第20話 四神御会の始まり
ついに、運命の四神御会の当日がやってきた。
東の地の威信をかけ、世界中から集まる四皇たち──東西南北を統治する偉大な皇帝たちを我が手料理でもてなすという、人生最大にして最高の舞台。
その朝を迎えた私は、いつも以上に気合を入れて午前四時前に目を覚まし、身支度を整えていた。
『風花亭』の総料理長である醍醐さんをはじめ、本館の腕利き板前たち、そして筆頭仲居の凛子さんや若旦那の怜斗さんたちも、この日のために完璧なスケジュールとチーム体制を組み上げてくれていた。
そうして、宿の特製馬車に乗り込み、総勢二十名を超える『風花亭・やどりぎ連合調理チーム』の一員として、私は皇都の中心部にそびえ立つ壮麗な蒼龍城へと向かったのだ。
城の正門をくぐり、幾重もの厳重な警備を通過して城内へ足を踏み入れると、そこは日常の喧騒が嘘のように静まり返り、身が引き締まるような凛とした緊張感に満ちていた。
見上げるほどに高い天井、黄金の装飾が施された漆黒の柱、そして一歩歩くごとに足音が心地よく反響する長い廊下。
「……すごい……これが、竜皇様が治める蒼龍城の本丸……」
私が思わず息を呑みながら周囲を見回していると、すぐ隣を歩いていた怜斗さんが、眼鏡の奥から心強い笑みを向けてくれた。
「緊張しますよね、千歳さん。でも、大丈夫です。今日のために、私たちが厨房の動線も、食材の検品もすべて完璧に整えました。いつもの『やどりぎ』の味を、ただ最高の環境で振る舞うだけですから」
「はい、怜斗さん。ありがとうございます!」
怜斗さんのその誠実で心強い言葉に、胸の内で小さくうねっていた不安の波がスッと引いていくのを感じた。
やがて、城の奥深くに位置する、城内最大の大厨房へと私たちは案内された。
そこは、一般の飲食店や小さな宿の厨房とは比較にならないほどの広さを誇り、皇国の宮廷料理人たちが日夜腕を振るう最高峰の聖域だった。巨大な竈がいくつも並び、調理台はすべてピカピカに磨き上げられた特製の真鍮と大理石で造られている。
「よし、皆! これより、四神御会の晩餐会に向けた調理を開始する! 総料理長である俺と、今回の特別責任者である更科千歳君の指示に従い、一分の狂いもなく最高の仕事をやり遂げるぞ!」
醍醐さんの地響きのような気合の入った号令が厨房全体に響き渡り、『風花亭』の板前たちが一糸乱れぬ動きで持ち場へと散っていった。
私も自分のエプロンの紐をキュッと結び直し、大きく息を吸い込んで、目の前にある広大な調理台の前に立つ。
やるしかない。私の料理人としてのすべてを、この一皿一皿に叩き込むんだ。
§
調理が始まると、厨房内は瞬く間に戦闘モードへと突入した。
トントン、トントン……と、本館の腕利き板前たちが野菜や魚の繊維を崩さないように正確無比な包丁さばきを見せ、コンロの火口からは勢いよく青い炎が立ち上る。
私も負けてはいられなかった。
まずは第一品の『旬の白身魚と霊茸のカルパッチョ仕立て』の仕込み。森の霊気を纏った霊茸を極限まで薄くスライスし、身の締まった白身魚の上に美しく重ね合わせていく。自家製のすだちヴィネグレットの酸味とオリーブオイルの香りが、厨房の空気を一気に爽やかなものに変えていく。
続いて第二品『極上の白身魚とねっとりイカのお造り』。
切れ味抜群の刺身包丁で、透き通るイカの身をサクッ、サクッと繊維に沿って引き分けていく。この純粋な素材の美しさと鮮度こそが、私の料理の原点だ。
第三品『特製地鶏の香ばし網焼き・ネギ塩ダレ仕立て』。
炭火のグリルで香ばしく皮目を焼き上げた地鶏のモブ肉に、ザクザクと刻んだネギとごま油、レモンの風味が効いた特製ネギ塩ダレをジュッとかける。その瞬間に立ち上る香ばしい煙とニンニクとごま油の芳醇な匂いに、近くで作業していた板前たちも思わず「おぉ……!」と息を呑んだ。
そして、本日の絶対的な主役である第四品──『やどりぎ特製・じっくり煮込んだ極上牛すじの土手焼き』。
専用の巨大な厚手土鍋の中で、厳選された牛すじ肉と根菜が、八丁味噌と特製出汁、そして隠し様の和酒に包まれて、何時間もトロトロになるまで優しく煮込まれている。蓋を開けた瞬間に爆発するように広がる、八丁味噌の芳醇で濃厚なコクと甘辛い香りは、この荘厳な城の厨房の空気を完全にやどりぎの色に染め上げてしまっていた。
「千歳君、素晴らしい仕上がりだ……。この土手焼きの香りだけで、私の腹の虫が鳴き出しそうだよ」
味見をしてくれる醍醐さんの顔には、もはや初対面の時の険しさなど微塵もなく、一人の職人としての心からの賞賛と信頼が浮かんでいた。
「ありがとうございます、醍醐さん! 味見、いかがでしょうか……?」
私が緊張しながら尋ねると、醍醐さんはそれを口に含み、ゆっくりと目を閉じて味わったあと、満足げに深くうなずいた。
「文句なしだ。味噌の深いコクと、牛すじの脂の甘みが完璧に調和している。これなら、どんなに肥えた舌を持つ四皇たちであっても、一口食べた瞬間に笑顔にならざるを得まい」
その言葉を聞いて、私は心の底からホッと胸を撫で下ろした。
第五品の『霊茸と三つ葉香るお吸い物』、そして第六品の『特製クリームあんみつ』の準備もすべて完璧なタイミングで仕込み終わり、あとは晩餐会の開催時刻に合わせて最終の盛り付けを行うのみとなった。
順調すぎるくらい、すべてが完璧に進んでいる。
私は額ににじんだ汗を清潔なタオルで拭いながら、心地よい達成感に浸っていた。
「失礼するわよ」
その時、厨房の重厚な扉が開き、静かにその人物が足を踏み入れてきた瞬間、室内の空気が一変した。
それまで活気に満ちていた板前たちの手が、ピタリと止まる。
そこに立っていたのは、見る者すべてを威圧するような、あまりにも圧倒的な美しさと、燃え盛る炎のような華やかさを纏った一人の女性だった。
頭の上には、細やかな宝石で飾られた黄金の髪飾りがきらめき、その背後には、まるで本物の太陽の光を凝縮したかのような、真紅と黄金色の絢爛豪華な羽衣を思わせるドレスが優雅に揺れている。
彼女が歩くたびに、周囲の空間が微かに熱を帯びるかのような、ただならぬ神聖なプレッシャーが放たれていた。
「……っ……!」
私は反射的に背筋をピンと伸ばし、その女性から目を離せなくなった。
彼女の整った美しい顔立ち、そして何よりも、その瞳の奥に宿る冷徹なまでの光。
女性はゆっくりと視線を巡らせ、やがてその妖しくも美しい双眸を、私へとピタリと定めた。
「あなたが、噂の『やどりぎ』の店主……更科千歳ね」
どこか底冷えするような、凛とした声音が厨房の隅々にまで響き渡る。
私は慌ててその場で深く頭を下げた。
「は、はい……! 更科千歳です。あの……失礼ですが、あなたは……?」
私の問いかけに、女性はふっと冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「ふふ……失礼したわね。私は朱姫。南の地を統べる、鳳凰皇よ」
しゅき……。
南の地を統べる、鳳凰皇……っ!?
世界に四人しかいない最高権力者である四皇の一人。南の地を治める、神話の存在である鳳凰の化身──それが、今まさに目の前に立っているこの女性だったのだ。
私は慌ててさらに深く頭を下げ、冷や汗をダラダラと流しながら震える声を絞り出した。
「こ、これは朱姫様とは知らずに……大変失礼いたしました……! そのようなお方が、どうしてこのようなむさ苦しい厨房などに……?」
私の恐縮しきった様子を見て、朱姫様は優雅にフッと鼻で笑った。
「別に、大した理由じゃないわ。世界中から集まった要人たちが『今回の晩餐会で東の竜皇が用意した料理は並大抵のものではない』って、ロビーで散々騒ぎ立てているものだからね。そんなに美味しいのかしらって、ちょっと興味が湧いたのよ。だから、あなたの料理がどれほどのものか、この目で直接確かめにきてあげたの」
朱姫様のその言葉の裏には、単なる好奇心だけではない、何か得体の知れない値踏みのような冷たい響きが含まれていた。
私は彼女は自分に向ける瞳の奥をじっと見つめ返し、ほんのわずかな違和感を覚えた。
この人の瞳の奥……なんだか、ものすごく黒いものが宿っているような気がする……。
熱く燃え盛る炎のような美しさの裏側に、底知れぬ嫉妬、あるいは拭い去れない冷酷な闇のようなものが、チラリと垣間見えた気がしたのだ。
「お、お確かめいただけましたでしょうか……? ただいま、本日の晩餐会のための最高のお料理を、『風花亭』の皆様と一丸となって鋭意仕込み中でございます!」
私が緊張を押し隠しながら明るく答えると、朱姫様はスルスルと足音もなく私の目の前まで歩み寄ってきた。
彼女から漂う、どこか甘く、けれど鋭い香水のような香りが鼻腔をくすぐる。
朱姫様は、真鍮と大理石の調理台の上に綺麗に並べられた料理の数々を、値踏みするようにじっと見つめた。
その時、ふと、彼女の視線が鋭く尖った。
「ねえ、更科千歳。あなた……東の竜皇である蒼琳様と、かなり親しくしているっていうのは、本当なの?」
えっ……?
突然振られた蒼さんの名前の前に、私は思わず動きを止めてしまった。
「え? あ、はい……。私たちの居酒屋を、いつもひいきにしてくださっていて……その、公私ともに大変お世話になっております……」
私が少し戸惑いながらも正直に答えると、朱姫様の美しい眉が、ピクリと不機嫌そうに吊り上がった。
「ふーん……。そう……」
その一言には、言いようのない冷たさがこもっていた。
彼女は私の顔から、先ほどまで並んでいた料理の皿へと再び視線を戻し、ふっと冷笑を浮かべた。
「あの方ほどの高貴な御方が、たかが一介の路地裏の居酒屋の小娘ごときと、そこまで親しくしているなんてね……。世迷い言かと思っていたけれど、どうやら本当に物好きもいるものだわ」
その侮蔑しきった物言いに、傍らで聞いていた怜斗さんが「っ……!」と怒りの表情を浮かべて一歩前に出ようとしたが、私はすぐにアイコンタクトで彼を制止した。
ここは四神御会の真っ最中であり、相手は南の地を統べる最高権力者である鳳凰皇だ。ここで感情的に反発しては、『風花亭』全体、そして蒼さんにまで泥を塗ることになってしまう。
私はぐっと拳を握り締め、笑顔を貼り付けながら答えた。
「……身に余る光栄でございます。蒼琳様は、いつも私たちの料理を温かく評価してくださる、素晴らしいお方ですので」
私のその大人の対応に、朱姫様は面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。
「ま、口だけなら何とでも言えるわね。肝心の料理の味が伴っていなければ、どれだけ竜皇様のお墨付きがあったところで、他の皇帝たちの前で大恥をかくことになるだけよ。せいぜい、期待外れなものを出さないことね」
朱姫様はそれだけ言い捨てると、完成した料理の周りをまるで品定めするかのように、もう一度ゆっくりとうろうろと歩き回った。
そうして、しばらくの間、私たちが作業している間も料理の入った鍋を覗き込むなどしていたけれど──。
「……それじゃあ、私はもう行くわ。退屈なものは見飽きたところだし、会場に戻るとするわね」
と、冷たく言い放ち、振り返ることもなく、優雅で傲慢な足取りでそのまま厨房の扉を開けて去っていった。
朱姫様が完全に姿を消し、重厚な扉が完全に閉まり切ったあとも、厨房内にはしばらくの間、息が詰まるような重苦しい沈黙が居座り続けていた。
「……なんだ、あの女は……! 南の鳳凰皇だか何だか知らないが、人の厨房にズケズケと入ってきて、あんな失礼な口を叩いていくなんて……!」
我慢の限界だったのだろう。醍醐さんが悔しそうに拳を握りしめ、低い声で吐き捨てるように言った。
他の板前たちも、それぞれの顔を曇らせ、どこか不安げな空気が漂い始めている。
私は大きく深呼吸をし、自分自身の両頬を両手で軽くパンと叩いて、全員に聞こえるように明るい声を張り上げた。
「皆さん、手を止めないでください! あの方のおっしゃる通り、言葉でいくら弁解したところで、意味なんてありません。私たちがやるべきことは一つだけです!」
私のその凛とした声に、板前たちの視線がパッと集まった。
「私たちが作り上げたこの料理を、最高の状態でテーブルに並べ、一口食べた瞬間にあの人の……そして他のすべての皇帝たちの度肝を抜いて、言葉を失わせること。それこそが、一番の反撃だし、私たちがこの舞台に立っている理由です!」
私のその力強い宣言に、醍醐さんがふっと口元を緩め、豪快に笑ってみせた。
「ははっ……! その通りだ、千歳君! あんな傲慢な女なぞ、最高の料理で完膚なきまでに叩き潰してやろうじゃないか!」
醍醐さんのその一言で、厨房に立ち込めていた不安の澱は一瞬にして吹き飛び、再び熱気と活気がみなぎり始めた。
南の地の統治者、朱姫様。
彼女が纏っていたあの黒い影と、蒼さんに対する執着や私に対する冷たさは、何なのだろうか。少しだけ胸のモヤモヤが残りはしたけれど、今はそんなことを考えている暇はない。
「さあ、皆さん! 晩餐会の開始時刻が近づいています! 最後の仕上げにかかりましょう!」
私の号令とともに、再び『やどりぎ』と『風花亭』の連合チームは、世界最高峰の舞台に向けて、最後の情熱を注ぎ込み始めた。




