第32話 湯守の想いと、新たな誓い
霊峰における激闘を終え、凍てつく西の地に温もりと安寧をもたらした私は、無事に皇都へと帰還を果たした。
苛烈だった雪山の寒さや、暴竜との死闘がまるで遠い夢の出来事のように思えるほど、現在の風花亭の中庭には、いつもの穏やかで満たされた日常が戻ってきている。
いや、正確に言えば、以前よりもさらに活気と賑わいが増していた。
西の地を救ったという噂や、四神御会の晩餐会を大成功に導いたという実績が皇都中に広まったおかげで、連日、遠方からわざわざ足を運んでくれる宿泊客やあやかしたちで、店の外まで行列ができるほどの大繁盛となっていた。
藍色の暖簾の奥、広く拡張された店内には、香ばしい醤油の匂いと、食欲をそそる出汁の芳醇な香りが絶妙に混ざり合っている。
「いらっしゃいませーっ! 『やどりぎ』へようこそ!」
看板娘のミミちゃんが、頭の上の猫耳をピンと立てながら、元気いっぱいの明るい声を店内に響かせる。彼女の手際よくお盆を操る姿はすっかり板についており、お客様を案内する手つきも堂々たるものだ。
その足元では、看板狐のコユキが「キュッ!」と愛らしく鳴きながらお客様の足にちょこんとすり寄り、あやかしたちの心を和ませていた。
厨房のカウンターに立つ私の前には、霊位三階(上階)へと位階が上がったことで『八百万神恵堂』から自由に取り寄せられるようになった極上の食材たちがずらりと並んでいる。
その恩恵により、『やどりぎ』のメニューの幅はこれまでの比にならないほど豪華で洗練されたものへと進化していた。
定番の居酒屋メニューはもちろんのこと、素材の持ち味を限界まで引き出した贅沢な一品料理や、うつしよの懐かしい味をかくりよの最高級食材で再現した究極の創作料理まで、お客様のどんなリクエストにも完璧に応えられるだけの自信と実力が、今の私には備わっていた。
トントン、トントン……。
心地よい包丁の音が、厨房内にリズミカルに響く。
私は今、注文の品を仕上げるために、鮮やかな手つきで包丁を動かしていた。
「ちとせー! 新しい注文ー!」
ミミちゃんがパタパタと小走りで厨房のカウンターまでやってきて、オーダーの書かれたメモを私に差し出した。
「はーい、お疲れ様ミミちゃん。どのテーブルの注文かな?」
「奥の座敷席にいらっしゃる常連のあやかし様たちからのご要望だよ。『親子丼』と、『マグロの刺身』、それから『イカ飯』を一つずつ、お願い」
「親子丼に、マグロの刺身、それからイカ飯ね。りょーかーい!」
私は明るく返事をすると、すぐに調理の段取りを頭の中で組み立て直した。
親子丼には、朝締めの新鮮な地鶏肉を特製の甘辛い割下でふんわりと卵でとじ、三つ葉の香りをアクセントに添える。
マグロの刺身は、先ほど仕入れたばかりの極上の本マグロを絶妙な厚さに切り分け、わさびと特製の仕立て醤油を添えて美しく盛り付ける。
そしてイカ飯は、モチモチとしたもち米を特製の出汁とイカの肝のコクが染み込んだタレでじっくりと炊き上げ、中にぎっしりと詰め込んだ自慢の一品だ。
ジューッ、コトコト……。
コンロの火を自在に操りながら、私は次々とオーダーの料理を完璧なタイミングで仕上げていく。
厨房の片隅では、コユキが「お仕事がんばってね」と言わばかりに尻尾をパタパタと振って応援してくれていて、その健気な姿を見るだけで、一日の疲れなど一瞬で吹き飛んでしまうようだった。
西の地から戻ってきても、この店に流れる温かな空気と、皆の笑顔に囲まれた日常は少しも変わらない。
むしろ、あの旅を乗り越えたからこそ、この何気ない日常の尊さと、料理を通じて誰かを幸せにできる喜びを、以前よりもずっと深く実感できるようになっていた。
§
やがて、夜の帳がさらに深く落ち、時計の針が深夜の十二時を回ろうかという頃。
店内の賑わいもようやく落ち着きを見せ、今日最後のお客様が笑顔で暖簾をくぐって外へと帰っていくと、『やどりぎ』の店内には心地よい静寂が戻ってきた。
「ふぅ……今日も一日、本当によく頑張ったなぁ」
私はエプロンのポケットから小さなタオルを取り出し、額ににじんだ汗を優しく拭いながら、大きく息をついた。
「ちとせ、洗い物のほうはあらかた片付いたよ!」
「ありがとう、ミミちゃん。それじゃあ、そろそろ今日の営業は完全におしまいにしようか」
私がそう言って、外の暖簾を仕舞おうとした、その時だった。
ガラリ……と、静まり返った店内に、ゆっくりと引き戸が開く音が響いた。
「あれ、まだお客様かな……?」
ミミちゃんが小首をかしげて入口のほうを見る。私も手を止めて、そちらへと視線を向けた。
そこに立っていたのは、見慣れた初老の男性の姿だった。
落ち着いた佇まいと、長年風花亭の裏方を支え続けてきた職人としての年季を感じさせる深い眼差し。その背中には、この宿を見守ってきた者だけが持つ独特の重みが漂っている。
風花亭の『筆頭浴室係』である、瀧雄さんだった。
「あら……?」
私は思わず驚きの声を漏らしてしまった。
風花亭の筆頭浴室係として、毎日お風呂の管理や湯加減の調整、館内の水回りのメンテナンスを一手に引き受けている瀧雄さんは、普段は自分の仕事場である大浴場や機械室にこもりきりで、こうして夜遅くに『やどりぎ』に顔を出すことなど、ほとんど無いからだ。
「あ……瀧雄さん。こんばんは」
私が声をかけると、瀧雄さんは少し気恥ずかしそうに白髪混じりの頭をポリポリとかきながら、ゆっくりと店内へと足を踏み入れた。
「やぁ、千歳ちゃん。まだ、お店やっているか?」
その瀧雄さんの声のトーンは、かすかに疲労の色が混じっているように感じられた。
「はい、ちょうど今片付けを終えたところですけど、瀧雄さんなら大歓迎ですよ! どうぞ、カウンターの真ん中に座ってください」
私はすぐに笑顔を浮かべ、一番座りやすい特等席へと彼を誘導した。ミミちゃんも「瀧雄さん、いらっしゃいませ!」と元気よくお茶を差し出す。
瀧雄さんは「すまないな、こんな遅い時間に……」と小さく呟きながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。その横顔には、長年の苦労が刻まれたシワの奥に、何か深い悩みを抱えているような翳りが落とされていた。
「それにしても、珍しいですね。瀧雄さんがこの『やどりぎ』に飲みに来てくださるなんて……。いつもはお風呂の管理で忙しいでしょうに、何か特別なことでもあったんですか?」
私が心配そうに尋ねると、瀧雄さんは出されたお茶を両手で包み込むように持ち、中の温かな液体をじっと見つめたまま、しばらくの間言葉を濁していた。
そして、ふぅ、と深く長い溜息を吐き出してから、ぽつりと本音を漏らした。
「……いやなに、今日はどうしても、少しばかり酒を飲みたい気分なんだよ」
「お酒を、ですか……?」
「ああ。……実はな、今日、館内の廊下を歩いていた時に、偶然宿泊客の連中が話している声が耳に入ってきてね」
瀧雄さんはお茶の湯気をぼんやりと見つめながら、遠い目をした。
「その客たちはな、こう言っていたんだ。『この風花亭は、料理も美味いし、部屋も綺麗で最高の宿だ。ただ一つ……これで、心から手足を伸ばして浸かれる温泉があれば、文句なしの最高なんだけどな』ってな……」
温泉。
そういえば、風花亭はこれほどまでに広大で、あやかしたちの疲れを癒やす最高級の宿でありながら、館内にあるのはあくまで通常の沸かし湯を使った大きなお風呂であって、いわゆる自然の恵みである『天然温泉』そのものは湧いていなかった。
「その客たちの会話を聞いてから、どうにも胸のつかえが取れなくてね……」
瀧雄さんは苦笑いを浮かべ、自嘲気味に首を振った。
「……千歳ちゃん、知っているか? わしは、この風花亭で働き始める前──遠い昔のことだが、ある南の地の温泉宿で湯守として働いていたんだ」
瀧雄さんはそう言って、遠い過去を懐かしむような、切なさと誇らしさが入り混じった目を宙に向けた。
「湯守……ですか?」
私が相槌を打つと、瀧雄さんは静かにうなずいた。
「ああ。温泉というのはな、ただの熱いお湯じゃない。大地の奥深くから湧き出る大自然のエネルギーであり、その源泉の機嫌や気候の変化、配管のわずかな詰まり一つで、お湯の温度も効能もガラリと変わってしまう生き物のようなものなのさ。わしはその源泉の状態を毎日朝晩見極め、最高の湯加減を保ち続けることに、人生のすべてを懸けていたんだ」
その瀧雄さんの語り口には、長年お湯と向き合ってきた職人にしか出せない重みと誇りがこもっていた。
「だけどな……」
瀧雄さんの表情が、ふっと曇った。
「わしが若い頃に働いていたその南の温泉宿は、ある日突然、経営難と大地の霊脈の変動が重なって、あえなく潰れてしまったんだ。毎日のように通ってくれていた常連の客たちの悲しそうな顔や、長年守り続けてきた源泉が冷めていくのを目の当たりにした時の絶望感は、今でも忘れられないよ……。そして、すべてを失って路頭に迷い、どこへ行けばいいのかも分からず、途方に暮れていたところを……夜光の大旦那に拾われたのさ」
夜光の大旦那。
あの金華猫の豪商であり、すべての縁を繋いでくれた風花亭の総元締めが、失意の底にいた瀧雄さんを救い出し、この場所に迎え入れたのだ。
「大旦那様はな、『うちの宿には最高の人材が必要だ。あなたのその湯に対する情熱を、風花亭で思う存分振るってみないか』って言って、わしを温かく迎え入れてくれた。その恩に報いるためにも、わしはこの風花亭を『あやかしたちが心から安らげる最高の宿』にするために、今日まで全身全霊を捧げて働いてきたつもりだ」
瀧雄さんはそこまで言うと、手に持っていた湯呑みをコトリとカウンターに置き、深く息を吐いた。
「風花亭は本当に素晴らしい宿だ。料理は美味いし、若旦那も若女将もよくやっている。従業員たちのチームワークも完璧だ。……だがね、千歳ちゃん。わしの中には、どうしても拭い去れない『一つの心残り』があるんだよ」
「心残り……ですか?」
「ああ……」
瀧雄さんは切なそうに目を伏せた。
「風花亭は、どんな贅沢な趣向を凝らしても、結局のところ『温泉』だけはない。人工の綺麗なお湯は沸かせても、大地から湧き出るあの本物の温もり、旅の疲れを骨の髄まで溶かしてくれるような極上の湯を提供することだけはできない。大旦那様をはじめ、この宿を愛してくれるすべての客たちに、いつの日か最高の温泉を味わわせてやりたい。そう思い続けて何十年も経つのに、わしは……今の今まで、それを形にしてやることができなかった」
瀧雄さんのその言葉には、かつて湯守として誇りを持っていた男の、大きすぎる挫折感が込もっていた。
もし、大地の恵みである本物の天然温泉を、この風花亭に湧かせることができたら……。
それは、毎日のように極上の料理を求めてやってくるお客様たちを喜ばせるだけでなく、風花亭で働くすべての従業員たち、そして何より、人生のすべてを湯に捧げてきた瀧雄さんの長年の夢を叶えることにも繋がるはずだ。
私の胸の内で、ふつふつと温かな情熱の炎が燃え上がり始めた。
「瀧雄さん……」
私はカウンターの向こう側から身を乗り出し、真っ直ぐに彼の瞳を見据えた。
「そのお話、すごくよく分かりました。瀧雄さんがこれまでどれほど真剣にお湯と向き合い、この風花亭を大切に思ってきたのかが、胸に痛いほど伝わってきました」
私のその真剣な声音に、瀧雄さんはハッとしたように顔を上げ、驚いたような目で私を見つめ返した。
「千歳ちゃん……?」
「温泉がないことだけが残念だなんて、そんな風に諦めないでください!」
私は自分の胸の前で両手をギュッと握り締め、力強く宣言した。
「私、料理人としてこの『やどりぎ』を切り盛りしていますけど……お客様の笑顔をもっともっと見たい、この風花亭を世界で一番素敵な場所にしたいっていう気持ちは、瀧雄さんや皆さんと全く同じです! だから……もし本当に風花亭に本物の温泉を湧かせることができるなら、私にも何か力にならせてください!」
「千歳ちゃん……あんた……本気で言っているのか……?」
「もちろん本気です! あの西の地の『氷室の暴竜』だって、みんなで力を合わせれば乗り越えられたんですから、風花亭に温泉を引くことだって、絶対に不可能なんてことないはずです!」
私のその勢いと明るさに、瀧雄さんはしばらくの間ポカンと口を開けていたが、やがて、その渋い顔に深い皺を刻みながら、今日一番の温かな笑みを浮かべた。
「ははっ……! 流石は西の地を救った救世主さまは言うことが違うな。なんだか、わしまで元気が出てきちゃったよ」
「ふふ、元気が出たなら良かったです! じゃあ、今日のところはまず、瀧雄さんのために特別なお酒と、最高の絶品おつまみを用意しますね。しっかり飲んで、明日からの英気を養いましょう!」
「おっ、それはありがたい。それじゃあ、遠慮なく一番美味い酒をもらうとしようかな」
その夜、閉店間際の『やどりぎ』のカウンターで、私たちは未来の大きな夢──『風花亭に天然温泉を湧かせる』という壮大な計画について、時間を忘れて語り合い、熱く盛り上がった。




