第11話 風花亭の試練、新たな風と険しい道のり
風花亭は、幾重にも連なる白壁と漆黒の梁、そして手入れの行き届いた日本庭園が美しく調和した、非常に立派で格式高い建物だった。
石畳の通路の脇を流れる澄んだ小川には錦鯉が優雅に泳ぎ、風に揺れる木々のざわめきと相まって、ここが単なる宿ではなく、一つの独立した幽玄の世界であることを物語っている。長年、多くの旅人や高貴な客たちの疲れを癒やしてきただけの風格が、その佇まいからひしひしと伝わってきていた。
その宿の敷地に足を踏み入れた私の胸のうちは、期待と不安が入り交じって激しく波打っていた。
肩の上では、いつもなら元気にピコピコと動いているコユキの耳が、この場の重厚な雰囲気に気圧されたのか、ペタリと伏せられている。
隣を歩くミミちゃんも、私の衣服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめたまま、周囲をキョロキョロと窺っていた。
いよいよ今日、この高級老舗宿の従業員たちとの顔合わせが行われるのだ。
格式高い老舗の高級宿に、庶民的な居酒屋の飾らない料理を出す私のような異界の人間が、果たして本当に受け入れられるのだろうか。胸の奥で冷たい緊張感がスルスルと這い上がってくる。
夜光さんはそんな私の緊張を察したのか、余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「緊張しなくていいさ、千歳君。うちの連中は少しばかり頑固なところがある者も中にはいるが、君の料理を一口食べれば、そんなものは一瞬で吹き飛ぶはずだ。さあ、気楽にいこう」
夜光さんの穏やかな励ましの声に背中を押され、私たちは風花亭の大きなエントランスをくぐり抜け、従業員たちが待ち受ける本館の奥深い大広間へと向かった。
長い廊下を歩くたびに、磨き上げられた床板がきゅっと心地よい音を立てる。
やがて、厳かな木彫りの装飾が施された立派な和室の大きな引き戸の前にたどり着いた。
夜光さんが静かにその扉を開けると、そこにはすでに宿の主要なスタッフたちがずらりと勢揃いしていた。畳の上にピシリと整列した彼らの姿からは、老舗高級宿の屋台骨を支える者特有の、研ぎ澄まされた緊張感と誇りが漂っている。
「皆、お疲れ様。急な招集にもかかわらず集まってくれてありがとう」
夜光さんが穏やかながらもよく通る声を響かせながら部屋に入ると、スタッフたちが一斉に深く頭を下げた。
「皆、彼女が今度この『風花亭』の中庭スペースで居酒屋を開くことになった更科千歳君だ。そして、そちらが看板娘のミミ君と、看板狐のコユキ君だよ」
夜光さんに促され、私は慌てて背筋を伸ばし、その場で深々と頭を下げた。
「はじめまして、更科千歳です! 至らない点も多いかと思いますが、『風花亭』の皆様にご迷惑をおかけしないよう、精一杯美味しいお料理を作らせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします!」
「……ふん」
私の挨拶の直後、最前列に陣取っていた厳めしい巨体が、不満げに鼻白むような音を立てた。
夜光さんは小さく苦笑いを浮かべると、私たちに向かって優しくうなずいてみせた。
「それじゃあ、千歳君。ここにいる『風花亭』の幹部たちを一人ずつ紹介していくから、よく聞いて覚えておいてくれ。仲居や見習い料理人などの一般スタッフはこの場にはいない。今ここにいるのは、我が宿の舵取りを担う最高の仲間たちだ」
夜光さんはそう前置きをすると、順に視線を向けながら誇らしげに紹介を始めた。
「まずは、我が宿の顔である最高責任者、女将の依鈴君だ。姑獲鳥のあやかしだよ」
気品あふれる凛とした佇まいの依鈴さんは、夜光が外でビジネスや新規の仕込みに奔走する間、実質的な宿の切り盛りを一身に引き受けるベテラン女将らしい。彼女は私を優しく包み込むような温かくも厳しい眼差しで一礼してくれた。
「そして、その傍らに控えているのが、若女将の桜君だ。依鈴君とは母娘の関係になる」
若女将・桜さんは、どこかゆるふわとした柔らかい雰囲気を纏っており、私やミミちゃんを見てふわりと愛らしい笑みを浮かべて手を振ってくれた。
「続いて、我が宿の若旦那であり、私の右腕としてバリバリ仕事をこなしてくれる、羽犬のあやかしである怜斗君」
翼を持つあやかしである羽犬の怜斗さんは、誠実で優しげな眼鏡の奥から真面目な瞳を向け、私に向けて丁寧にお辞儀をしてくれた。
「そして、あちらで腕組みをして険しい顔をしているのが、我が宿の総料理長を務める大入道の醍醐さんだ」
風花亭の本館で提供される伝統的な高級懐石料理のすべてを統括するという最高峰の板前であり、大入道のあやかしである醍醐さんは、相当な頑固者のようだ。彼は私を値踏みするかのように鋭い眼光を飛ばしてきた。
「次に、当館の帳場責任者であり、全体の金銭や物流を完璧に管理する、狸のあやかしである番頭の瑛太君だ」
狸の妖怪である瑛太さんはどこか愛嬌のある男性で、『やどりぎ』の出店がどれだけ宿の利益や話題性に繋がるかを、早くも心の中でそろばんを弾いているような鋭くも穏やかな笑みを浮かべていた。
「そして、仲居たちをまとめる筆頭仲居であり、VIP客の接客から実務まで仕切る化け兎の凛子君だね」
凛子さんは、頭の上でピクピクと動く兎耳と人懐っこい笑顔の女性だ。彼女はよそ者である私に対しても最初から非常に好意的に、ウインクを返してくれた。
「続いて、館内の茶寮『紅の雫』の女将を務める絡新婦の紅音君」
妖艶な色気とアンニュイな雰囲気を纏う赤髪の女性・紅音さんは、私を見つめながら興味深そうに微笑んだ。
「そして、我が宿の大浴場の水質と温度を完璧に管理するスペシャリスト、龍人のあやかしで筆頭浴室係の滝雄さんだ」
滝雄さんは、古風でちょっと気難しい印象を受ける初老の男性。
「最後に、我が宿の誇る広大で美しい中庭や四季折々の草花を管理する木霊の庭師長、羽衣君だ」
羽衣さんは、伏せ気味のトロンとした目で眠たそうにしている。
そうして、風花亭のそうそうたる幹部たちの紹介を終えると、総料理長である醍醐さんが一歩前に出て、不満を爆発させた。
「大旦那!」
醍醐さんが低い地響きのような声を絞り出す。
「大旦那がどれほどその小娘を気に入っていようとも、私は納得いかんぞ! うちのような、何百年もの伝統と格式を守り抜いてきた皇都最高峰の懐石の宿に、油ぎった、ちっぽけな庶民の飲み屋を持ち込むなど……正気の沙汰とは思えん!」
醍醐さんの怒気を含んだ言葉に、広間の空気がピリッと張り詰めた。
「総料理長、言葉が過ぎるぞ」
夜光さんは静かに、しかし冷徹なまでの威厳を纏って醍醐を見据えた。
「過ぎるものか! 風花亭の看板を背負う者として、路地裏の雑多な居酒屋と一緒にされるのは心外だ。若い客を取り込みたいという旦那の意向は分からなくもないが、だからといって伝統の厨房の品位を落とすわけにはいかん。こんな小娘の作る粗末な料理など、うちの格式高い客たちの口には絶対に合わんはずだ!」
胸の奥がキュッと痛む。
けれど、ここで怯えて引き下がるわけにはいかない。
と、その時。
「ふふっ……まあまあ、そんなに血気盛んに怒鳴らなくてもいいじゃない」
優雅に微笑みながら割って入ったのは、筆頭仲居の凛子さんだった。彼女は楽しげにクスクスと笑う。
「私は賛成だよ。最近の若い客層は堅苦しい懐石を嫌がる傾向にあるし、何より大旦那がここまで惚れ込む料理なんて、純粋に面白そうだし興味があるからね」
凛子さんの言葉に続いて、茶寮の女将である紅音さんも艶やかに微笑んだ。
「そうよ、醍醐さん。そんなに頭から否定しなくてもいいじゃない。とりあえず、彼女の作る料理を実際に食べてみて、それから判断すればいいんじゃないかしら? 口でどれだけ文句を言っても、美味いものは美味いし、不味いものは不味い。結果は皿の上を見れば一目瞭然よ」
紅音さんの現実的な意見に、番頭の瑛太さんも静かに眼鏡の位置を直しながら同意した。
「そうだな。紅音さんの言う通りだ。前例がないという理由だけで頭ごなしに退けるのは、経営の合理性としても感心しない。まずは食べてみないことには、評価のしようがないからね」
「ぐっ……お前たちまで……!」
幹部たちの過半数が「まずは食べてから決めるべきだ」というスタンスに回ったことで、総料理長である醍醐さんはさらに顔を真っ赤にして悔しそうに歯噛みした。
そこで、夜光さんが穏やかだけれど、絶対に覆らない決定権を持つ主としての声を響かせた。
「そういうことだ、醍醐さん。皆の意見を聞いたうえで、我が宿の方針としても、千歳君に一度その腕前を披露してもらう。もし、彼女の料理が僕たちの期待を裏切るものであれば、出店計画は白紙に戻そう。だけど、もし彼女の料理が本物であるならば、あなたも文句を言わずに受け入れてもらう。それでいいな?」
「……っ……! ……フン! いいだろう! どうせ若造が気まぐれで作った泥臭い料理なぞ、うちの料理人たちの舌を唸らせることなどできん! たっぷりとその思い上がりを打ち砕いてやろうじゃないか!」
醍醐さんは捨て台詞のようにそう吐き捨てると、腕を組んでプイと顔をそむけた。
その緊迫した空気の中、若い若旦那である怜斗さんが、真面目な面持ちで私のほうへと歩み寄り、丁寧に頭を下げて言った。
「千歳さん。色々と言い争いになってしまってすみません。では、さっそくですが風花亭の厨房までご案内いたします。必要な調理器具や食材の準備など、私がすべてお手伝いしますので」
怜斗さんのその誠実で気遣いに満ちた言葉に、私は張り詰めていた緊張が少しだけ和らぐのを感じた。
「ありがとうございます、怜斗さん。よろしくお願いします!」
私は大きく息を吸い込み、固まっていた表情を引き締めて力強く頷いた。
こうして、風花亭の総料理長をはじめとする幹部たちに、私の料理の真価を証明するための『試練の調理』が始まった。




