第10話 黒猫の紳士と、風花亭への誘い
店の外の冷たい夜風を纏いながら、静かに現れたその人物に、私たちの視線が一斉に引き寄せられる。
「やってるかい?」
低く、どこか耳心地の良い、まるでシルクのように滑らかな声音が店内に響いた。
店に足を踏み入れたのは、二十代後半ほどに見える、人間態を完璧に保った一人の男性だった。
その出で立ちは、異世界であるこの『かくりよ』において極めて異彩を放っていた。
仕立ての良いダークグレーの近代的なスリーピーススーツをビシッと着こなし、その上から豪華な鶴の刺繍があしらわれた黒羽織をふわりと羽織っている。首元には鮮やかな真紅のネクタイが丁寧に結ばれており、胸元で留められたタイピンには、暗がりの中でも妖しく、そして眩しく光る大粒のダイヤモンドが嵌め込まれていた。
端正で、どこかミステリアスな涼しげな切れ長の瞳。手入れの行き届いた艶やかな漆黒の短髪。
整った顔立ちのその男性の頭の上には、ふわりと柔らかな黒猫の耳が愛らしく顔を覗かせ、背後では上品に長い尾がゆらゆらと優雅に揺れていた。
イギリスの紳士服と、日本的かつ妖艶な和の意匠が完璧に融合した、まるで貴族のような佇まい。
私は思わず手を止め、その男性の姿に見とれてしまった。
「いらっしゃいませ……! どうぞ、カウンターのほうへお掛けください」
私は慌てて気を取り直し、明るい笑顔で声をかけた。
男性はふっと艶やかな笑みを浮かべ、落ち着いた足取りでカウンターの中央へと歩み寄る。
「ああ、失礼するよ……。おや?」
腰を下ろそうとした彼の動きが、ふとピタリと止まった。
彼は隣の席に座り、涼やかな冷酒のグラスを片手に持っていた女性を一瞥し、驚いた顔をした後、どこか面白がるような笑みを深める。
「これは驚いた。誰かと思えば、『宵月』のところの玉藻ちゃんじゃないか。こんな大衆的な居酒屋に君が顔を出すなんて、珍しいこともあるものだね」
声をかけられた玉藻さんは、手元にあった切子のグラスをそっと置き、冷ややかな警戒と、ほんの少しの緊張が入り混じった瞳でその男性をまっすぐに見据えた。
「……夜光の旦那。どうしたんだい、こんなところで。あんたこそ珍しいね。こんな庶民的な居酒屋に顔を出すなんてさ。確か、あんたはお酒が飲めない下戸のはずだろう?」
夜光と呼ばれたその黒猫のあやかしは、ふっと余裕のある笑みを崩さないまま、玉藻さんの隣の席に上品に腰を下ろした。
「なに、ここ最近、この街のあやかしたちの間で、ある新しい居酒屋の料理の評判がやけに僕の耳にも届いてね。どれほどのものか、一度この舌で直接味わってみようと思って足を運んだまでさ。酒がなくとも、美味い料理というだけで十分に足を向ける価値はあるだろう?」
「ふん……相変わらず、食い意地が張っているんだか、好奇心が強いんだか分からない男だね」
玉藻はやれやれといったふうに肩をすくめながら、警戒を解かない様子で冷酒を一口含んだ。
私は二人のやり取りをハラハラしながら見守りつつ、そっと夜光さんの前に温かいおしぼりと水を用意した。
「あの……お二人はお知り合いなんですか?」
私が恐る恐る尋ねると、夜光さんは優雅に微笑み、私に視線を向けた。
「ああ、失礼したね。僕は夜光。この皇都で商売をしている者さ。玉藻ちゃんとは職業柄、少しばかり付き合いがあってね」
そう言って、夜光さんはふっと目を細めた。
「そして君が、この『やどりぎ』を切り盛りしている噂の店主だね。聞いていた通り、非常に若く、そして、愛らしい店主じゃないか」
「あ、ありがとうございます……私は更科千歳といいます。千歳って呼んでくださいね、夜光さん」
「千歳君、ね。よろしく頼むよ」
夜光さんは満足そうにうなずくと、すっと手元のメニューに目を落とした。
その様子を隣で見つめながら、玉藻さんが小声で私に耳打ちする。
「千歳、気をつけなさいよ。この夜光の旦那はね、この街でも指折りの大商人で、金華猫のあやかしなのよ。商売にかけては頭が切れるし、何より美食家で有名なんだから。ヘタなものは出せないわよ」
金華猫の大商人……!
どことなく漂う只者ではない気配の理由はそこにあったのかと、私は内心でグッと気を引き締めた。
「それで、千歳君」
夜光さんはジャケットのボタンを綺麗に外し、カウンターの上で美しく指を組んだ。その漆黒の短髪の間から、黒猫の耳がピクリと動く。
「さっそくだが、この店で一番自信のある料理を僕に出してくれないか? 君が作る最高の料理を、ぜひ味わってみたい」
一番自信のある料理、か。
奇しくも、少し前に店の位階が『霊位二階(中階)』へと上がり、神恵堂で扱える食材のラインナップが一気に豪華になったばかりだ。
これまでの大衆的なおつまみや焼き鳥も自慢の品ではあるけれど、目の前にいるのは舌の肥えた大商人であり、美食家として知られる夜光の旦那。
ここで出すべきは、今の『やどりぎ』の最高到達点を示す一品にほかならない。
「お肉とお魚では、どちらがお好みですか?」
私が尋ねると、夜光さんは少しだけ考え込むような仕草をしたあと、穏やかに微笑んだ。
「そうだな……僕は、魚が大好物だよ。新鮮な海の恵みを感じられるような一品なら、なお嬉しいね」
「魚ですね、かしこまりました!」
魚料理。
先ほど、位階が上がったことで解禁されたばかりの、あの少し豪華になったラインナップが頭に浮かぶ。
注文を受けてからスピーディーに調理でき、なおかつ素材の持つピュアな旨味と、火入れによる香ばしさを同時に堪能できる最高のコンビネーション。
これしかない。
「決まりました。それでは、本日仕入れたばかりの極上の海の恵みを使ったお料理をお出ししますね。少しだけお待ちください!」
私は気合を入れ直し、厨房の奥へと素早く振り返った。
冷蔵庫から取り出したのは、神恵堂で手に入れたばかりの、透き通るような身質の極上の鮮魚たち。
一品目は、包丁の切れ味一つでその鮮度と旨味がダイレクトに決まる、『旬の鮮魚の白身魚とイカのお造り(刺身盛り合わせ)』。
しっとりとした上品な甘みを持つ極上の白身魚と、ねっとりと舌に絡みつくような透き通るイカの身を、切れ味抜群の刺身包丁で一気に、美しく、かつ繊維を潰さないようにスーッと引き分けていく。皿の上に美しく盛り付け、彩りに穂紫蘇やワサビを添える。これなら注文からわずか数分で、最高の状態でカウンターに出せる。
そして二品目は、熱々の火入れで皮目の香ばしさを爆発させる、『金目鯛の松笠焼き(炙り)』だ。
美しい赤皮をまとった金目鯛の切り身に軽く塩を振り、ガスバーナーの鋭い炎で、皮目を一気に香ばしく、パリッと焼き上げる。熱によって金目鯛の上質な脂がじわりと溶け出し、香ばしい匂いが厨房全体に広がる。皮はサクッと香ばしく、中はふんわりとレアな仕上がりにする絶妙の火加減だ。
この『白身魚とイカのお造り』と『金目鯛の炙り(松笠焼き)』の双方が揃っていれば、魚好きの夜光の旦那の心も必ずや掴めるはずだ。
「お待たせいたしました!」
私は丁寧に盛り付けられた二つの大皿を両手に持ち、カウンターの夜光の目の前へとそっと差し出した。
カウンターの上に置かれた瞬間、店内の空気がふわりと華やいだ。
透き通るような白身魚の繊細な美しさと、ねっとりと甘いイカの質感が映える『白身魚とイカのお造り』。そして、パリッと香ばしく焼かれた黄金色の皮目が食欲をそそる『金目鯛の松笠焼き』。
その圧倒的なクオリティの料理を前に、隣で見ていた玉藻さんも「おや、やるじゃない、千歳」と感嘆の声を漏らした。
夜光さんは、目の前に並べられた二つの皿をじっと見つめ、それからゆっくりとお箸を手に取った。
まずは『白身魚とイカのお造り』の中から、透き通るイカの身を一口。続いて、上品な白身魚をワサビ醤油に軽く浸して口へと運ぶ。
咀嚼する彼の黒猫の耳が、心地よさそうにぴくりと動いた。
さらに、『金目鯛の松笠焼き』の、パリッと香ばしそうな皮目の部分を一口。
その瞬間、夜光さんの動きがピタリと止まった。
「……………………」
彼は何も言わず、ただじっと目を閉じて、口の中に広がる味わいに深く浸っている。
そのあまりの静けさに、私は思わず不安に駆られてしまった。
「あの……お口に、合いませんでしたか……?」
私の震え気味の声を聞き、夜光さんはゆっくりと目を開けた。その涼やかな瞳には、先ほどまでの余裕とは違う、底知れない深い光が宿っていた。
彼はふっと息をつき、お箸を綺麗に置いた。
そして、真面目な顔つきになって私を真っ直ぐに見据えたのだ。
「なあ、千歳君」
「は、はい……!」
「君に、一つ折り入って相談があるんだがね」
「そ、相談、ですか……?」
夜光さんは真剣な眼差しを崩さぬまま、信じられない言葉を口にした。
「君、うちの宿で、この居酒屋を出してみる気はないかい?」
「……え……? 宿で……ですか?」
予想の斜め上をいく提案に、私の思考は完全にフリーズした。
隣で聞いていた玉藻さんも、グラスを持ったまま目を限界まで見開いた。
「ちょっと待ってよ、夜光の旦那! 本気かい!? あんたのところは、この皇都でも最高峰の格式を誇る老舗高級宿『風花亭』だろう? そこで出されている料理といえば、誰もが憧れる最高級の懐石料理のはずじゃないか!」
玉藻さんが驚愕の色を隠せないまま、声を荒らげた。
「そうだよ、玉藻ちゃんの言う通りさ」
夜光さんは優雅に微笑みながら、自分のスーツの襟を整えた。
「だからこそ、さ。最近ね、うちのような伝統ある高級宿に泊まりに来る客層も、少しずつ変わりつつあるんだ。格式高い懐石料理はもちろん喜ばれるけれど、それだけではどこか堅苦しすぎると感じる若いあやかしたちや、もっと気軽に、美味しいお酒と一緒に心からリラックスして楽しめる空間を求める声が増えているんだよ」
夜光さんは私へと再び視線を戻し、熱を帯びた声で語りかけた。
「そして、その時代のニーズに、この『やどりぎ』という居酒屋のコンセプトは見事に合致している。高級な素材を使いながらも、どこか温かく、気取らずに極上の味を楽しめる。僕はね、君の料理と、この店の持つ雰囲気に惚れ込んだんだ。門兵の迅から聞いた話では、この店はどこでも自由に展開できる不思議な力を持っているそうじゃないか」
夜光さんの言葉に、私はハッとした。
そうだ、私には神様から授かった『店舗顕現』と『店舗収納』の異能がある。あの平原でも、皇都の空き地でも、思い描いた場所に瞬時にこの店を現すことができるのだ。
「そこの『風花亭』の敷地内にね、静かで、四季折々の草花が美しい絶好の中庭スペースがあるんだよ。そこにね、この『やどりぎ』を出店させてみたいのさ」
夜光さんの瞳が、ビジネスマンとしての鋭い輝きを帯びる。
「『風花亭』の格式高い本館とはまったく違う、庶民的で、いつでも気軽に立ち寄れて、けれど味のクオリティは確かな居酒屋というコンセプト。既存の高級宿のなかに、そんな真新しいアプローチの店舗があれば、うちの宿の目玉にもなるし、何より宿泊客たちに最高のサプライズを提供できるはずだ。場所も、今ここにある店舗からそう遠くない、同じ皇都の区画内にあるからね。今の常連の連中も、問題なくそのまま通い続けることができるはずだよ」
一気に語られた壮大な提案に、私の頭はめまぐるしく回転していた。
老舗の高級宿である『風花亭』の中庭に、『やどりぎ』を出す……?
それは、私の店が一介の路地裏の居酒屋から、皇都を代表する老舗宿の敷地内へとステップアップすることを意味していた。客層も一気に広がり、料理人としてのステージも桁違いに上がる。
「どうするんだい、千歳? 夜光の旦那が経営するあの『風花亭』のなかに店が開けるなんて、ちょっとした快挙どころの話じゃないわよ。すごいチャンスじゃない!」
玉藻さんも身を乗り出し、自分のことのように興奮気味に私の背中を押してくれた。
頭の中に浮かぶのは、これまでの日々。
何もなかった真っ白い世界から始まり、この皇都に店を構え、迅さんや翔琉さん、看板娘のミミちゃん、看板狐のコユキ、そしてライバルから親友になった玉藻さんや、森で出会った蒼さんたち、たくさんの大切な人たちとの仲を築いてきた。
この『やどりぎ』という場所は、私にとってのすべてだ。
それを、もっと大きな場所に広げることができる。夜光さんの提案は、料理人としてこれ以上ないほど魅力的だった。
けれど、同時に不安も少しだけよぎる。
高級宿のなかに居酒屋を出して、本当にうまくいくだろうか。これまでの常連さんたちは驚かないだろうか。
そんな私の迷いを読み取ったのか、夜光さんは優しく微笑んだ。
「焦る必要はないさ、千歳君。君がすぐに返事をしなくても、僕の方の扉はいつでも開いている。ただ、自分の料理の腕に自信を持ちなさい。君の料理は、人を動かす力を持っている。それは間違いのない真実だ」
夜光さんのその温かい言葉を聞いた瞬間、私の胸の内で迷っていた霧がスッと晴れていくのが分かった。
怖いものなんてない。
私は私の料理を信じて、目の前に広がる新しい扉を開ければいいんだ。
私はしっかりと顔を上げ、夜光さんのまっすぐな瞳を見据えた。
「夜光さん……ありがとうございます」
深呼吸をして、はっきりと自分の口で告げる。
「私……そのお話、ぜひ受けてみたいです。『風花亭』の中庭で、居酒屋『やどりぎ』を開いてみたいです!」
私のその返事を聞いた瞬間、夜光さんはパッと満面の笑みを浮かべ、満足そうにうなずいた。
「素晴らしい決断だ、千歳君。後悔はさせないよ。君を迎え入れるための準備は、僕が責任を持って進めておこう」
「おめでとう、千歳! よかったわね!」
隣で聞いていた玉藻さんも、自分のことのようにグラスを掲げて祝福してくれた。
カウンターの端で眠そうにしていたコユキも「キュッ!」と元気に鳴き、ミミちゃんも「ちとせ、すごいね……!」と両手を握りしめて目を輝かせている。
「決まりだね。それじゃあ、この新しい門出を祝って、何か美味い酒を一本もらおうか。もちろん、僕には飲めないが、君たちのための祝い酒さ」
夜光さんのその言葉を皮切りに、その夜の『やどりぎ』はさらなる活気と笑い声に包まれた。
後からやって来た迅さんや翔琉さんも「すげえじゃねえか、風花亭に出店なんて!」と大はしゃぎでビールを飲み干し、店中がお祝いムード一色に染まった。
そして、すべての営業が終わり、静まり返った深夜の厨房。
私は片付けを終えると、窓の外に広がる皇都の夜空を見上げた。
あの日、神様のうっかりでこの『かくりよ』に転生し、右も左も分からぬまま始めた居酒屋経営。
それが今や、老舗高級宿『風花亭』へとその翼を広げようとしている。
「ふう……明日から、また忙しくなりそうだな」
私は気を引き締めつつも、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
『風花亭』の従業員たちとの顔合わせや、新しい場所での開店準備。これから待ち受けているであろう新しい出会いと挑戦を想像すると、料理人としての血がどうしようもなく熱くたぎるのを感じる。
異世界の夜空の下、小さな居酒屋『やどりぎ』の灯りは、明日へ向けてこれまで以上に明るく、力強く輝き続けていた。




