第18話 動き出す恋のキューピッド
四神御会の公式晩餐会という、国を揺るがす大一番に向けて、居酒屋『やどりぎ』の準備は着々と確実に進められていた。
世界の頂点に立つ四皇たちを唸らせるためには、私一人の力だけではなく、『風花亭』の誇る一流の料理人や手練れの仲居使いたちとのチームワークが不可欠だ。仕込みの分担、当日の配膳の動線、さらには各国の要人たちの好みに合わせた食材の調整など、話し合うべき課題は山のようにあった。
その日も私は、中庭に面した『やどりぎ』のカウンター席に資料を広げ、若旦那である怜斗さんと真剣な表情で打ち合わせを行っていた。
「……というわけで、前菜のカルパッチョに添えるハーブの仕込みは本館の調理場側で一括して進めてもらえると、当日の作業がかなりスムーズになると思うんです。怜斗さん、いかがでしょうか?」
私がそう尋ねると、真面目で誠実な眼鏡の奥から、怜斗さんは信頼に満ちた瞳をまっすぐに向き直らせてうなずいた。
「ええ、承知しました。それなら厨房の若い者たちにもあらかじめ指示を出しておきます。前菜の準備にそこまで気を配っておけば、当日の混乱は確実に防げるはずですからね。さすが千歳さん。細かいところまでよく目が届いている」
「いえいえ、『風花亭』の皆さんのサポートがあってこその計画ですから。お互い、最高の晩餐会にしましょうね!」
私たちがそんなふうに前向きな笑みを交わし、再び手元のスケジュール表に視線を落とした、その時だった。
「お二人とも、お疲れ様です~」
周囲の空気を一瞬で和ませるような、おっとりとした愛らしい声が響いた。
顔を上げると、そこには若女将である桜さんが立っていた。
彼女はいつも通りのゆるふわとしたマイペースな雰囲気を纏いながら、両手にお盆を大切そうに抱えている。そのお盆の上には、湯気の立つお茶のポットと、一口大の焼き菓子が綺麗に盛られていた。
「これ、差し入れなんですけど、よかったらどうぞ~」
桜さんはそう言って、天使のようにふんわりと柔らかい笑顔を浮かべた。その天然で無防備な可愛らしさに、見ているこちらまで思わず頬が緩んでしまう。
「わあ、桜さん! ありがとうございます、ちょうど少し喉が渇いていたところだったんです。すごく嬉しい!」
私がパッと顔を輝かせてお礼を言うと、桜さんは「よかったです~、お仕事大変そうですもんね、無理しないでくださいね~」と、のんびりとした足取りで私たちのテーブルにお盆をそっと置いてくれた。
そして、その傍らにいた怜斗さんはというと──。
「……ありがとうございます。わざわざ若女将が……その、お気遣い痛み入ります」
いつも通りの落ち着いた受け答えを返してはいたけれど、その声音のわずかな震えや、耳たぶから首筋にかけてみるみるうちに広がっていく鮮やかな赤みは、どう取り繕っても隠しきれていなかった。どこか照れくさそうに視線を泳がせ、桜さんとまともに目を合わせようとしないその姿は、仕事中の頼もしい若旦那の顔からは想像もつかないほど、恋するピュアな青年そのものだった。
「ふふ、じゃあお仕事の邪魔しちゃ悪いので、私はこれで~」
桜さんは特に彼のそんな動揺に気づく様子もなく、のんびりとマイペースに手を振りながら、ふわりふわりと身を翻して本館のほうへと歩いていってしまった。
彼女が去ったあとの空間に、ほんのりと甘い残り香が漂う。
そして、怜斗さんはといえば──。
遠ざかっていく桜さんの後ろ姿を、切なさと愛おしさが詰まった眼差しで、いつまでもじっと見つめ続けていた。その瞳の熱量たるや、横に立っている私の存在など完全に頭から抜け落ちているレベルだ。
……あーあ。
私は心の中で、思わず盛大なため息を漏らした。
本人は必死に隠しているつもりなのだろうけれど、こんなにも分かりやすく「好きです」と全身で全霊で全方位に発信しているというのに、当の本人は見事にその好意に気づいていない。というか、気づく気配すらない。
見ていてこちらがもどかしくなって、胸のあたりがキュンと甘酸っぱく締め付けられるような、そんな不器用すぎる片思いだった。
§
その日の夜。すべての仕込みを終えた私は、少し気分転換を兼ねて、本館最上階にある茶寮『紅の雫』へと足を運んでいた。
アンニュイな色気と大人の余裕を纏う赤髪の女将・紅音さんがカウンターの向こうで静かにグラスを磨いているその場所には、筆頭仲居の凛子さんもちゃっかり陣取っておいしそうなお茶を飲んでいた。
「あら、いらっしゃい、千歳ちゃん。お疲れ様」
私を見た紅音さんが、艶やかに微笑みながら席を勧めてくれる。私は凛子さんの隣にちょこんと腰を下ろし、今日あった出来事を思い出しながら、ふうっと小さく息をついた。
「紅音さん、凛子さん……実は今日、昼間にちょっと面白いものを見ちゃったんです」
「おや、面白いものって?」
凛子さんがピピンと兎耳を動かし、興味津々な顔で身を乗り出してきた。
「あのですね、怜斗さんと桜さんのことなんですけど……」
私が昼間の休憩中に起きた一部始終を聞かせると、二人は顔を見合わせたあと、揃って「ああ……」と深い納得のため息を吐いた。
「ああ、怜斗さんと桜さんね」
と、紅音さんはグラス拭きの手を止め、微笑ましいものを見るような目を窓の外に向けた。
「怜斗さんはね……もう何年も前から、ずっと桜さんのことが好きで好きでたまらないのよ」
「えっ、そうなんですか……!?」
私が驚きの声を上げると、隣で凛子さんが「そうそう!」と勢いよく手を叩いた。
「そうなのよ! もうね、『風花亭』の従業員の間じゃ、そんなの皆が知ってる周知の事実なんだから。知らないのは……まあ、当事者であるあの不器用な二人だけ、ってわけだね」
「皆知ってるのに、本人たちだけが……!」
「そう。見ているこっちがもどかしくて、歯がゆくて、いっそ背中を思いっきり蹴り飛ばしてやりたくなるくらいにね」
紅音さんは艶やかにため息をつきながら、苦笑いを浮かべた。
「どうにかしてあげたいけれど、桜さんはあの通り、いい意味でも悪い意味でもおっとりした天然ちゃんだから、怜斗さんのあんな分かりやすい恋心や優しさには、まったく気づいてないのよねえ……。怜斗さんが自分のために気を利かせてくれても、『うわあ、怜斗さんって本当に気が利いて優しいお兄ちゃんみたいですね!』なんて笑顔でお礼を言っちゃうものだから、怜斗さんは毎回心のなかで盛大に撃沈して、一人で勝手に切なくなってるのよ」
その解説を聞くだけで、怜斗さんの不器用すぎる片思いの苦しさと、桜さんの天然無邪気さの破壊力が目に浮かんで、私は思わず頭を抱えたくなりそうだった。
なんてピュアで、なんてすれ違っているんだろう。
仕事ではあんなに優秀で頼りになる若旦那と若女将なのに、恋愛のことになると、どうしてこうも絶望的に不器用になってしまうのだろうか。
身近でこんなにも切ない恋のドラマが繰り広げられているなんて知ってしまったら、私の料理人としての、そしてお節介焼きな血がじっとしていられるわけがなかった。
私は胸のなかでふつふつと燃え上がってきた熱い決意を胸に、ドンとカウンターに両手を突き出し、力強く宣言した。
「私、二人の恋のキューピッドになります!」
そのあまりにも唐突で、勢いだけの宣言に、紅音さんと凛子さんは目をパチパチと瞬かせた。
「きゅ、きゅーぴっど……? あなたが?」
「はいっ! キューピッドって、どうやって……って、今から考えますけど、とにかく私にお任せください!」
私が鼻息を荒くして意気込むと、凛子さんは面白そうにクスクスと笑い声を上げた。
「あはは、いいねぇ! なんだか面白そうじゃない! でもね、千歳ちゃん、ただ『あの人あなたのこと好きらしいよ』なんて直接言ったって、あの二人の性格じゃ絶対に照れちゃって余計にこじれちゃうだけだよ? どうやってその恋を取り持つつもりなの?」
「ふふふ……そこはですね、料理人である私にお任せください!」
私は胸を張り、ニヤリと自信満々な笑みを浮かべてみせた。
「お料理で、二人の仲を取り持ってみせます!」
私のその言葉に、紅音さんはグラスを拭く手を止めて、興味深そうに目を細めた。
「お料理で、ね……。一体どんな魔法を使うつもりなのかしら、千歳ちゃん。私、すごく楽しみになっちゃったわ」
「ふふ、楽しみにしていてください! 必ず、あの二人の頑なですれ違っている心を、とびきり温かい味で溶かしてみせますから!」
こうして、四神御会の準備の裏で、一介の料理人である私による、最高に美味しくてちょっぴり切ない『恋のキューピッド大作戦』の幕が、ひそやかに切って落とされることになったのだ。




