第3話 竜皇の都と、路地裏の小さな猫耳小女
足元に広がる石畳の道をしばらく進むと、視界の前方に、圧倒的な存在感を放つ巨大な建造物が姿を現した。
空を突くかのようにそびえ立つ白い巨石を組み上げて作られた重厚な城壁。その上空には、街全体を柔らかく包み込むように、幾重もの光の結界が淡い膜のように揺らめいている。
「あれがかくりよの街か……」
圧倒されつつも、僕の料理人としての血が静かに高鳴る。
初めて見る異世界の巨大都市。あそこには、どれほど多くの肥えた舌を持ったあやかしたちが待ち構えているのだろう。
よし、あの街のどこかで、僕の最初の店を構えよう。
そう意気込んで、城壁の間に切り開かれた巨大な門扉へと足を向けた。
門扉に近づくにつれて、警備の厳重さが肌身に染みてわかる。
そこには、高さ十メートルはあろうかという巨大な木製のどっしりとした鳥居がそそり立ち、その脇を固めるように、屈強な二人の男が陣取っていた。
頭の上にふさふさとした獣の耳をピンと立て、口元からは鋭い牙を覗かせた、大柄な狼の妖怪の門兵だった。
そのうちの一人が、片手に十手のような鉄の武器を持ちながら、ぎょろりとした鋭い双眸で僕を値踏みするように睨みつけた。
「おい、そこの人間。止まれ」
低く重たい、威圧感のある声が飛んできて、ピクリと背筋が凍る。
やばい、いきなり門番に捕まったか……?
一瞬にして冷や汗が全身を駆け巡った。
考えてみれば、かくりよの街に入るための正規の手続きをするためのなにかなんて持っていない。人間の分際でこんな物騒な街にのこのこやってきて、不審者としてボコボコにされるか、最悪の場合は飢えたあやかしたちの夕食のメインディッシュにされかねない。
がっしりとした体格の狼の門兵が、鼻をヒクつかせながら一歩、また一歩と私へと近づいてくる。
「ここは竜皇様が治める皇都だ。人間の分際で、こんなところをうろちょろと……一体、この街で何をするつもりだ?」
門兵の男の目が、さらに鋭く光る。
「怪しい企みでも持っているなら、今ここでその首を落とすが──」
物騒な脅し文句に、心臓が早鐘を打つ。けれど、ここで怯えたらおしまいだ。
僕は深く息を吸い込み、逃げも隠れもせず、堂々と胸を張って男の目をまっすぐ見据えた。
「企みなんてとんでもない。僕──私は、ここで、居酒屋を出すつもりなんです」
ふと、自分の姿が女性に変わっていることを思い出し、先ほどまで出かかっていた『僕』という男っぽい一人称を『私』に変えて微笑む。
「……居酒屋?」
門兵の男は、あまりの予想外すぎる返答に、ピクッと立てていた耳の動きを止めた。殺気立っていた空気が、一瞬で「……は?」という間の抜けた静けさに塗り替えられる。
「そう。温かい料理と、極上の酒を振る舞う店です。こう見えて、私、すぐにでも開店できるだけの準備は完璧に整えているの」
その言葉を聞いた狼の門兵が、怪訝そうに太い眉をひそめた。
「……ふん。大した度胸だな、人間のくせに。だがまあ……この街の連中は、夜な夜な美味い酒と肴に飢えているのも事実だ」
男は腕を組み、さっきまでの殺伐とした雰囲気をどこかへやり、ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それほどすぐに店を出せるって言うなら、うってつけの場所を教えてやる。表通りから一本入った、あそこの空き地だ。あそこなら隠れ家っぽくて、うるさい役人連中も目を付けにくい。お前が作るその酒とメシが本物なら、いい商売ができるはずだ」
「本当? 助かります!」
「礼には及ばん。代わりと言っちゃなんだが……」
狼の門兵はガハハと豪快に笑い声を上げ、私の肩を力強くコツンと叩いた。
「仕事が終わったら、その新しい店に俺の分の一杯を飲みに寄らせてもらう。看板に偽りがないか、この俺が客として厳しく味見してやるから覚悟しとけよ!」
「うん、任せておいて。極上の酒と、最高の肴を用意して待っていますから」
私は力強く頷き、いよいよ皇都の門をくぐり抜けた。
一歩足を踏み入れた瞬間、そこには人間界のそれとは全く異なる、妖しくも情緒に満ちた別世界が広がっていた。
道の両脇には伝統的な和風建築の商店が立ち並び、行き交う人々の姿も実に多彩だ。
頭に真っ白な狐の耳を生やした着物姿の女性が、上品に優雅な笑みを浮かべながら歩いている。
背中に大きな鳥の翼をたたんだ商人が、威勢の良い声を上げながら露店で色鮮やかなスパイスを売り歩いていた。
かと思えば、歩くたびに地面が揺れるほどの大柄な鬼のような姿の男が、豪快に一串肉の塊のような串焼きを頬張っている。
「すごい……まるで、あらゆる神話や幻想が混ざり合ったような街だ」
ふと、喧騒の合間を縫って上空を見上げると、夕暮れ時の茜色の空を、巨大なクジラのような姿をした飛行船が、優雅に、そして圧倒的な存在感を放って泳いでいた。船体の脇にある大きなプロペラが回転する重低音が、微かに腹の底にまで響いてくる。
圧倒的なスケール感に感嘆しつつ、私は門兵に教えられた通り、大通りの賑わいから一本脇へとそれた、薄暗い空き地へと足を向けた。
その時だった。
ざわざわとした通りの喧噪の向こう側から、か細い、聞き逃してしまいそうなほど苦しげなうめき声が聞こえてきた。
「ん……うっ……」
ハッとして足を止め、音のする方へ目を凝らす。
すぐ目の前の、石畳の道端の隅っこに、小さな影が丸くなっているのが目に入った。
「っ……!」
私は反射的に駆け寄り、その小さな影の前にひざまずいた。
そこに倒れていたのは、どう見ても十歳にも満たないくらいの、小さな女の子だった。
よく見れば、彼女の頭頂部には、くたびれた猫のような三角の耳がピクリとも動かずに生えており、背中にはボロボロの布地に隠れるようにして、小さな尻尾が力なく垂れ下がっている。着ている服はあちこちが擦り切れ、泥と埃まみれだった。
「どうしよう、この子……!」
私は慌てて周囲を見回した。
しかし、通りを行き交うあやかしの商人や通行人たちは、まるで道端の石ころでも見るかのように、その倒れた少女を誰一人として気に留めない。皆、我関せずといった冷淡な様子で、ただ足早に通り過ぎていくだけだった。
その冷たい光景に、胸がキュッと締め付けられるように痛む。こんな小さな子供が一人で倒れているのに、誰も手を差し伸べないなんて。
「大変……! しっかりして、ねえ!」
私は思わず声を上げ、彼女の傍らにさらに体を寄せた。
震える手でその小さな額にそっと手の平を触れてみると、ぞっとするほどの高熱が伝わってきた。肌が焼けるように熱く、呼吸も浅くて速い。どうやら高熱で意識が朦朧としているようだ。
「こんなところで倒れてたら……放っておけないよ、絶対に」
ここで見過ごしたら、後で絶対に後悔する。目の前で苦しんでいる子供を放っておけるほど、私の心は腐っちゃいない。前の世界でも、困っている人がいれば放っておけない性分だったが、この異世界に来てもそれは変わらないらしい。
私はしっかりと決意を込めると、その小さな体を自分の背中におぶった。
「よいしょ……っ!」
「……ん……う……?」
少女がかすかにうめき声を上げ、私の背中にしがみつくように腕を回した。
背負ってみると、驚くほど軽かった。骨と皮ばかりのように痩せ細っていて、この街でどれほど過酷な日々を送ってきたのかが痛いほど想像できる。
「大丈夫だよ、もうすぐ温かいところに連れて行ってあげるからね。しっかりつかまってて」
私は優しく声をかけながら立ち上がった。
そして、今まさに手に入れたばかりの異能の力を思い浮かべる。
ここは表通りから外れた、誰の目にもつかない薄暗い空き地。
かくりよで出会った行き倒れの小さな猫耳の少女。この子を救うためにも、今すぐ私のお店を開かなければならない。
私は空間に向かって右手を掲げた。
「店舗顕現」
呟いた瞬間、空気がふっと微睡み、湿った夜風の中に香ばしい醤油の匂いと、出汁の優しい香りが一気に混ざり合った。
空間が歪み、パチパチと音を立てながら、夜の闇の中にぽっかりと、古風で居心地の良さそうな木造建築の居酒屋──『やどりぎ』が実体を持って姿を現す。
「さあ、入ろうか」
私は背中の少女をしっかりと支えながら、藍色の暖簾をくぐり、温かな明かりの灯る店の中へと急ぎ足で踏み出したのだった。




