳が、嬉しさのあまりかピコピコと愛らしく動き回っていた。
「これね、私が作ったおうどん。お腹に優しいから、ゆっくり、ふうふうして食べてね」
レンゲと箸を添えて丼を目の前に差し出すと、ミミちゃんはもう我慢できないといった様子で、待ちきれずに両手でレンゲをしっかりと掴み、黄金色のスープを一口すくって、そっと口へと運んだ。
「──っ……!?」
ミミちゃんの体がびくりと硬直した。そして、その琥珀色の瞳から、大粒の涙が一気にぽろり、ぽろりとこぼれ落ちた。
「えっ、ミミちゃん!? どうしたの、また熱がぶり返した? それとも、味が合わなかった……?」
「ううん……違うの……ちがう……っ」
ミミちゃんは激しく首を横に振りながら、あふれて止まらない涙を自分の小さな袖で乱暴に拭い、小さな口でうどんをふうふうと冷まして口に含んだ。
もぐもぐと一生懸命に咀嚼するうちに、彼女の強張っていた表情がみるみるうちに柔らかくなり、まるで厳冬の氷が春の暖かい陽気でゆっくりと溶けていくかのように、心の底から安心しきった笑顔に変わっていった。
「……おいしい……すっごく、あたたかくて、お腹だけじゃなくて、胸の奥までぽかぽかするの……こんなの、はじめて食べた……」
その震える声を聞いた瞬間、私の胸の奥底につかえていた不安や緊張の塊が、スッと綺麗に消えていくのが分かった。
あぁ、よかった。言葉や種族の壁なんて関係ない。私の作った料理が、この異世界の少女の心と体を温めることができたんだ。
「うん、いっぱいいっぱい食べていいからね。お代わりもいくらでもあるから」
「うんっ……! いただきます……!」
ミミちゃんは両手を合わせて嬉しそうに呟くと、夢中になってうどんを啜り始めた。その幸せそうな横顔を見ているだけで、私まで胸がいっぱいになる。
裏口の向こうに広がるあやかしの街並みから、遠くでお祭りの終わりなのか鈴の音が微かに風に乗って聞こえてくる。
異世界の少女と、この温かい一杯のうどんによって深く結ばれた私の新しい日常。
『やどりぎ』という小さな居酒屋の灯りは、かくりよの夜空の下で、これから訪れるたくさんの出会いを優しく待ち受けるように、いつまでも明るく、温かく輝き続けていた。




