第2話 やどりぎと、想定外の鏡像
空が茜色の夕景に変わり始める頃。
人の気配がない広々とした平原の道に、僕はぽつんと立っていた。
湿った風が頬をなでるたびに、どこか煤けた土の匂いが鼻腔をかすめ、遠くから微かに響く祭囃子の音が耳朶をくすぐる。
人間のものではない獣の遠吠えも聞こえるが、不思議と恐怖心はない。ただ、これからここで新しい生活が始まるのだという、静かな高揚感だけが胸の奥で波打っていた。
「ここが……『かくりよ』か」
呟いた自分の声に、少し違和感を覚えた。
なんだか以前よりも声のトーンが高く、やけに澄んでいる気がする。気のせいだろうか。
僕は首をかしげつつも、まずは当面の生存戦略を立てるべく、教えられた手順を思い出した。
「まずは……状況の確認だな」
僕は意識を集中させ、呪文を唱える。
「開け、神鏡」
瞬間、視界の端の暗がりに、薄っすらと半透明の和紙のような光のスクロールが展開された。そこに流麗な墨文字が浮かび上がってくる。
【店主名】:更科千歳(神子)
【位階】:霊位一階(初階)
【霊格の澱】:0/100
【店舗】:未展開
【神恵】:1000点
【所持金】:霊貨50枚
「これが今の僕のステータスか」
位階は『霊位一階(初階)』。和風ファンタジーらしい、いかにも底辺からのスタートという響きだ。しかし、初期値として『神恵』が1000点あり、霊貨も50枚握りしめている。上々の滑り出しと言っていいだろう。
そして、店舗の項目は『未展開』となっている。
「さて、と」
周囲には誰もいない。どこまでも続く平原の道は静けさに包まれており、僕のかくりよにおける最初の一歩を踏み出すにはこれ以上ない特等席だった。
僕は深く息を吸い込み、空間に向かって右手を大きく掲げた。
脳裏に思い描くのは、赤々と灯る提灯、使い込まれた木の温もり、そして藍色の暖簾の感触だ。
「よし。さっそく店舗を出してみよう。『店舗顕現』」
はっきりと口に出して命じた瞬間、空気がふっと微睡んだ。
湿った夜風の中に、香ばしい醤油の匂いと、出汁の優しい香りが一気に混ざり合う。空間が歪み、パチパチとまるで炭火が爆ぜるような音を立てながら、夜の闇の中にぽっかりと、古風で居心地の良さそうな木造建築の居酒屋が実体を持って姿を現した。店の軒先には、あたたかなオレンジ色の光を放つ赤提灯がふわりと揺れている。
《店舗名を決めてください》
突然、頭の中に透き通るようなシステムの声が響いた。
店名か。この世界の片隅にひっそりと佇み、旅人やあやかしたちが羽を休められるような場所にしたい。
しばし悩んだ末に、僕の脳裏に一つの名前が浮かんだ。
「よし、『やどりぎ』にしよう」
そう呟いた瞬間、店構えに変化が起きた。
店の正面に掲げられた木の看板に、力強く美しい文字がスルスルと刻まれていく。さらに、風に揺れる藍色の藍染めの暖簾にも、はっきりと『やどりぎ』の文字が染め抜かれていた。
「……よし、完璧だ」
僕は感嘆の息を漏らしながら、店の入口へと歩み寄った。
藍色の暖簾にそっと手をかけ、ぐっとそれをくぐり抜ける。ガチャリ、と心地よい引き戸の音が夜の静寂を切り裂いた。
中へ一歩足を踏み入れると、そこには懐かしくも温かい空間が広がっていた。
目の前に広がるのは、丁寧に磨き上げられた一枚板のカウンター席。全部で六席ほどの、こじんまりとした隠れ家的な広さだ。木目が美しく浮き出たカウンターの向こうには、機能的に配置された厨房が広がっている。
ピカピカに磨かれたシンク、ずらりと並ぶ包丁や調理器具、そして仕込み用のコンロ。どこをとっても、料理人である僕の血を騒がせる最高の環境だった。
カウンターの端には、上へと続く急な木製の階段が設置されている。どうやら、この店舗の二階部分は店主の居住空間になっているらしい。住み込みで働くにはこれ以上ない間取りだ。仕事が終わったらすぐに二階の自室で泥のように眠れる。最高の労働環境じゃないか。
「ふう……それにしても、なんだか少し体が軽いな」
店の中の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ふと自分の体に違和感を覚えた。
手のひらが妙に柔らかいし、髪の毛も、以前は短髪だったはずなのに、なんだか肩のあたりまでさらさらと垂れ下がっているような気がする。
「気のせい……だよな?」
嫌な予感がスルスルと背中を這い上がる。
僕は厨房の片隅にある、従業員用の小さな洗面所へと急ぎ足で向かった。そこには、アンティーク調の綺麗な鏡が取り付けられていたのだ。
恐る恐る、その鏡の前に立つ。
そこに映し出された自分の姿を見た瞬間、僕の思考は完全にフリーズした。
「……は?」
鏡に映っていたのは、見知らぬ誰かだった。
いや、違う。顔のパーツをよく見れば面影はあるような気もするが、どう見てもそこには、まごうことなき『美しい女性』が映し出されていた。
艶やかな黒髪のミディアムボブが、光を浴びてさらりと揺れている。ぱっちりとした二重の大きな瞳に、スッと通った美しい鼻梁。そして、ぷるんと瑞々しく色づいた薄めの唇。年齢は二十歳前後くらいに見える。どこからどう見ても、清楚で可憐な女の子そのものだった。
「嘘だろ……?」
自分の頬を両手でパタパタと叩いてみる。鏡の中の女の子も、全く同じタイミングで頬をペタペタと叩き返してきた。夢ではない。現実だ。完全に、僕は女性の体に作り変えられてしまっている。
「TS……ってやつかこれ……!?」
頭の中に、現代日本で親しまれているオタクカルチャーの単語が突如として浮かび上がった。俗にいう『性別転換』。まさか、自分の人生(死後の第二の人生)において、それが実体験として降りかかるとは夢にも思わなかった。
呆然と自分の体を上から下へと見下ろす。
シャツやズボンは、いつの間にか体にフィットする女性物のラフな衣服へと変わっており、胸元には見慣れない膨らみすら確認できる。
「あの神様……、僕の性別、盛大に誤解したんだろうか……?」
思い返せば、生前の記憶が蘇る。
確かに、幼少の頃から童顔だと言われてよく女の子に間違えられていたし、男にしては線が細く、色白だった自覚はある。
だからといって、転生する際に女性の肉体をあてがうなんて、神様も大概いい加減すぎやしないか。
「いや、待てよ……落ち着け、僕。パニックになっても体は戻らない」
僕は深く深呼吸をし、両手で自分の頬を軽く叩いて気合を入れた。
男だろうが女だろうが、目の前には最高の居酒屋『やどりぎ』があり、僕には料理の腕と、この世界で生きていくためのシステムがある。何より、料理人として自分の店を持ち、客を満足させるという夢の第一歩を踏み出したばかりなのだ。
「……まあ、いっか。可愛いからよしとしよう!」
なんとも前向きすぎる結論にたどり着き、僕は苦笑いを浮かべた。
むしろ、このあやかしの蔓延る妖艶な『かくりよ』の世界において、この可憐な容姿は一種の武器になるかもしれない。物騒な妖怪どもを油断させるには、これくらいの方が都合が良い気さえしてきた。
「さて、と」
僕は店外に出ると、一旦『店舗収納』と唱えて店を閉じ、居酒屋を営むのに適した人通りの多い場所を求めて、道を先へと歩きだした。




