第19話 あの日の夕暮れ、お裾分けの焼き団子
四神御会の晩餐会という、文字通り世界を揺るがす大一番を控え、風花亭の厨房は連日熱気に包まれていた。
東の地の威信をかけた最高峰の宴だ。私一人が気負ったところでどうにかなるものではないけれど、料理人としての誇りと、私を信じてこの大役を任せてくれた蒼さん、そして夜光の大旦那の期待に応えるため、一日の大半を仕込みと試作に費やしていた。
けれど、どれほど準備に追われていようとも、私の胸の片隅には、あの夜に茶寮『紅の雫』で掲げた『恋のキューピッド宣言』がしっかりと根を張っていた。
凛子さんが教えてくれた、若旦那・怜斗さんと、若女将・桜さんのすれ違う恋路。
真面目で誠実ゆえに「若女将の足を引っ張ってはいけない」「自分なんかでは彼女にふさわしくない」と、ずっと陰から支えることに徹し、一歩も二歩も引いてしまっている怜斗さん。
一方の桜さんも、怜斗さんの優しさや細やかな気配りに気づきつつも、「きっと優しい仕事仲間の男友達として親切にしてくれているだけなんだわ」と思い込み、お互いに想い合っているというのに、立場が上がるにつれて硬い敬語の壁に阻まれ、あの頃の温かい距離感に戻れずにいる。
もどかしい。見ているこちらが歯がゆくて胸が締め付けられるほどに、二人の恋は不器用で、そしてあまりにもピュアだった。
そんなある日の夜遅く。四神御会のための特別な仕込みをすべて終え、店内の片付けに追われていた私の頭に、ふと絶好の作戦がひらめいた。
「よし、今夜が勝負……!」
私は意を決すると、仕込み用にとっておいた特別な食材を手に取り、巧妙な仕掛けを実行に移すことにしたのだった。
§
夜の十時を過ぎ、『風花亭』の本館や中庭の灯りがぽつりぽつりと落とされ始める頃。
私は、『やどりぎ』のカウンター席に、それぞれ全く別の理由で残業をしていた二人の人物を、絶妙なタイミングで誘導していた。
「おや、千歳さん。こんな時間まで、まだ仕込みですか……?」
真っ先にやってきたのは怜斗さんだった。彼は几帳面にスーツの袖をまくり、本館の帳簿を抱えたまま、心配そうな顔で藍色の暖簾をくぐってきた。
「あ、怜斗さん、お疲れ様です! いやあ、明日の仕込みがちょっと長引いちゃって……あ、そうだ、ちょうどよかった! 実は、新しく考えているデザートの試作品ができたんですけど、すごく美味しくできたので、味見を手伝っていただけませんか? 怜斗さんの率直な感想が聞きたいんです!」
私が少しオーバーに目を輝かせて頼み込むと、怜斗さんは「私で役に立つなら構わないですけど……」と、いつもの真面目な調子でカウンターの特等席に腰を下ろした。
そして、そのわずか数分後。
「あれ~、千歳ちゃん、まだお店に明かりがついてるよ。もしかして、まだお仕事中……?」
ふわりと柔らかな気配を纏いながら、中庭のテラス側からひょっこりと顔を出したのは、若女将の桜さんだった。彼女もまた、明日の宿泊客のスケジュール表をまとめた書類の束を抱えている。
「あ、桜さん! ちょうどよかったぁ! 今ね、怜斗さんと一緒に新作デザートの試食をしてもらうところだったんです。桜さんも、ぜひ一口食べて感想を教えてくださいよ!」
「えっ、本当ですか~? 私、甘いもの大好きだから嬉しいな~」
桜さんはのんびりと目を細め、怜斗さんの隣の席にふんわりと腰を下ろした。
ふふっ、作戦通り。
二人は奇しくも、カウンターの真ん中で隣同士に並ぶ形になった。怜斗さんは、隣に桜さんが座った途端、背筋がピシッと硬直し、耳たぶがカッと赤くなるのが、厨房の奥から見ていて手に取るように分かった。
「それじゃあ、今すぐ焼きたてをお出ししますね!」
私はそう告げると、手際よくコンロの火をつけ、準備しておいた特製の串団子を網の上に並べた。
ジュウウッ……と、炭火の上で香ばしい音を立てて焼き上げられていくのは、最高級の懐石デザートなどではなく、もっと素朴で、もっと温かい、思い出の味だった。
凛子さんからこっそり聞いていたタレコミによれば、こうだ。
『風花亭』の修業時代、まだまだ若くて仕事に慣れず、ちょっとした失敗をしては本館の裏庭でこっそりと涙を流していた若き日の桜さん。
そんな彼女を見つけては、言葉足らずで不器用ながらも「これ、食べますか……?」と、自分の休憩用のおやつだった温かい『焼き団子』をそっと差し出してくれたのが、当時から真面目一筋だった若き日の怜斗さんだったという。
桜さんは当時のことを、「あの時、怜斗さんがくれたお団子が、泣きそうくらい美味しくて、すごく救われたんだよね~」と、いつか凛子さんに嬉しげに、そして少し切なそうに語っていたのだ。
あれから立場が若旦那と若女将へと上がり、今ではすっかり仕事仲間としての硬い敬語の壁に阻まれてしまっている二人だけど、心の奥底では、あの夕暮れに食べたお団子の温もりを、お互いにずっと大切に覚えていたはずだ。
私は炭火の香ばしい匂いをまとわせながら、表面はカリッと香ばしく、中はモチモチに焼き上がったお団子に、甘辛い特製のみたらしダレをたっぷりとハケで塗り重ねた。さらに、大人の洗練された味わいに昇華させるため、隠し味としてごくわずかな柚子の皮のすりおろしをふわりと散らす。
お待たせしました、と心の中で呟きながら、私はお皿に盛った熱々の焼き団子を二人の目の前へとそっと差し出した。
「お待たせいたしました。『風花亭特製・焼き団子の蜜がけ』になります。どうぞ、温かいうちに召し上がってください!」
木製の小皿に盛られた、香ばしい醤油とみたらしの甘辛い香りが漂う二本の串団子。
その料理が目の前に置かれた瞬間、カウンターの空気がピタリと静まり返った。
はっ、と息を呑む音が聞こえた。
隣り合わせに座っていた桜さんと怜斗さんは、同時にそのお団子を見つめ、そして、動きを止めた。
「これ……は……」
桜さんは、潤んだ大きな瞳を限界まで見開き、信じられないものを見るような顔でお団子を見つめている。彼女の指先が、わずかに震えていた。
そして、隣の怜斗さんはといえば、顔面がトマトのように真っ赤に染まり、息が止まったかのように硬直していた。
「な……、なっ……!」
怜斗さんは動揺のあまり声が裏返り、私の方をギョッとした目で振り返った。
「な、なんで……、これを……あなたが……っ!?」
私はあえて悪戯っぽくニヤリと笑い、二人を交互に見つめながら、穏やかな声でこう告げた。
「これね、この間凛子さんから聞いたんです。『昔、桜さんがすごく嬉しそうに話していた思い出の味』だって。だから、ちょっと再現してみたんですけど……どうですか?」
私のその言葉に、桜さんはハッと顔を上げ、潤んだ瞳で隣に座る怜斗さんの顔をじっと見つめた。
「怜斗さん……これ、もしかして……あの時の……」
「っ……!」
怜斗さんはこれ以上ないほど顔を赤くし、気まずそうに、けれど愛おしそうに目を伏せた。
「……覚えているわけがないと思っていた。若女将になってからの君は、いつも立派に仕事をこなしていて……私のような者のした施しなど忘れてしまっているとばかり……」
怜斗さんの口から零れ落ちたその言葉は、あまりにも自虐的で、あまりにも切なかった。
私は自分の役割はここまでだと確信し、すっきりと晴れ渡った笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、私、コユキとミミちゃんの晩御飯の用意をしてくるので、お二人でゆっくり味わってくださいね!」
「え、あ、ちょっと、千歳さん……っ!?」
怜斗さんが慌てて引き止めようとする声を背中に聞き流しながら、私は「お邪魔しました~!」と明るく声を張り上げ、厨房の奥へとスッと身を引いた。
そして、その角からほんの少しだけ顔を覗かせ、二人の様子をそっと見守ることにしたのだった。
§
誰もいなくなった静かなカウンター。
夜の帳に包まれた『やどりぎ』の中で、並んで座る二人の間には、しばらくの間、甘く切ない沈黙だけが流れていた。
先に沈黙を破ったのは、桜さんだった。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、湯気の立つ香ばしい焼き団子の串を一本手に取った。そして、ぽつりと、けれど確かな温もりを込めた声で呟いた。
「……私ね、あの時のこと、一度だって忘れたことなんてなかったよ」
「桜……さん……」
「あの時、仕事で失敗して、悔しくて、もう自分なんてダメだって泣きそうになっていた私に、怜斗さんが優く温かいお団子を差し出してくれたの。あの時ね、お団子の甘さと温かさはもちろん嬉しかったけれど……何よりも、『自分を見ていてくれる人がいるんだ』って思えたことが、一番嬉しかったの。私の心を救ってくれたのは、いつだって怜斗さんのその優しさだったんだよ」
桜さんの瞳から、こらえきれなくなった大粒の涙が、ぽろり、ぽろりと頬を伝ってこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、長年胸の奥に閉じ込めていた想いがようやく雪解けを迎えた、あまりにも美しい涙だった。
その桜さんの涙を見た瞬間、怜斗さんのなかのダムが決壊した。
「……そんなふうに思ってくれていたなんて……知らなかった」
怜斗さんが絞り出すような声で言う。
「ずっと……怖かったんです。君が若女将として立派に成長していく姿を見るたびに、私のような不器用な男は、君の隣にいる資格すらないんじゃないかって……。いつだって君を支えたくて、一番近くで笑っていてほしかったのに、立場や古いしきたりばかりを気にして、自分の気持ちを押し殺すことしかできなかった……臆病で、本当に情けない男だ……!」
あふれ出る想いを堰き止めるように、怜斗さんは震える声でそう吐き出した。
それを聞いた桜さんは、驚いたように目を見開いたあと、ふっと、これ以上ないほど優しく、愛おしさに満ちた笑顔を浮かべた。
「馬鹿だな……怜斗さんは。いつだって私を一番近くで支えてくれていたのは、ほかならぬ怜斗さんじゃない。私ね、怜斗さんのそういう不器用で、でも誰よりも誠実で優しいところが……ずっと、ずっと大好きだったの」
「……桜さん……!」
その言葉を聞いた瞬間、怜斗さんはもう我慢できなくなったように、目の前に座る愛しい女性の肩をしっかりと引き寄せ、自分の胸の中へと強く、優しく抱きしめた。
「愛しています、桜さん。これからはもう二度と離れません。ずっと、私のそばにいてください」
「うん……! 私もだよ、怜斗さん……!」
二人の身体がしっかりと重なり合い、長年すれ違って凍りついていた時間が、あの日の夕暮れのお団子の温もりとともに、綺麗に溶け合っていく。
その奇跡のような瞬間を見届けていた私の目からも、思わず熱い涙が一筋、スッと頬を伝ってこぼれ落ちた。
「……よかったぁ……本当によかったぁ……!」
私は声を殺しながら両手で口を抑え、心からの祝福を送りながら、そっとその場から静かに足音を立てずに立ち去ったのだった。
§
翌日の朝。
四神御会の準備に追われ、慌ただしく『風花亭』の本館の廊下を歩いていた私のところに、軽やかな足取りで近づいてきた人物がいた。
それは、筆頭仲居の凛子さんと、茶寮の女将である紅音さんだった。
二人とも、どこか意味深で、それでいて最高に楽しげな笑みを顔全体に浮かべている。
「おはよう、千歳ちゃん」
「おはようございます、紅音さん、凛子さん……って、なんですかそのニコニコした顔は?」
私が首をかしげると、凛子さんはクスクスと笑いながら私の肩をパンと軽く叩いた。
「いやあ、恐れ入りましたねえ、千歳ちゃん! 今朝ね、本館のほうで若旦那と若女将の姿を見かけたんだけどさ……なんとまあ、二人して今までに見たこともないような、とろけそうなほど幸せいっぱいの顔をして並んで歩いていたんだから!」
「そうよ、千歳ちゃん」
と、紅音さんも艶やかに微笑んだ。
「すれ違うスタッフたちにも、二人揃って『おはようございます!』って、それはもう晴れ晴れとした素晴らしい笑顔で挨拶してくれてさ。あまりの急展開に、館中の従業員たちが全員ひっくり返りそうになっちゃったわよ。千歳ちゃん、あなた、何か美味しい『隠し味』を使ったんじゃない?」
二人のそのからかいと温かさが入り混じった眼差しに、私は照れくさそうに頬をポリポリとかきながら、ふっと笑った。
「えへへ……少しだけ、思い出のスパイスを効かせたお団子を出しただけですよ」
「そう、お団子ね。その思い出のスパイスが、最高の隠し味だったってことだわ」
紅音さんと凛子さんは顔を見合わせ、満足そうに大きく頷いた。
その朝の『風花亭』は、これまで以上に温かい笑顔とチームワークに包まれていた。
お互いの想いを確かめ合い、しっかりと結ばれた怜斗さんと桜さんの存在が、宿全体に何とも言えない幸福な空気を満たしている。
身近な人たちの小さな恋を料理の力でそっと助け、二人を幸せに導けたこと。
その確かな手応えは、これから世界を揺るがす大舞台──四神御会の晩餐会に挑む私にとって、何よりも心強い、最高のエネルギー源となっていた。
「さあ! いよいよ四神御会に向けて、私自身も最高の料理を作り上げるぞ!」
私は心の中で気合を入れ直し、新しい一歩を踏み出すために、軽やかな足取りで厨房へと向かっていった。




