第33話 天啓の奇跡温泉
皇都はすっかり深い秋の気配に包まれていた。
とはいえ、朝晩の冷え込みは少しずつ厳しくなっているものの、日中にはこうして雲一つない抜けるような青空が広がり、あたたかな陽光が『風花亭』の広大な敷地を優しく包み込んでいる。
昼下がり、私は厨房の仕込みが一区切りついたのを機に、少しだけ気分転換を兼ねて中庭へと足を運んでいた。
前夜、閉店間際の『やどりぎ』で筆頭浴室係の瀧雄さんから打ち明けられた「風花亭に本物の天然温泉を湧かせたい」という熱い想い。その言葉が、私の胸の奥にずっと温かな余韻として残っていた。
あんなにも長年、お湯と真摯に向き合ってきた職人の夢を、どうにかして形にしてあげたい。
そんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、中庭のモミジの木立のあたりから、チョキチョキとリズミカルな音が聞こえてきた。
「あ、千歳……」
ふわりと柔らかな声に導かれて顔を上げると、そこには木霊の庭師長・羽衣さんの姿があった。
木々の精霊である彼女は、若草色の美しい着物に身を包み、頭の上には、瑞々しい若葉を思わせる愛らしい触角のような髪飾りを覗かせている。その手には剪定ばさみが握られており、伸びすぎた枝や枯れ葉を丁寧かつ的確に切り落としていた。
「こんにちは、羽衣さん。お仕事お疲れ様です」
私が笑顔で声を返すと、羽衣さんはいつものトロンと眠そうな表情を浮かべて小さくうなずいた。
「ん……。今日は珍しくお昼にお外を歩いてるんだね。仕込みはもう一段落したの?」
「はい。今日の仕込みはバッチリ終わらせてきたので、ちょっとお庭の空気を吸いに出たんです。それにしても、相変わらず、羽衣さんのお手入れが行き届いていて、本当に素敵なお庭ですよね」
私のその心からの称賛に、羽衣さんは嬉しそうに目を細め、少し照れくさそうにした。
「ん……ありがと。庭の木や草花たちはね、ちゃんと毎日お話して、丁寧に触れ合ってあげると、その分だけ綺麗に応えてくれるんだよ。この秋の季節はね、葉っぱが一番綺麗に色づく時期だから、剪定もいつもより気合が入っちゃうの」
羽衣さんの言葉通り、私たちの周囲に広がる中庭は、息を呑むほどに美しかった。
頭上を見上げれば、燃えるような紅葉や深い黄金色に染まったイチョウの葉が青空に映え、風が吹くたびにハラハラと色鮮やかな落ち葉が舞い散る。足元の苔むした小道や、手入れの行き届いた植え込みの間には、秋の訪れを告げるリンドウやサザンカの可憐な花々が咲き誇り、まるで絵画のように完璧な調和を見せていた。
「本当に、見惚れちゃうくらい綺麗です……。こんなに素晴らしいお庭を毎日管理してくださっているおかげで、私たち『やどりぎ』にお越しになるお客様たちも、みんなうっとりした顔で店に入ってこられるんですよ」
「ん……そう言ってもらえると、庭師としてすごく嬉しいな。この風花亭の庭はね、ただ綺麗なだけじゃなくて、この土地の古い霊気や豊かな大地のエネルギーをずっと昔から受け継いでいるの。だから、植物たちもすごく元気だし、季節の移り変わりがとっても素直に現れる」
羽衣さんはそう言いながら、手元の剪定ばさみを優しく布で拭き、色づいた木々を見上げた。
彼女の周りには、いつも微かに自然の清らかな気配が漂っていて、そこに立っているだけで心がスッと浄化されるような心地よさがある。
「あ、そうだ羽衣さん。昨日の夜にですね……」
私は瀧雄さんから聞いた「風花亭に温泉を湧かせたい」という夢の話しを、羽衣さんにも共有してみようと思い、口を開きかけた。
その時だった。
「キュッ……!」
私の足元で、トコトコと楽しそうに散歩についてきていた看板狐のコユキが、ふとピタリと足を止めた。
普段は私の足にすり寄ったり、蝶々を追いかけてパタパタと尻尾を振っているだけの愛らしい子狐だったのが、今のコユキの様子はどこか違った。全身の毛が逆立ち、頭の上の耳がピンと鋭く前方を向き、碧色の瞳が信じられないほどの強い光を帯びて一点を見つめている。
「あれ……? コユキ、どうしたの急に……?」
私が首をかしげた瞬間、コユキは私の足元を離れ、中庭の奥にある開けた芝生スペースへと、まるで矢のようにものすごい勢いで駆け出した。
「わっ、コユキ! 待って、どこに行くの……!?」
「ん……? あの子、あんなに慌ててどうしたんだろ……?」
羽衣さんも剪定ばさみを動かしていた手を止め、不思議そうな顔でその後ろ姿を目で追った。
コユキが駆け出した先にあるのは、中庭のほぼ中央に鎮座する、ひときわ大きい大岩だった。
その大岩は、風花亭がこの地に建てられるはるか以前の太古の時代からそこにあったと言い伝えられており、庭の守護石のような存在として、誰も動かすことなく大切に祀られてきたものだった。
その大岩の直前まで全速力で走ったコユキは、そこでピタリと急停止した。
そして次の瞬間──。
「キュキューーーッ!!!」
いつもの可愛らしい鳴き声とは全く異なる、鋭く、まるで神域の獣が天を威嚇するかのような甲高い鳴き声を響かせた。
そして、コユキの尻尾がピーンとまっすぐに真上へ張り詰めたかと思うと、その小さな体が空中でくるりと美しい宙返りを決めたのだ。
「え……!? コユキが、空中で一回転……!?」
私は思いがけない光景に、思わずその場で両目を見開き、声を失った。
羽衣さんも、「嘘……あの子、いったい何を……?」と、興味深げに見守っている。
そして、宙返りを終えたコユキが、再び四本足で着地した瞬間。
ズズズズ……ッ!!!
秋晴れの、雲一つないはずの青空から、突如として地を揺るがすような恐ろしい重低音が轟いた。
次の瞬間、私たちの頭上の空気が激しくスパークし、バリバリバリッ……! と、視界のすべてを焼き尽くすかのような一筋のまばゆい黄金色の稲妻が、天からまっすぐに降り落ちてきたのだ。
「きゃあぁぁっ……!?」
私は思わず目蓋を閉じ、その場で身を縮こまらせた。
落雷の凄まじい衝撃波が中庭の空気を激しく揺らし、私たちの衣服の裾を大きくバタつかせる。
ドガァァァンッ……!!!
すさまじい爆音が響き渡り、しばらくして再び目を開けた私の目の前で、信じられない光景が展開されていた。
中庭の真ん中に鎮座していた、あのびくともしないはずの古の大岩が、先程の一筋の雷撃によって真っぷたつに粉々に砕け散っていたのだ。
「い、岩が……真っ二つに割れてる……!?」
私は自分の目を疑い、何度もパチパチと瞬きした。
あの大岩は、普通の物理的な衝撃では絶対に傷つかないほどの霊石だったはずだ。それを、あの小さなコユキが引き起こした謎の天雷が一瞬で打ち砕いてしまった。
これは一体……もしかして、コユキが放った強力な『妖術』だったというのだろうか……!?
「コユキ……! あなた、一体……?」
私が震える声で尋ねようとした、その時だった。
真っ二つに割れた大岩の裂け目の底から、信じられないような光景が飛び込んできた。
シュワァァァ……ッ! と小気味よい音を立てながら、割れ目の奥から、もくもくと真っ白な『湯気』が勢いよく立ち上り始めたのだ。
それだけではない。湯気とともに、ほんのりとした硫黄の香りを漂わせながら、クリアな温水が、ゴボゴボと音を立てながら驚異的な勢いで溢れ出し、みるみるうちに周囲の地面を潤し始めた。
「……え……? 嘘……これって……」
私は自分の耳や目を信じられず、ただ呆然と目の前で湧き出るお湯を見つめた。
それも、ただのお湯ではない。肌をじんわりと優しく温めてくれるような、紛うことなき『天然の温泉』が、今まさに、風花亭の中庭の大岩の底から、コンコンと湧き出しているのだ。
「……信じられない……! お庭の地脈が大きく共鳴して……地下深くに眠っていた源泉が、一気に地上へ突き破ってきたんだ……!」
庭師長である羽衣さんは、その湧き出る温泉の気配を肌で感じ取り、両手で自分の口元を押さえながら、潤んだ瞳でその光景に見入っていた。
私の脳裏に、昨夜の瀧雄さんの言葉が鮮明に蘇る。
『この風花亭は素晴らしい宿だが、温泉がないことだけがどうしても残念だ』──。
『いつの日か、最高の温泉を味わわせてやりたい』──。
瀧雄さんが長年抱え続け、誰にも叶えてやれなかったその切実な夢が、今、この瞬間に、思いがけないところから……あろうことか、私の愛しい看板狐・コユキのもたらした奇跡によって、目の前で現実のものになってしまったのだ。
「こんなにも早く……しかも、こんな思わぬところから、瀧雄さんの夢が叶うことになっちゃうなんて……!」
私は胸の鼓動が激しく高鳴るのを感じながら、目の前で湯気をもうもうと上げる生まれたての温泉と、その傍らで「キュッ!」と得意げに胸を張るコユキの姿を交互に見つめ、あまりのドラマチックな展開に、ただただ立ち尽くすしかなかった。
「ふぅ……すごいね、本当にすごい……!」
そんな中、羽衣さんが、真っ二つに割れた大岩の裂け目から溢れ出る温泉のそばにそっと歩み寄り、そのお湯にそっと自分の指先を浸してみた。
「千歳、これ、ただの温泉じゃないよ……!」
「えっ、そうなんですか、羽衣さん?」
私が慌てて彼女の隣に駆け寄ると、羽衣さんは興奮を抑えきれない様子で声を弾ませた。
「ん! このお湯、ものすごく純度が高くて、大地の奥深くの霊脈のエネルギーをたっぷり含んでいるの。しかも、肌触りがすごく滑らかで、疲労回復や神経痛、そしてあやかしたちの傷ついた霊力を癒やす効能が桁外れに高い。これなら、『風花亭』の新しい目玉どころか、かくりよ全体でもトップクラスの『名湯』になること間違いなしだよ……!」
精霊である羽衣さんがそこまで太鼓判を押すのだから、間違いなくこの温泉は本物だ。
あの真面目で不器用な瀧雄さんが、この光景を見たら、いったいどれほど驚き、そしてどれほど喜んでくれるだろうか。想像しただけで、私の胸まで温かな感動でいっぱいになっていく。
「それにしても……コユキ、一体どうしてあの大岩の下に温泉が眠っているって分かったんだろうね?」
羽衣さんが、足元で「キュッ!」と誇らしげにしっぽを振っているコユキを不思議そうに見下ろした。
私もコユキをそっと抱き上げ、その柔らかい頭を撫でながら微笑んだ。
「もしかしたら……コユキ、私たちが昨日、瀧雄さんと温泉のお話をしていたのを、こっそり聞いてくれていたのかも知れません。この子が神様にお願いして、奇跡を起こしてくれたのかな……?」
あの天から一筋の雷を呼んで大岩を砕いた神秘的な一連の動きは、どう考えても普通の狐の仕業ではない。この『かくりよ』という不思議な世界で、コユキはもしかすると特別な神獣の血筋か何かを引いているのかも知れない。
そんな想像が頭をかすめたけれど、今は難しい理由を考えるよりも、この目の前にある最高の奇跡を素直に喜びたい気持ちの方が勝った。
「よしっ……! 羽衣さん、私、すぐに瀧雄さんを呼びに行ってきます!」
私はコユキを優しく地面に下ろすと、満面の笑みで羽衣さんに告げた。
「ん、行ってきて。 私も、この新しい温泉の周りをどう整備したら一番素敵になるか、さっそく庭師として最高のプランを考えておくから」
羽衣さんの力強い後押しを受け、私は一目散に『風花亭』の本館へと走り出した。
瀧雄さんは今頃、大浴場のほうでいつものように浴室の点検や清掃作業をしているはずだ。一刻も早く、彼にこの驚くべきサプライズを知らせてあげなければならない。
§
本館の裏手を駆け抜けた私は、ようやくボイラーの調整をしていた瀧雄さんの姿を見つけた。
「瀧雄さーーんっ……!」
私は息を切らしながら、瀧雄さんに駆け寄った。
「ん、千歳ちゃん……? そんなに慌てて、一体どうしたんだ? なにかあったのか?」
「あったどころじゃないんです……! とってもすごいことが起きたんです!」
「すごいこと……?」
瀧雄さんは首をかしげたけれど、私はかまわず彼の腕をガシッと掴み、「いいから、いいから! 私についてきてください! 」と、彼の頑丈な体を引っ張るようにして中庭へと連れ出した。
「おいおい、そんなに引っ張らなくても……いったいどこへ連れて行く気だ……?」
戸惑いながらも私の後をついてくる瀧雄さんを連れ、私は一気に中庭のモミジの木立を抜け、あの割れた大岩の前へとたどり着いた。
「さあ、ここです! しっかり見てください、瀧雄さん!」
「……は……?」
そこにあった光景を目にした瀧雄さんの動きが、ピタリと止まった。
彼のその大きな瞳が、これ以上ないほど限界まで見開かれ、信じられないものを見るように何度も自分の目をこすり直す。
「こ、これは……一体……どういうことだ……? 大岩が割れて……そこから、お湯が……湧き出ている……だと……?」
「はいっ! そうなんです、瀧雄さん! これ、ただのお湯じゃなくて、羽衣さんのお墨付きの『最高の天然温泉』なんです!」
私のその弾けるような声を聞いてもなお、瀧雄さんはその場から一歩も動けず、ただただ茫然と湧き出る温泉を見つめ続けていた。
そして、その瞳の奥から、こらえきれなくなった大粒の涙が、ポロリ、ポロリとシワの刻まれた頬を伝ってこぼれ落ちた。
「温泉……我が『風花亭』に……本物の、天然の温泉が……湧いた……」
瀧雄さんは震える両手で自分の顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。
長年、湯守として生きてきて、かつて自分のすべてだった温泉宿の崩壊を経験し、この『風花亭』に来てからも「温泉がないことだけが残念だ」と胸の奥底でずっと抱え続けてきた、あまりにも大きすぎる夢と心残り。
その温泉が、今日、この秋晴れの昼下がりに、まさか中庭の真ん中で、奇跡のように湧き出してきたのだ。
「瀧雄さん……」
私は彼の傍らにそっと歩み寄り、優しくその背中に手を添えた。
「昨夜、あなたが私に教えてくれた夢が、神様に届いたんですよ。おめでとうございます、瀧雄さん……!」
瀧雄さんは声を殺しながら、両手で顔を覆って激しく嗚咽した。それは悲しみの涙ではなく、あまりにも尊い歓喜の涙に違いなかった。
「……あぁ……神様……ありがとう……本当に、本当にありがとう……!」
その瀧雄さんの姿を、少し離れた場所から庭師長の羽衣さんが、私の足元でコユキが、温かく見守っていた。




