第1話 かくりよ転生
「ここは……?」
呟いた僕の声は、妙に澄んだ響きを帯びてこの空間に吸い込まれていった。反響すらしない。ただ冷たく、静謐な気配だけが充満している。
視界を埋め尽くしているのは、あまりにも空虚な『無』。
どこまでも、どこまでも、どこまでも。
見渡す限りの純白。足元に地面の感触はなく、ふわりと綿の上に浮かんでいるような、頼りない浮遊感だけが全身を包み込んでいる。
頭の芯がぼんやりと痛む。
最後に思い出すのは──そうだ。仕込みを終えた包丁を研ぎ、まな板をアルコールで拭き上げていた夜更けの厨房の光景だった。そのあと、妙な地響きがして、天井が光の奔流に引き裂かれ──。
「目が覚めたかしら」
唐突に、鈴を転がしたような、底知れぬ神聖さを湛えた声が響いた。
ハッとして振り返る。そこにいつから立っていたのか。白銀の髪を長く垂らし、人間とは思えないほど端正で、見惚れるほどに妖艶な気配を纏った女性が佇んでいた。
彼女の身体の周囲には、ふわりと舞う虹色の羽衣が揺らめいている。
纏う衣の隙間から覗く肌は透き通るように白く、その瞳には、夜空の星々を凝縮したような深い光が宿っていた。
天女。
古事記や御伽草子、あるいは絵巻物の中でしか見たことのない、神話の存在。
「あ……あの」
言葉を詰まらせる僕を前に、その女性は優雅にふわりと一歩近づいてきた。神秘的な美しさに気圧されそうになるが、次の瞬間、彼女が発した言葉でその幻想は木端微塵に砕け散ることになる。
「私はね、この世界の理を司る神様よ。で、いきなりで悪いんだけど、あなたのこと、手違いで殺しちゃったのよね」
「……え?」
我が耳を疑った。
「殺しちゃったのよね」?
今、この神様とやらは何と言った? カジュアルにとんでもない大罪を告げられた気がする。
「え、えっと……?」
「あ、でも一瞬だったはずだから、苦痛はなかったでしょ?」
「そういう問題じゃないです! 殺されたって、どういうことですか!」
僕の叫びに、自称『神様』は、気まずそうに頬を掻いた。仕草があまりにも人間臭くて、威厳がどこかに吹き飛んでいる。
「いやぁ、ちょっとね。人間界のすぐ裏手にある『かくりよ』で、暴れ回る大妖怪の退治という荒事をやっていたのよ。で、手加減を間違えちゃって……私の放った強力な神撃が、次元の壁を突き破って、現世のど真ん中にまで直撃しちゃったわけ。で、ちょうどその時、その通りすがりの空間にあなたがいたっていうか……あ、うん、肉体が文字通り綺麗に消滅しちゃったの。本当にごめんね?」
「軽いなっ……!」
思わずツッコミを入れてしまった。
あまりのスケールの大きすぎる理不尽な死に様に、怒る気力すら湧いてこない。通りすがりに隕石が直撃したようなものだ。しかもそれを放った本人が、まるで「道端の花をうっかり踏んじゃった」くらいのテンションで謝っている。
「で、でも、ほら! 私としてもこれだけの失態をやらかしたわけだし、放置するわけにはいかないでしょ? だから、精一杯の誠意を見せるわ」
神様はふんっと胸を張り、しなやかな指先を僕に向けた。
「お詫びに、別の世界へ転生させてあげる!」
出た。現代日本におけるフィクションの王道、もはや定番中の定番。
「……異世界転生ですか?」
「ええ、そうよ! 人間界とは違う、あやかしや神々が住まう国──『かくりよ』にね」
「かくりよか……」
驚きよりも先に、どこか妙な納得感が胸に広がる。
見渡す限りの白銀の世界、目の前の天女。この時点で現実離れしすぎていて、脳の処理が『異世界転生』という便利な概念に飛びついてしまったらしい。
ふう、と一つ大きく息を吐き出す。
「和風ファンタジーな世界観ですね」
「ふふ、察しが良くて助かるわ。どう? ワクワクするでしょ?」
「ワクワクっていうか、人生の計画が狂いまくりですけど」
とはいえ、嘆いていても元に戻るわけではないらしい。肉体はすでに消滅したと彼女は言った。それならば、この理不尽な状況を最大限に楽しんでやるか、あるいは自分の望む形にねじ曲げてやる方が得策だ。
僕は頭を切り替え、じっと目の前の神様を見据えた。
「じゃあ、転生特典をつけてください」
「あ、いいわねえ、話が早い。望みは何でも言いなさいよ。神の権限で大体のことは叶えてあげるから」
太っ腹な発言に、僕はすかさず自分の夢を口にする。
「僕、元々は料理人でして、いつか自分のお店を持つのが生前の夢だったんです。どうせ転生するなら、物騒な争いごとをする冒険者とか勇者とかじゃなくて、美味しいお酒と料理が提供できる『居酒屋』がいいですね」
「居酒屋、ねえ。あやかしの国で人間が店を営むなんて、なかなかスリリングで面白そうじゃない」
神様は楽しげに目を細めた。
「よし、特別に力を貸してあげましょう。じゃあ、こうしましょう。どこへ行っても自分の店が瞬時に展開できる『店舗顕現』の異能を授けてあげる」
「どこでも居酒屋を営める力……!」
「それだけじゃないわ。あなたの望み通り、店にやってきた客の入りや満足度に応じて、店としての『位階』が上がっていくシステムにしてあげる。お客さんがもたらしてくれる歓喜や霊的なエネルギーが経験値となり、『神恵』がポイントとして蓄積されていく仕組みよ」
神様が指をパチンと鳴らすと、空中に金色の文字の羅列がふわりと浮かび上がった。
おお、と心の中で声が出る。まさにゲームのシステムウィンドウだ。
「位階が上がるごとに、店で扱える食材や酒類が上等なものになっていくわ。もちろん、料理の腕前や仕込みのクオリティもそれに連動して引き上げられる仕組みよ。食材の仕入れは『神恵』と引き換えね。交換する際は、『神恵交換』と唱えて」
「それは、めちゃくちゃありがたいシステムですね。料理人として血が騒ぎます」
「でしょ? さらに、今の自分の状態や位階を知りたい時は、『開け、神鏡』と唱えなさい。そうすれば、あなたの魂のステータスや蓄積された神恵がいつでも確認できるわ。居酒屋を展開したい時は『店舗顕現』。閉じたい時は『店舗収納』よ」
システムの起動コマンドまで丁寧に教えてくれる。神様、最初はふざけているように見えたが、案外面倒見が良いのかもしれない。
「それとね、商売道具の初期投資っていうわけじゃないけど、かくりよの貨幣である『霊貨』も、いくらかふところに入れておいてあげる。これなら向こうの街でも当座の足しになるはずよ」
「至れり尽くせりですね」
「私のせいで死なせたお詫びよ。誇り高く、美味しい料理で、あの世のあやかしどもを唸らせてみなさい!」
神様は満足そうにふふんと鼻を鳴らす。
その姿が、少しずつ光の粒子に溶けるように、輪郭をぼやかしていく。
「あ、そろそろこちらの世界とあちらの魂の波長が同調したみたい。そろそろお迎えの時間ね」
「っと、もう行くんですか?」
「ええ。あなたの第二の人生が実りあるものになることを、天上から祈ってるわ。それじゃあね、料理人さん!」
「あ、ちょっと──」
言葉を最後まで紡ぐ暇もなく、視界の白さが一気に光の奔流へと変わる。
激しいめまいの後、僕の意識はぐっと深い底へと引きずり込まれていった。




