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第16話 温かな救済の粥と、蒼き竜の裁き  


 皇都の中心部、壮麗な蒼龍城のすぐ傍らにひっそりと佇む、静謐で気品のある武家屋敷──そこが、伊織さんの自宅だった。

 

 先ほどまで私たちの周囲を取り囲んでいた皇国の親衛兵たちは、蒼さん(蒼琳様)の厳かな一言によって、家の前で静かに待機と相成った。


 屋敷の重厚な玄関をくぐり、静まり返った廊下を早足で進む。


 案内された一室の前に立った瞬間、私はピリリと肌を刺すような、冷たく淀んだ重い空気が室外にまで漏れ出しているのを肌で感じ取った。

 

 静かに襖が引き開けられる。

 

 そこに広がっていたのは、まさに死の影が支配する空間だった。


 部屋のなかに立ち込めるのは、薬草の乾いた匂いと、行き場を失った澱のような冷気。大きな寝台に横たわる一人の女性の姿を見た瞬間、私の胸はキュッと痛々しく締め付けられた。

 

 そこに横たわっていたのは、すっかり生気を失い、青白くやつれ果てた伊織さんの妻──史奈(ふみな)さんだった。

 

 彼女の額のあたりや、着物の隙間から覗く首筋や腕の皮膚には、おぞましいことに、不気味にうねる黒い蜘蛛の巣のような呪いの紋様が幾重にも深く浮かび上がっていた。それはまるで生き物のようにジリジリと脈打ちながら、彼女のわずかな生命力を少しずつ、確実に削り取っている。その命の炎は、まるで激しい風に晒された消えかけのロウソクのように、いつ消えてもおかしくないほど微かに、そして頼りなく揺らいでいた。

 

「……史奈……!」

 

 伊織さんは、それまで張り詰めていた気丈さが一瞬にして崩れ去ったかのように、妻の寝台の傍らへと我先にと駆け寄った。彼はその冷たくなりかけた細い手を取り、震える声で何度も愛おしい妻の名前を呼びながら、男泣きにボロボロと大粒の涙をこぼした。その姿には、先日のような冷徹な官僚の面影など微塵もなく、ただ愛する人を失う恐怖に怯える一人の夫の姿があった。

 

 私は、その胸を突かれるような光景からそっと視線を外し、寝台の傍らにそっと歩み寄った。

 

 そして、静かに息を整え、目の前で苦しむ史奈さんの状態をじっと詳細に観察する。


 人間の医療知識や、ただの薬の処方などでは絶対に太刀打ちできない。これは『かくりよ』の世界特有の、極めて悪質で強力な呪いの瘴気だった。それが彼女の肉体を通り越し、魂の芯にまで深く、頑固に食い込んでいるのが、私の鋭い異能の感覚を通じてハッキリと伝わってきた。

 

 ぞっとするような冷気が指先から伝わってくる。


 けれど、ここで怖気づいていたら、彼女を救うことはできない。

 

 私は両手を固く握り締め、心のなかで自分を鼓舞した。そして、背後に控えている蒼さんと、必死に妻の手を握りしめながら涙にくれる伊織さんをゆっくりと見やった。

 

 二人の瞳には、最後の希望を託すような切実な光が揺れている。


 私は一切の迷いのない、力強い笑みを顔に湛え、はっきりとこう告げた。

 

「蒼さん、伊織さん。どうか安心してください。この呪いの解呪……私がやってみせます!」

 

 

   §

 

 

「お借りしますね」

 

 私は伊織さんの自宅の奥にある、手入れの行き届いた清潔な厨房へと足を踏み入れた。


 家主の伊織さんが日頃から丁寧に磨き上げているのだろう。調理台やシンクはピカピカに輝いており、料理人としての血が自然と騒ぐような、実に素晴らしい環境だった。

 

 私はエプロンをキュッと結び直し、持参した麻袋の中から、この日のために厳選した特別な食材の数々を取り出した。

 

「今回は、ただお腹を満たすための料理じゃない。彼女の魂の芯まで深く食い込んだ呪いの瘴気を内側から引きはがし、消えかけた生命の炎を力強く再点火するための……最高の『薬膳粥』を作るんだからね」

 

 私は独り言を呟きながら、手際よく調理の準備を始めた。

 

 まな板の上に置いたのは、森の奥深くで採集され、濃厚な霊気と大地のエネルギーをたっぷりと蓄えた極上の『霊茸』だった。このキノコは、ただ美味いだけでなく、あやかしの傷を癒やし、弱った気を力強く巡らせる霊的効能を秘めている。


 さらに、神恵堂のシステムから取り寄せた極上の新米、そして滋養強壮に優れた特製の卵を用意した。

 

 包丁を手に取り、霊茸を丁寧に、かつその香りや霊気が逃げ出さないように絶妙な厚さにスライスしていく。


 トントン、トントン……と、厨房に響く心地よい包丁の音が、屋敷全体の重苦しい空気を少しずつ切り裂いていくようだった。

 

 厚手の土鍋に清らかな水を張り、綺麗に研いだ米と、スライスした霊茸をたっぷりと投入する。


 じっくりと時間をかけて火にかけ、まずはじわじわと米の芯まで水分を浸透させていく。

 

 しばらくすると、土鍋の中から、ただの米の匂いとは全く異なる、森の深淵を思わせる清らかで芳醇な香りと、出汁の優しい匂いがふわっと立ち上ってきた。霊茸から溢れ出した霊気が、湯気とともに厨房いっぱいに広がっていく。


 この香りを嗅いでいるだけでも、なんだか心が洗われるような不思議な心地よさがあった。

 

「よし、ここからだ……」

 

 私は火加減を弱火に落とし、木製のしゃもじで鍋底が焦げ付かないように慎重に、かつ愛情を込めて優しく、優しくお米を混ぜ合わせる。


 コトコト、コトコト……と、土鍋が奏でる小さなリズムが、まるで弱り切った誰かの心音のように穏やかに響く。

 

 米がすっかり柔らかくトロトロの状態になり、黄金色のスープと霊茸の成分が完全に一体化したその瞬間、私は新鮮な卵を割り入れ、素早くかき混ぜてふんわりとした卵とじへと仕上げた。


 最後に、仕上げの隠し味として、身体の隅々まで温かい気を巡らせる特別な薬草の粉末をごく少量だけ振りかける。

 

 パッと蓋を開けた瞬間、思わず息を呑むような、美しく、そしてあまりにも優しげな黄金色の『霊茸の卵粥』が姿を現した。

 

 立ち上る湯気そのものが、まるで柔らかな光を帯びているかのように輝いている。

 

「……完璧だ。これなら、きっと届くはず……!」

 

 私は出来上がったばかりの熱々のお粥を、上品な陶器の小ぶりな椀に丁寧に盛り付け、お盆に載せると、足早に史奈さんが眠る部屋へと引き返した。

 

 

   §

 

 

 部屋に戻ると、寝台の傍らでは蒼さんと伊織さんが、息を潜めるようにして祈るような眼差しで寝台を見つめていた。

 

「お待たせしました。『霊茸の卵粥』です」

 

 私がそう言って盆をテーブルに置くと、部屋中にふわりと広がったあまりにも芳醇で、心身の奥底から癒やされるような香りに、二人はハッと目を見張った。

 

「おお……この香りは……!」

 

 蒼さんが感嘆の声を漏らし、伊織さんも驚いたように私の手元を凝視した。

 

「ただのお粥ではありません。森の霊気を宿した霊茸と、厳選された滋養の食材を使い、彼女の魂の芯にまで直接働きかけるように仕込んだ、私なりの特製薬膳粥です。さあ、伊織さん、温かいうちに少しずつ食べさせてあげてください」

 

「あ、ああ……わかった……!」

 

 伊織さんは震える両手でお椀を受け取り、慎重にスプーンでお粥をすくい上げた。黄金色のスープと、細かく刻まれた霊茸、そしてふんわりとした卵が絶妙に混ざり合っている。

 

 彼は寝台に横たわる妻の枕元にそっと身を寄せ、優しくその肩を支え起こしながら、呼びかけた。

 

「史奈……おい、分かるかい? 君のために、すごい料理人が美味しいお粥を作ってくれたんだ。少しだけでもいい、口にしてくれ……頼むから……」

 

 伊織さんのその必死で、愛にあふれた呼びかけに、史奈さんはゆっくりと重たげな瞼をほんの数ミリだけ持ち上げた。


 彼女の瞳には生気こそなかったが、夫の声をしっかりと聞き取っているかのように、わずかにうなずこうとした。

 

「あ……あなた……」

 

 掠れた、消え入りそうなほどか細い声だった。


 伊織さんは涙をこらえきれなくなりながらも、スプーンをそっと彼女の乾いた唇へと近づけた。

 

「さあ、ゆっくりでいいからね……」

 

 史奈さんはおそるおそるそのスプーンの上の霊茸の卵粥を口に含み、そして、ゆっくりと飲み込んだ。

 

 その瞬間だった。

 

 彼女の青白くやつれ果てた身体が、ふわりと微かな光の粒子に包まれた。

 

「……っ……!?」

 

 伊織さんが息を呑み、傍らで見守っていた蒼さんも思わず身を乗り出した。

 

 お粥が彼女の喉を通ったのを契機として、その体内からまるで太陽の光のような温かな霊気が一気に全身へと駆け巡っていくのが、目に見えて分かったのだ。

 

 そして──。

 

 史奈さんの額や首筋、腕の皮膚にびっしりと張り付いていた、あの不気味にうねる黒い蜘蛛の巣のような呪いの紋様が、ジリジリと音を立てるかのように急速に薄れていく。

 

「なっ……! 呪いが……消えていく……!?」

 

 伊織さんは我が目を疑うように自分の目をこすり、それから震える目で寝台の上を見つめた。

 

 黒く禍々しかった呪いの痕跡はみるみるうちに霧散し、代わりに、史奈さんの頬にほんのりと健康的な血色が戻ってきた。消えかけのロウソクのようだった微弱な呼吸が、深く、力強いリズムへと変わっていく。

 

 ほんの一口のお粥を食べただけで、あれほどまでに彼女を苦しめていた悪質な呪いの瘴気が、根こそぎ浄化され、押し戻されていくのだ。

 

「はぁ……っ……!」

 

 史奈さんは深く息を吐き出し、それから驚いたように自分の両手をそっと見つめた。

 

「あ……身体のなかの……あの冷たくて重い痛みが……ウソのように、すっかり消えている……。呼吸が……こんなにも、楽なんて……」

 

 彼女の口から零れ落ちたのは、苦悶のうめき声ではなく、あまりの安らぎに満ちた、紛れもない安堵の言葉だった。

 

「史奈ぁぁぁぁーーーっ……!!!」

 

 もう耐えられなかったのだろう。


 伊織さんはお椀とスプーンをそっと床に落とすと、そのまま寝台の上の妻の胸元に顔をうずめ、まるで子供のように声を上げて激しく泣き崩れた。

 

「よかった……本当によかった……! 君が死んでしまうんじゃないかって、怖くて怖くて仕方がなかったんだ……っ!」

 

「あなた……泣かないで……私、もう大丈夫よ。すごく身体が温かくて、元気が湧いてくるの……」

 

 史奈さんは優しく微笑みながら、震える腕で夫の頭を愛おしそうにそっと抱きしめた。

 

 そのあまりにも美しく、温かい夫婦の光景を目の当たりにして、私の胸の奥からも熱いものがこみ上げてきた。

 

 隣で静かにそれを見守っていた蒼さんは、深く息をつき、その涼しげな瞳にうっすらと涙を浮かべながら、私に向かって深く頭を下げた。

 

「千歳……。君は、私と伊織にとって、最大の恩人だ。言葉では言い表せないほどの感謝を、ここに捧げる」


「千歳殿……! 私からも最大級の賛辞と感謝を……! あなたのおかげで史奈は救われた!」


 伊織さんも史奈さんから離れ、床に額を擦り合わせんばかりに深く頭を下げた。

 

「顔を上げてください、蒼さん、伊織さん。私はただ、目の前で苦しんでいる人に美味しいご飯を作って食べてもらっただけですから」

 

 私が照れくさそうに笑いながらそう答えると、蒼さんはふっと柔らかな笑みを浮かべ、それから少しだけ表情を引き締めて、伊織の方へと向き直った。

 

「さてと、伊織」

 

 その低く威厳に満ちた竜皇様の声音に、伊織さんは再びその場で深く頭を垂れた。

 

「はっ……! 竜皇様……!」

 

「妻の命が救われた今、改めて……先日の我が国に対する背任行為、そして税金着服という重大な罪について、お前の処遇を言い渡さなければならないな」

 

 部屋の空気が一瞬でピリリと引き締まった。


 伊織さんは血の気が引いた顔をしながらも、一切の弁解をせず、覚悟を決めたようにぎりっと歯を食いしばった。

 

「はい……どのような厳罰であっても、この命を以て、すべての罪を償う覚悟でございます。職を解かれ、追放されることになろうとも、文句は一切ございません……」

 

 伊織さんのその切実な覚悟の言葉を聞き、蒼さんは穏やかに首を横に振った。

 

「馬鹿者。誰がお前をクビにするなどと言った」

 

「……え……?」

 

 伊織さんは信じられないといった様子で、顔を上げて蒼さんの顔をポカンと見つめた。

 

「確かに、国の財産を私的な目的で持ち出したという罪の事実は消えない。だからこそ、その罪はしっかりと償ってもらう。だがな……伊織、お前を解任はせぬぞ」

 

「かいにん、は……せぬ……?」

 

「そうだ。これからも、私の元で、皇国の民のために身を粉にして働け。それが、我が君主としてお前に与える罰だ」

 

 蒼さんのその言葉の真意を理解した瞬間、伊織さんは言葉を失い、ただただ大粒の涙をボロボロと流し続けた。それは罰などではなく、最も慈悲深く、そして最も温かい『主君からの赦しと信頼の証』にほかならなかったからだ。

 

「これからも、よく働いてたっぷりと給金を得て、その稼ぎで史奈に栄養のある美味しいものをたくさん食べさせてやりなさい。それが、お前が果たすべき本当の償いだ」

 

「はっ……! はいっ……!! ありがとうございます……っ! この伊織、この命が尽きるまで、我が君主様のために、そして愛する妻のために、死ぬ気で働き抜きます……っ!」

 

 伊織さんは床に額を擦り付けるようにして、何度も、何度も、感謝の言葉を叫びながら頭を下げ続けた。

 

 寝台の上で起き上がりながら、その様子を温かい目で見ていた史奈さんも、「本当によかった……」とハンカチで涙を拭いながら微笑んでいた。

 

 

   §

 

 

 その後、伊織さんの自宅での劇的な一幕を終え、私は蒼さんとともに再び『やどりぎ』へと戻ってきた。

 

 中庭の木立の間に佇む木造店舗の軒先では、あたたかな赤提灯の光が、夜の帳のなかで優しく揺らめいている。

 

「ふう……なんだか、ものすごく濃い一日だったなぁ」

 

 私は厨房のカウンターに腰を下ろし、大きく背伸びをしながらふうっと深く息をついた。

 

 竜の皇族である蒼琳様としての顔、そして一人の友人としての蒼さんとしての顔。


 そして、愛する妻を救うために罪を犯した伊織さんと、その家族を温かく包み込んだ主君の慈悲。

 

 色々なことがあったけれど、結果として誰もが笑顔を取り戻し、命が救われたという最高の結末を迎えることができた。これ以上に料理人として嬉しいことなんて、他にあるだろうか。

 

「ちとせ、お疲れ様!」

 

 看板娘のミミちゃんが、温かいお茶の入った湯呑みを両手で持ってトコトコとやってきてくれた。その足元では、コユキが「キュッ」と鳴きながら尻尾をパタパタと振っている。

 

「ありがとう、ミミちゃん。今日も一日、本当に頑張ったね」

 

 私はその湯呑みを受け取り、一口飲んでから、ふっと満面の笑みを浮かべた。

 

 この『やどりぎ』という小さな居酒屋は、今日も明日も、そしてこれからも、たくさんの温かい縁と、美味しい料理の奇跡を乗せて、かくりよの夜空の下で優しく灯り続けるのだ。



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