第17話 栄冠と快気の宴と、四皇の招集
数日前の劇的な事件が嘘のように、『風花亭』の中庭に佇む居酒屋『やどりぎ』には、連日穏やかで満たされた空気が流れていた。
あの時、命の危機から奇跡的な生還を果たした伊織さんの妻・史奈さんは、日を追うごとに健康を取り戻し、今ではすっかり見違えるほど血色が良い笑顔を取り戻している。
さらに、伊織さんが国家の要職として政務の合間に『やどりぎ』の真価を高く評価し、皇都の最高機関へと働きかけてくれたおかげで、当店はついに『国選の居酒屋』としての正式な指定を受けることになった。
国選指定。それは、一介の路地裏の店舗からスタートしたこの店が、皇国公式の迎賓施設や公的な要人たちも太鼓判を押す『皇国公認の名店』へと格上げされたことを意味していた。
これまで「中庭の泥臭い居酒屋」と冷ややかな目を向けていた格式高い保守的なあやかしたちも、国選指定という揺るぎない箔がついたことで、次々とプライドの壁を乗り越え、客として足を運んでくれるようになったのだ。
そして今夜は、そのすべての良き出来事を祝うため、そして何よりも史奈さんの完全なる快気を祝うため、『やどりぎ』は特別に店を貸し切り営業とし、親しい仲間たちだけの盛大な宴を開催することになっていた。
藍色の暖簾の奥、広く拡張された店内には、ずらりと並べられた特製の長テーブルを囲むように、お馴染みの顔ぶれが和やかに集まっている。
無事に元気になった史奈さんと、その手を優しく握りしめる伊織さん。
皇都の頂点に立ちながらも、気さくな笑みを浮かべる蒼さんと、隣で嬉しそうにちょこんと座る愛らしい妹の藍那ちゃん。
いつも通りの威勢の良さでビールを煽る門兵の迅さんと翔琉さん。
艶やかな着物を纏い、優雅に微笑む『宵月』の女将・玉藻さん。
そして、この『風花亭』の総元締めで、すべての縁を繋いでくれた金華猫の大商人・夜光の大旦那。
さらには、看板娘としてテキパキと皆にお酌をして回るミミちゃんと、その足元で尻尾をパタパタと振って大人気となっている看板狐のコユキの姿もある。
厨房のカウンターからその温かな光景を見渡しているだけで、私の胸の奥は言葉にできないほどの幸福感と感謝でいっぱいになっていた。
すべての準備が整い、いよいよ宴の幕開けとなる。
皆の視線が集まる中、席の最上位に座る夜光の大旦那が、ふっと優雅に微笑みながらグラスを掲げた。
「それじゃあ、我が宿の誇りである『やどりぎ』の国選指定、そして愛しき伊織君の妻・史奈君の完全なる快気と新しい門出を祝して……皆、グラスの準備はいいかい? ──おめでとう、そして乾杯!」
「「「かんぱーい!!!」」」
店内に響き渡る朗らかな乾杯の音とともに、色とりどりのグラスやジョッキが高く掲げられた。琥珀色のビール、澄んだ冷酒、シュワシュワと弾ける果実のソーダが美しく光を反射し、夜の宴が盛大にスタートした。
私は今日この日のために、料理人としての全霊と情熱を注ぎ込み、最高の腕によりをかけて数々の絶品料理を作り上げていた。
テーブルの上には、神恵堂の最高級食材をふんだんに使った料理の数々が隙間なく並べられている。
前菜の『旬の白身魚のカルパッチョ仕立て』、香ばしい炭火の香りが食欲をそそる『特製地鶏の炭火焼き・柚子胡椒添え』、そして『やどりぎ』の代名詞ともなった『特製スパイス香る欧風カレーライス(ミニサイズ)』に、デザートの『季節の果実をふんだんに使った特製フルーツタルト』など他多数と、和と洋の境界を超えた最高のラインナップだ。
さっそく、料理に箸を伸ばした迅さんが、目を丸くして声を上げた。
「おいおい千歳のお嬢ちゃん……! 今日のこの料理、一段と気合が入ってやがるな……! この鶏の炭火焼きなんて、皮はパリッパリなのに噛むと肉汁がジュワッと溢れてきて、柚子の風味がたまらねぇ……! これはなんだ? 美味すぎて酒がいくらあっても足りないぜ!」
迅さんの豪快な絶賛に、私はエプロンを押さえながら嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、ありがとうございます、迅さん! それはですね、朝締めの新鮮な地鶏を特製のタレに漬け込んで、じっくり炭火で香ばしく焼き上げた『特製地鶏の炭火焼き・柚子胡椒添え』ですよ。ビールとの相性は抜群ですから、どんどんお代わりしてくださいね!」
隣で同じ皿をつまんでいた翔琉さんも、「ほんとだ、これは反則的な美味さだな……!」と感嘆の声を漏らす。
さらに、隣の席に座る玉藻さんが、上品にお箸でカルパッチョを口に運び、うっとりと目を細めた。
「ふふ……本当に、いつ来ても千歳の料理には驚かされるわね。このカルパッチョなんて、新鮮な魚の甘みに特製のオリーブオイルとハーブの香りが絶妙に絡み合っていて……。とても繊細で、口の中でスッと溶けていくような贅沢な味わいだわ。我が『宵月』の板前たちにも、ぜひ食べさせて勉強させたいくらいよ」
玉藻さんのその大絶賛に、私は少し照れくさそうに頬を染めた。
「ありがとうございます、玉藻さん。そう言っていただけるなんて、料理人冥利に尽きます……!」
すると、その様子をワイングラスを傾けながら優雅に眺めていた夜光の大旦那が、ふっと艶やかな笑みを浮かべて話題を切り替えた。
「いや本当に、玉藻ちゃんの言う通りだね。千歳君がこの風花亭に店を出してくれてからというもの、我が『風花亭』の宿としての評判もうなぎ登りさ。最近では、『あの美味しい居酒屋がある風花亭に泊まりたい』という理由で、遠方からわざわざ予約を入れてくる宿泊客が後を絶たないんだよ。大旦那として、君には本当に感謝してもしきれないね、千歳君」
「夜光さん、そんなに持ち上げないでください……私一人の力じゃなくて、皆さんがこうして支えてくださるからこそですから」
私が謙遜すると、店の中はさらに温かい笑い声と和やかな会話に包まれた。
病から完全に快復した史奈さんは、「本当に美味しいお料理をありがとうございます。こうして夫と一緒に穏やかな時間を過ごせるのも、千歳さんのおかげです」と、涙を浮かべながら私に深くお礼を言ってくれたし、その隣で伊織さんも「我が人生のすべてをかけて皇国とこの『やどりぎ』のために尽くします」と力強くグラスを掲げてくれた。
藍那ちゃんは、ミミちゃんやコユキと一緒に特製のフルーツタルトを夢中で頬張りながら「美味しいね、お姉ちゃん!」と満面の笑みを向けてくれる。
皆がそれぞれのグラスを合わせ、美味しい料理を囲みながら、最高の夜のひとときを満喫していた。
§
宴もたけなわとなり、店内の空気が心地よい満足感に満たされていたその時だった。
ふと、私の斜め向かいに座っていた蒼さんが、手元のお猪口をそっと置き、どこか真剣な面持ちで、私へと視線を向けた。
「……あのね、千歳。皆がこうして楽しい時間を過ごしている最中に、こんな話を切り出すのは少し野暮かもしれないのだが……」
蒼さんのそのただならぬ真剣なトーンに、周囲の賑やかな会話がすっと静まり返った。迅さんや玉藻さんも、グラスを置いて彼のほうへと視線を向ける。
「どうかしましたか、蒼さん? 何か難しいご相談でも……?」
私が少し身構えながら尋ねると、蒼さんはふうっと小さく息をつき、私に向かって真摯に頭を下げた。
「実はね、千歳。君に……私から、どうしても頼みたい重大な依頼があるんだ」
「依頼、ですか……?」
「ああ。次の『四神御会』の席で、公式の晩餐会の料理を作ってくれないか?」
しーん、と店内の空気が一瞬で凍りついた。
……ししんごかい?
私の頭のなかに、大きなクエスチョンマークがいくつも浮かび上がる。
「あの……すみません、私の勉強不足で申し訳ないんですけど……『四神御会』って、いったい何なんですか……?」
私の素朴な疑問に、隣にいた夜光の大旦那が、優雅な笑みを浮かべながら解説してくれた。
「それを千歳君が知らないのも無理はないね。いいかい、四神御会というのはね、この『かくりよ』の世界において年に一回だけ開かれる、極めて重要で格式高い最高峰の会談のことさ。東西南北を統治する四人の皇──すなわち『四皇』が一堂に会し、世界の均衡や国家間の重大な取り決め、交易や勢力図の調整などを話し合う場なんだよ」
東西南北を統治する四皇が一同に集まる会談……っ!?
私の背筋に、冷や汗が一気に駆け巡った。
そんなとてつもなく偉い人たちが集まる、世界の命運を左右するような超絶エリート会議の場なんて、一般庶民の私が想像するだけでも気絶しそうなほどの重圧だ。
蒼さんが真剣な瞳で説明を続ける。
「そうだ。その御会は毎年持ち回りで開催されているのだが、今年の開催地は、我が東の地──すなわちこの皇都なのだよ。そして、その厳粛な会談がすべて終わったあとに、緊密な親睦を深めるための『晩餐会』が盛大に開かれることになっている」
蒼さんはそこで言葉を一度区切り、私の目をまっすぐに見据えた。
「その晩餐会の席で、世界から集まる他の三人の皇帝たちや、要人たちを唸らせる最高のおもてなし料理を……君に作ってほしいのだ。千歳、頼む。我が東の地の威信をかけ、そして私個人としても、君の作る最高の料理で彼らを驚かせてやりたいんだ」
そこまで言われ、私の心臓はバクバクと激しい音を立て始めた。
そ、そんな重要な集まりの晩餐会に……まだ一介の小さな居酒屋の、それも路地裏から始まったばかりの私なんかを抜擢するなんて、正気とは思えない!
「そ、そんな重要な国家の一大イベントに、居酒屋の店主である私なんかを選んだって……他の偉い方々に絶対怒られますって! 第一、私にそんな大役が務まるわけがありません……!」
私が慌てて両手をブンブンと横に振って拒絶しようとすると、夜光の大旦那がふっと不敵な笑みを浮かべ、私の肩を優しくポンと叩いた。
「何を言っているんだい、千歳君。謙遜もそこまでいくと可愛げがないよ」
「そうよ、千歳!」
今度は隣で聞いていた玉藻さんが、自分のワイングラスをテーブルに置き、目を輝かせながら身を乗り出した。
「あんたの腕前は、我が『宵月』の女将であるこの私が保証するわ。それに、東の竜皇様である蒼琳様がそこまで言って直接指名してくれているのよ。こんな名誉な話、断るなんてどうかしてるわ!」
「そうだぞ、お嬢ちゃん!」と迅さんも豪快に笑う。
「あんたの作るメシなら、世界のどこの王様が相手だろうと、胃袋をガッチリ掴んで一撃でメロメロにできるに決まってるさ! 自信持って引き受けちまいなよ!」
周りのみんなが口々に私を応援してくれる。
さらに、蒼さんが確かな信頼を込めた声で私に告げた。
「大丈夫だ、千歳。君の料理の腕は、城の一流料理人たちにも決してひけをとらない。いや、それどころか。君には、うつしよから持ち込まれた、他のあやかしたちには到底真似できない斬新で独創的な『アイデアと技術』がある。その君の料理を食べたら、きっと他の皇帝たちも度肝を抜かれるはずだ」
夜光の大旦那も、ビジネスマンとしての鋭い視線を光らせながら、ニコリと笑った。
「それにね、千歳君。その四神御会の晩餐会で我が『風花亭』の居酒屋が公式に料理を担当するとなれば、この宿の格や箔も、さらに一段も二段も跳ね上がることになる。我が宿にとっても、これ以上ないまたとないチャンスなんだよ。……どうだい、千歳君、この大役、ぜひ受けてくれないか?」
周囲を見渡すと、ミミちゃんもコユキも、そしてすべての仲間たちが、期待と応援に満ちた瞳で私をじっと見つめていた。
……これだけの温かい人たちに背中を押され、しかも東の地のトップである竜皇様本人から直接頼まれている。
逃げる道なんて、最初から用意されていなかった。
私は大きく深呼吸をし、胸の内で暴れていた鼓動をぐっと落ち着かせた。
そして、しっかりと顔を上げ、蒼さんの瞳を真っ直ぐに見据えてハッキリと告げた。
「……わかりました。私、その『四神御会の晩餐会』のお料理、全身全霊をかけてお引き受けします!」
私のその力強い返事を聞いた瞬間、店内は割れんばかりの歓声と盛大な拍手に包まれた。
「おお……! 受けてくれるか、千歳! ありがとう……!」
蒼さんは心からの安堵と歓喜の笑みを浮かべ、私の手をしっかりと力強く握りしめてくれた。
こうして、居酒屋『やどりぎ』の店主である更科千歳は、かくりよ最高峰の会談『四神御会』の晩餐会に向けて、かつてない最大の挑戦へと踏み出すことになった。




