第23話 赤黒い謀略の逆転劇、スパイスが導く究極のマリアージュ
星辰の間を覆っていた期待の空気が、一瞬にして凍りつくような不穏な澱へと変わる。
純白の円卓の中央に据えられた土手焼きの土鍋。その表面に浮かび上がっていたのは、八丁味噌と赤味噌の芳醇なコクを覆い隠すかのように、おぞましくまだら模様を描く赤黒いスパイスの粉末だった。
それは紛れもなく、南方の極限まで熟成された危険な激辛スパイス『朱炎唐辛子』のそれにほかならなかった。
あの時、大厨房で私が目を離した隙に、朱姫様がこっそり混入させた悪質な罠。
私の料理を台無しにし、四神御会の晩餐会という歴史的舞台で恥をかかせ、『風花亭』の、そして何より東の竜皇である蒼さんと親しい私の信用を失墜させるための、周到で卑劣な謀略だった。
その光景を目の当たりにして、最初に動いたのはやはり、罠を仕掛けた張本人である朱姫様だった。
彼女はワイングラスの柄を指先で上品につまみながら、勝ち誇った笑みを浮かべて立ち上がった。その琥珀色の美しい双眸には、底意地の悪い愉悦がギラギラと宿っている。
「あらあら、大変だこと……」
朱姫様の刺々しい声が、静まり返った広間に響き渡った。
「千歳さん? お料理に、ゴミでも混入してしまったのかしら? それとも、あなたの腕がお粗末すぎて、自慢の煮込み料理がすっかり台無しになってしまったのね。こんな異物混入の欠陥料理、下位のあやかしですら口にできない代物だわ? ……ねえ、そうでしょう?」
その朱姫様の嘲笑混じりの言葉に、蒼さんは、怒りと焦りが入り混じった複雑な表情で立ち上がり、私を庇うように一歩前へ出ようとする。
「朱姫、言葉を慎め。千歳がこのような粗相をするはずが──」
「あら、蒼琳様。私を咎めるのはお門違いよ?」
蒼さんの制止の声を遮るように、朱姫様はさらに声のトーンを上げる。
「事実として、目の前にあるのは醜悪な赤い粉にまみれた失敗作の煮込みじゃない。東の地の威信をかけた晩餐会で、こんな見苦しいものを世界中の要人たちの前に晒すなんて……本当に恥ずかしいうえに、不敬罪ものだわ。ねえ、更科千歳? あなた、何か言い訳はあるのかしら?」
会場中が「これはもうおしまいだ」「東の地の大失態だ」「あの小娘はもう終わりだな」と、息を呑み、絶望的な沈黙に包まれる。
けれど、私は落ち着いていた。
ふふっ。まさか、私がただ慌てふためくとでも思ったのかしら。
元・居酒屋の板前として、これまで数々の理不尽なトラブル、酔っ払いの無茶ぶり、そして営業中のハプニングを乗り越えてきた私の血が、今、かっかと騒ぎ出していた。
勝手に混ぜられた未知のスパイス。それがどれほど暴力的で危険なものであろうとも、目の前にあるのは料理だ。料理人である私に、プロとして、その素材の旨味を引き出し、一つの最高傑作へと昇華させられないわけがない。
私は動揺の色を一切見せず、涼しげな顔のまま、目の前にある巨大な土手焼きの鍋へと近づいた。
「朱姫様。ご心配いただき、誠にありがとうございます。ですが、その心配、まったくの無用ですよ」
私のその落ち着き払った、あまりにも余裕綽々な態度に、朱姫様の勝ち誇った笑みがピクリと揺らいだ。
「なっ……なにを強がっているのよ……!」
「これはゴミなどではありません。最高の隠し味ですよ」
私はそうハッキリと言い放つと、怜斗さんにこう告げた。
「怜斗さん、ちょっとばかり失礼して、このお鍋を一度厨房のコンロに戻します。ほんの数分だけ、私に時間をください」
「は、はいっ! わかりました、千歳さん!」
怜斗さんは意図を察して力強くうなずくと、その土手焼きの土鍋を持ち上げ、大厨房へと運んで行った。
§
星辰の間の広間から離れた大厨房で。
私は火加減の強弱を瞬時に見極め、素早くコンロのコックをひねった。青く美しい炎が、一気に土鍋の底を舐め上げる。
勝負は一瞬だ。
「朱姫様がわざわざタダでトッピングしてくださった、あの南方の激辛スパイス『朱炎唐辛子』……。そのままではただの暴力的な辛さで、せっかくの八丁味噌の繊細な風味を完全に殺してしまう。けれど──」
私は心の中で計算を巡らせながら、手際よく次のアクションに移る。
「第一に、このスパイスは『熟成味噌』の深いコクと合わせることで、その攻撃的な角が綺麗に丸められる。第二に、ほんの少しの『隠し柑橘の酸味』をここに加えることで、全体全体の輪郭がシャープに引き締まる。そして第三に、何時間もじっくり煮込んで溶け出した『牛すじの脂』にその辛味成分を完全に溶かし込むことで、ただの辛さが『濃厚な旨味』へとトランスフォームする……!」
シュワッと、鍋の中から心地よい爆ぜる音が響く。
私は木製のしゃもじで鍋底を優しく、力強く混ぜ合わせながら、隠し味として少量の特製柑橘果汁と、追加の秘伝出汁をスッと流し込んだ。
ほんの数分前まで、おぞましい赤黒い不穏な粉にまみれていたその煮込みは、熱せられ、完全に調和させられた瞬間、まるで魔法のように、見違えるほどの美しい、コクの深そうな艶やかな赤味噌の色へと劇的に変化していった。
そして、立ち上った湯気とともに流れ出したのは、 先ほどまでの単純なスパイスの匂いとは完全に異なる、鼻腔を優しく、そして力強くノックする、言葉を失うほど芳醇で、食欲を極限までそそる極上のピリ辛土手焼きの香りだった。
「……よし、完璧……!」
私は出来上がったばかりの土手焼きを、上品な小鉢へと手際よく美しく盛り付け、熱々の状態のまま、再び広間の中心へと堂々と戻って行った。
§
広間に戻ってきた私の手元から放たれる圧倒的な香気に、それまでざわついていた要人たちの声がスッと静まり返った。
朱姫様は、私が戻ってきた姿を見るやいなや、信じられないものを見るような目で私の顔と手元の小鉢を交互に見つめ、顔面を蒼白にさせていた。
「なっ……! ば、馬鹿な……! あんな短時間で、あの失敗作の毒物をどうにかできるわけがないわ……っ!」
私はそんな彼女を一瞥し、涼しい顔のまま、まずは我が東の地の主である蒼さんの前にその小鉢をそっと差し出した。
「お待たせいたしました、蒼琳様。先ほどの土手焼きに、少しばかり特別な『大人のアレンジ』を加えさせていただきました。どうぞ、お召し上がりください」
蒼さんは驚きと信頼の入り混じった瞳で私を見つめ、それから目の前に置かれた小鉢にそっと視線を落とした。
先ほどの赤黒い不穏な粉は跡形もなく消え去り、そこにあるのは、熟成された赤味噌の深いコクを感じさせる、艶やかな茶褐色の絶品土手焼きだ。
蒼さんは、迷いのない手つきでお箸を伸ばし、トロトロに煮込まれた牛すじ肉の一切れを口へと運んだ。
瞬間──。
蒼さんの端正な顔立ちが、ふわりと緩み、その涼しげな瞳が大きく見開かれた。
「……っ……なんだ、これは……」
「蒼琳様、いかがでしょうか……?」
「……うまい。最初に、心地よいピリッとしたアクセントが舌を軽く刺激したかと思うと、その直後に、八丁味噌と牛すじの圧倒的な『深いコク』が幾重にも押し寄せてくる……。辛さが脂に見事に溶け込み、むしろ肉の甘みを何倍にも引き立てているんだ。……美味い。これは、たまらなく酒が進む味だ」
蒼さんのその絶賛する言葉に、広間全体にどよめきが走った。
「な、なんだって……!? あの不気味な赤い粉が入っていたというのに、竜皇様がそこまで絶賛されるとは……!」
「信じられない……。あれほどの刺激物を、逆に最高の味に昇華させてしまったというのか……!?」
周囲の要人たちが次々とざわめく中、凱様が「俺にもそれをくれ!」と待ちきれない様子で声を上げた。
私はすぐに凱様の分、そして八雲様の分、さらには信じられないという顔で固まっている朱姫様の分も含めて、すべての小鉢を綺麗に配膳し直した。
凱様は一口食べるやいなや、「うおおおおい! 辛さが最高にアクセントになっていて、白飯が何杯でもいけるぜ! これ、最高だ!」と大絶賛の声を上げ、八雲様も「ただ辛いだけではなく、酸味が全体の輪郭を見事に引き締めている。料理人としての見事な手腕ですね」と静かに目を細めて称賛してくれた。
そして、残されたのは、朱姫様だった。
彼女の目の前には、他の人たちと同じように、完璧に仕上がった『大人の絶品ピリ辛土手焼き』の小鉢が静かに置かれている。
朱姫様は、自分が仕掛けたはずの悪質な謀略が完全に裏目に出て、料理のポテンシャルを極限まで引き出すための最高級のトッピングになってしまったという現実を突きつけられ、顔面を真っ青に染め上げてガタガタと震えていた。
「そ、そんな……! なぜよ……!? なぜ、あの毒物が最高の隠し味になんて化けてるのよ……っ!?」
彼女は信じられないといった様子で自分の頭を両手で抱え込み、テーブルの端を鋭い爪でギリギリと引っ掻きそうになりながら、悔しさのあまりに全身をブルブルと震わせた。
私は、そんな彼女の目の前へと一歩歩み寄り、上品に微笑みながらこうトドメを刺した。
「辛みは脂に溶かすことで『コク』に変わり、酸味が全体の輪郭を引き締める。辛党の朱姫様なら気付くはずです。ただの辛さが、『体を芯から温める、極上のピリ辛土手焼き』に生まれ変わったことを」
私のその言葉に、朱姫様は「ぐっ……!」と言葉を詰まらせ、悔し涙を浮かべる寸前の顔で私をキッと睨みつけた。
「お、おぼえていなさいよ……! こんなの、たまたまぐうぜん上手くいっただけなんだからね……っ!」
「おかげさまで、ただ甘いだけの煮込みから、一口食べたら止まなくなる『大人の絶品おつまみ』にランクアップしちゃいました。わざわざタダで高価なスパイスをトッピングしてくださって、朱姫様、ありがとうございます?」
私のその痛烈な皮肉の混じった笑顔に、朱姫様はもう耐えきれなくなったのか、「もう見ていられないわ!」と顔を真っ赤に染め上げたまま、自分の席からガタッと勢いよく立ち上がった。
「もういいわよ! こんな、こんな泥臭い料理、私の口には合わないわ……っ!」
彼女は捨て台詞を吐き捨てるようにそう叫ぶと、周囲の視線を一身に浴びながら、悔しさと怒りで顔を歪め、そのまま足早に星辰の間の広間から逃げ出すようにして去っていったのだった。
朱姫様が去ったあとの広間には、気まずい空気など微塵もなく、むしろ先ほどのハプニングが最高のエンターテインメントと化したかのような、圧倒的な熱気と大喝采が満ちあふれていた。
「いやあ、見事だったな、千歳!」
凱様が、豪快に笑いながら手を叩く。
「まさか、混入された激辛のスパイスを、一瞬で自分の味方にしてしまうとは。あなたその胆力と料理の腕前には、心から脱帽です」
八雲様も、感心したように深くうなずいた。
そして、蒼さんは、温かく誇らしげな笑みを私に向けながら、こう言ってくれた。
「千歳。君は、我が東の地だけでなく、この世界のすべての食通たちの心を完全に魅了してしまったね。今日のこの晩餐会は、君の勝利だ。本当によくやってくれた」
蒼さんのその言葉を皮切りに、広間に集まったすべての要人たち、そして『風花亭』の仲間たちから、割れんばかりの盛大な拍手と称賛の声が送られた。
勝った。
完全なる勝利、そして最高の結果だ。
朱姫様が仕掛けた悪質な謀略は、結果的に私の料理のポテンシャルをさらに限界突破させるための『最高のステマ』という、この上なく滑稽な自爆に終わったのだった。




