第14話 香辛料が結ぶ新しい風と、小さな来訪者
風花亭の誇る広大で美しい中庭に『やどりぎ』の店舗を構えてから、数週間が経過した。
あの時、茶寮『紅の雫』の女将である紅音さんや、筆頭仲居の凛子さんと共に頭を悩ませ、宿泊客を惹きつけるための目玉商品として生み出した新メニュー──『特製スパイス香る欧風カレーライス』。
その選択は、私たちの想像を遥かに超えるほどの大成功を収めていた。
仕込みの段階から中庭の木立や本館の回廊に漂い始める、数十種類のスパイスが織りなす魅惑的でエキゾチックな香りは、それまで「泥臭い居酒屋」と色眼鏡で見ていた宿泊客たちの好奇心を、見事に、そして強烈に刺激したのだった。
最初の一歩を踏み出してくれたのは、やはり好奇心旺盛な若いあやかしたちや、新しいもの好きの旅人たちだった。
「なんだこの食欲をそそるスパイスの香りは……!」「こんな料理、かくりよのどこを探しても食べたことがない!」と、噂は瞬く間に口コミで広がり、夕暮れ時から夜の帳が下りる頃にかけて、『やどりぎ』の小さな木造店舗の周りには、連日長蛇の列ができるほどの賑わいを見せるようになった。
純白のふっくらとしたご飯を覆う、飴色の玉ねぎと厳選された肉の旨味が溶け込んだ濃厚なカレールー。一口食べれば、口いっぱいに広がる芳醇なスパイスの刺激と、後から追いかけてくる深いコクに、誰もが目を丸くして感嘆の声を漏らした。辛さの中に感じる野菜の自然な甘みと、肉のジューシーな脂が絶妙に絡み合い、「一度食べたら、明日もまた無性に食べたくなってしまう」という、まさに中毒性抜群の看板メニューとして定着していったのだ。
もちろん、風花亭に長年泊まり慣れているような、格式や伝統を重んじる年配の宿泊客や保守的な高位のあやかしたちの中には、いまだに「あんな下品な色の、泥のような食べ物になど近づくものか」「スパイスがどうのと言って、ただ刺激が強いだけのゲテモノに違いなあい」と、遠目から眉をひそめる者も少なくはなかった。
それでも、私は十分すぎるほどの手応えを感じていた。
「ふふっ、すごい大繁盛じゃない、千歳ちゃん! 館内のあちこちで『中庭のカレーが絶品だ』って、みんな夢中で噂し合ってるよ」
ある日の夜の営業前、仕込みを終えてホッと一息ついていた私のところに、筆頭仲居の凛子さんがひょっこりと顔を出し、嬉しそうにパチパチと手を叩いてくれた。
「はい! おかげさまで、毎日たくさんのお客様にいらしていただけて、本当に夢みたいです。紅音さんや凛子さんにあの時アドバイスをいただいたおかげですね」
「私たちはただ背中を押しただけだよ。頑張ったのは千歳ちゃん、あなた自身の腕と情熱だもの。格式を重んじる頑固なお客さまたちだって、これだけ館内で評判が広がれば、いつか絶対に自分の足で暖簾をくぐってみたくなるはずだよ。焦らず、ゆっくり浸透させていけばいいの」
凛子さんの温かい言葉に背中を押され、私の胸の内には穏やかな自信と、明日への活力が満ちあふれていた。
そう、まだ時間はかかるかもしれないけれど、いつかはこの風花亭のすべての人に『やどりぎ』の料理を愛してもらえる日が来るといいな。
私はカウンターの端をピカピカに磨き上げながら、心の中でそっとそう微笑んだのだった。
§
そんなふうに順風満帆となった平和で穏やかなある日の昼下がり。
夜の本格的な営業に向け、私は店内で一人、静かに仕込み作業に没頭していた。
外の世界はまだ明るい日差しに包まれており、風花亭の中庭には木々の葉擦れの音と、小川を流れる水のせせらぎだけが心地よく響いている。看板娘のミミちゃんは、お使いの買い出しで少しだけ出かけており、看板狐のコユキは私の足元で気持ちよさそうに丸くなってお昼寝中だった。
コンロの上では、じっくりと時間をかけて煮込む出汁の鍋が、コトコトとかわいい音を立てている。
私はまな板に向かい、シャキシャキとした新鮮な野菜の皮を丁寧に剥きながら、包丁を動かしていた。
その時だった。
カラン、と控えめで、どこかたどたどしい引き戸の音が店内に響いた。
「……おや?」
私は手を止め、ふと顔を上げた。
こんな昼下がりの営業時間外に、一体誰だろう。もしかしたら館内のスタッフさんかな、と思いながらカウンターのほうへ視線を向けると、そこに立っていたのは、思いがけない小さな訪問者だった。
「……あの……」
そこにいたのは、人間の年齢に換算すれば五歳か六歳くらいに見える幼い女の子だった。
彼女は大きめの着物をぶかぶかになりながらも健気に身にまとい、トコトコと心細そうな足取りで店の中へと入ってきた。その頭の上には、まだ幼さを残した愛らしい小さな角がちょこんと生えている。
その特徴的な角を見た瞬間、私の脳裏にあの日の森で出会った高貴な青年・蒼さんの姿が鮮やかに蘇った。漆黒の中に微かに青藍色の光を宿す、あの端正で気品のある角の面影が、この小さな女の子の額の生え際にも確かに宿っていたのだ。
女の子は大きなクリクリとした瞳をきょろきょろと動かしながら、目の前に広がる居酒屋の空間を珍しそうに見回し、それから私の顔を見上げて、おそるおそる小さな声で尋ねた。
「ここが……『やどりぎ』、なの……?」
そのあまりの可愛らしさと、どこか儚げで守ってあげたくなるような雰囲気に、私の母性本能が一撃で射抜かれたような衝撃を受けた。
私は慌てて包丁を置き、手を綺麗に拭きながら、彼女が驚かないようにゆっくりと優しくしゃがみ込んだ。
「そうだよ。ここは居酒屋『やどりぎ』だよ。お外はまだ明るい時間だけど、どうしたの? もしかして、道に迷っちゃった迷子ちゃんかな?」
私がにっこりと微笑みかけながら尋ねると、女の子はコクンと小さく頷いた。
「うん……気づいたら、はぐれちゃって……」
「そっかぁ、それは怖かったねぇ。お姉さんがお茶を入れてあげるから、まずはそこに座って落ち着いてごらん? それと、あなたのお名前はなんていうの?」
私がカウンターの特等席の椅子をそっと引いて勧めると、女の子はおそるおそる腰を下ろし、小さな両手を膝の上にきちんと揃えて答えてくれた。
「……藍那……。あたしの名前は、藍那、なの」
「藍那ちゃんね。すごく可愛い素敵な名前だね。私は更科千歳、ちとせって呼んでね」
「ちとせ……おねえちゃん……」
藍那ちゃんは「ちとせ」と私の名前を一生懸命に舌を回しながら呟き、少しだけ緊張が解けたのか、ほっとしたような表情を浮かべた。
「ねえ、藍那ちゃん。一人でここに迷い込んじゃったってことは、ご両親や、一緒に来たお友達とはぐれちゃったのかな?」
「ううん、お父様とお母様はおうちにいるの。今日はね、お兄様と一緒に、この街のお祭りの準備を見にここまで遊びに来たの。でも、途中でお兄様がちょっと待っててって言って別のところに行っちゃって、待ってたんだけど全然戻ってこなくって……それで歩いてたら、このお店の美味しそうな匂いがしてきて……」
藍那ちゃんはそこまで言うと、少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめ、小さな声でぽつりと言った。
「あのね……すっごく歩き疲れちゃって、お腹もペコペコなの。あのね、甘いお菓子……食べたいな……」
甘いお菓子が食べたい、と言いながら、彼女は小さな指先で自分の服の裾をキュッとつまんだ。その健気で愛らしいおねだりに、私は完全にメロメロになってしまった。
「甘いお菓子ね。任せて、藍那ちゃんに一番美味しい特製スイーツを作ってあげるからね」
私は優しい笑みを浮かべ、神恵堂のシステムで仕入れたばかりの甘味の材料を頭に思い浮かべた。今の『やどりぎ』で出せる最高の甘味といえば、あの冷たくて甘い和のデザートだ。
「うちのお店ね、今、『クリームあんみつ』っていうすごく美味しくて甘いデザートを出しているの。冷たくて、モチモチの白玉と、甘い小豆の餡子に、フルーツがたくさんのってるんだよ。それに、冷たいバニラアイスクリームもトッピングできるの。それを食べたら、疲れも一気に吹き飛んじゃうよ。どうかな、食べてみる?」
「くりーむあんみつ……? 聞いたことないけど……絶対おいしそう……!」
藍那ちゃんの青色の瞳が、キラキラと星のように輝き始めた。
「よし、じゃあお姉さんが特製の特大サイズを作っちゃうからね。少しだけ待っててね、藍那ちゃん」
私が立ち上がり、ウキウキとした足取りで厨房に入りかけたちょうどその時だった。
「──ここにいたのか、藍那」
背後から、低く聞き覚えのある優雅な声音が店内に響いた。
はっとして振り返ると、そこには見事な角を湛えた端正な青年──あの森で出会い、風花亭でも親しく言葉を交わしていた蒼さんが、少し息を切らせながら立っていた。
「あ、蒼さん……!」
「千歳、すまないね。うちの我が儘な妹が、迷い込んで君の迷惑になっていなかったかい?」
「えっ……? い、妹さん……!?」
私の驚愕の声をよそに、蒼さんは藍那ちゃんの隣へと歩み寄り、その頭を優しく、愛おしそうにポンポンと撫でた。
「お兄様……っ!」
藍那ちゃんはぴょこんと嬉しそうに飛び跳ね、蒼さんの袖をぎゅっと掴んだ。
「勝手にあちこち歩き回るなって言っただろう。心配したんだぞ」
「ごめんなさい、お兄様……だって、すごくいい匂いがしたんだもん……それに、ちとせおねえちゃんが、すっごく美味しい甘いお菓子を作ってくれるって……!」
藍那ちゃんが上を向いてそう訴えると、蒼さんは苦笑いを浮かべながら、私の方へと視線を向けた。
「そういうわけだ、千歳。この子は私の妹の藍那だよ。もっとも、私とは母が違う異母兄妹なのだがね」
蒼さんの言葉に、私はようやく納得がいった。どうりで、あの涼しげな目元や、凛とした気品のある雰囲気がそっくりなわけだ。
「そうだったんですね……! 藍那ちゃん、すごくお行儀が良くて可愛い妹さんですね。迷子になって一時はどうなるかと思いましたけど、無事で本当によかったぁ」
「心配をかけてすまなかったね、千歳。それで、先ほど藍那が言っていた『甘いお菓子』というのは……?」
蒼さんがどこか興味深げな様子で尋ねる。
「あ、ちょうど今から作ろうと思っていたところなんです! 藍那ちゃん、すごくお腹を空かせて歩き疲れていたみたいですし、せっかくですから、蒼さんもご一緒にどうですか?」
私の提案に、蒼さんは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「そうだな……それじゃあ、私も可愛い妹に付き合って、ご相伴にあずかるとしようか」
それから私は、厨房に戻り、手際よく『クリームあんみつ』の調理に取り掛かった。
綺麗に茹で上げて冷水でキュッと締めたツルツル食感の寒天を器の底に敷き詰め、その上に上品な甘さの自家製小豆餡をたっぷりと添える。さらに、サイコロ状に切った色鮮やかなフルーツや、白玉粉から練り上げて茹で上げたモチモチの白玉団子を美しくトッピングしていく。
仕上げに、冷たく冷えた濃厚なバニラアイスクリームを中央にぽんとのせ、黒蜜を贅沢にとろりと回しかければ、見ているだけで心がとろけそうな『特製クリームあんみつ』の完成だ。
「お待たせしました! 『特製クリームあんみつ』になります!」
私が笑顔でお盆を運び、二人の目の前にそっと差し出すと、藍那ちゃんは「わぁぁ……っ!」と両手を合わせて歓声を上げた。
「すごーい! 宝石みたいにキラキラしてて、とっても綺麗……!」
「おや、これは……なかなかに凝ったデザートだね」
蒼さんも、その美しく盛り付けられた甘味を前にして、感嘆の声を漏らした。
「どうぞ、召し上がってくださいね!」
私の合図に、藍那ちゃんは待ちきれないといった様子でスプーンを手に取り、真っ直ぐにバニラアイスとあんこが絡んだ部分をすくい上げて口へと運んだ。
その瞬間、藍那ちゃんの瞳が限界まで大きく見開かれた。
「──っ……! おいし……いっ……!」
彼女は両手で自分のほっぺたをむぎゅっと押さえ、その場で体をくねらせて喜んだ。
「すっごく幸せな味がするの……! お兄様、このお菓子とても美味しいよ!」
藍那ちゃんに促され、蒼さんもスプーンで一口だけあんみつをすくい、口に含んだ。
その端正な顔立ちに、わずかに驚きの光が走る。
「ほう……。甘みはしっかりと感じられるのに、後味が驚くほど上品でさっぱりとしている。寒天の食感と黒蜜のコク、そして冷たいアイスの調和が実に見事だ。アイスはまだかくりよではほとんど出回っていない貴重な甘味だが……なるほど、藍那がこれほど夢中になるのも無理はないな。実に美味いよ、千歳」
蒼さんが穏やかな微笑みを浮かべてそう褒めてくれると、私の胸の内で誇らしさと嬉しさがフワッと広がった。
「ありがとうございます! 気に入っていただけてよかったです」
藍那ちゃんは夢中になってスプーンを動かし、あっという間に器の中を綺麗に平らげてしまった。すっかりお腹も心も満たされたのか、彼女は満足そうに「ふぅ……おいしかったぁ……」と小さく息をつき、なんだか急にウトウトとし始めた。どうやら、さっきまでの緊張や疲れが一気に押し寄せてきたらしい。
蒼さんはそんな妹の様子を見て優しく微笑み、彼女をそっと自分の腕の中に抱き上げた。
「すまないね、千歳。すっかり眠くなってしまったようだ。このまま城まで連れて帰ることにしよう」
「はい、お疲れ様でした。藍那ちゃん、またいつでもお店に遊びに来てね!」
私が手を振ると、うとうとと微睡んでいた藍那ちゃんは、小さく「うん……また、くる……おねえちゃん、ごちそうさま……」と掠れた声を漏らしながら、そのまま蒼さんの胸の中でスヤスヤと平和な寝息を立て始めた。
蒼さんは妹を優しく背負い直すと、私に向かって静かに一礼した。
「それじゃあ、私はこれで失礼するよ。ご馳走様、千歳。実に素晴らしい時間だった」
「はい、気をつけてお帰りくださいね、蒼さん!」
藍那ちゃんを連れた蒼さんが藍色の暖簾をくぐり、静かに店をあとにしていく。その微笑ましい兄妹の背中を見送りながら、私はふうっと温かい息を吐き出した。
……本当に、穏やかで素敵なひとときだったな。
そんな風に、私が心地よい余韻に浸っていた、その時のことだった。
ガチャリ、と店の引き戸が再び乱暴に開け放たれた。
「ここか、蒼琳様をたぶらかせている不届き者の店というのは!」
店内に響き渡ったのは、怒気に満ちた鋭い男性の声だった。
ビクリと肩を震わせ、私は慌てて声の主の方へと視線を向けた。
そこに立っていたのは、漆黒の官僚風の衣服をきちっと纏い、頭の上には一対の黒く鋭い角を生やした、幾分神経質そうな顔立ちの青年だった。その眼鏡の奥から放たれる瞳は、氷のように冷たく、私の全身を射抜くように睨みつけている。
「……あなたは……?」
私が戸惑いながら声を絞り出すと、その角の生えた青年は、冷笑を浮かべながら一歩、また一歩とカウンターへと近づいてきた。
「私は蒼琳様の側近を務める者だ。名前は伊織と言う」
伊織と名乗ったその青年は、私を値踏みするかのように冷ややかに見下ろした。
「城の重要な役務にある我が主を、このような得体の知れない居酒屋に引き込み、怪しげな料理で骨抜きにしているというのは、貴様だな」
そのトゲのある、敵意むき出しの言葉に、私の胸の内でピキッと小さな怒りの火花が散った。
「ちょっと待ってください。私はただ、普通に料理をお出ししていただけで、誰も引き込んだりなんてしていません!」
私の真っ直ぐな反論を聞いても、伊織さんの冷ややかな視線は微動だにしなかった。彼はさらに一歩踏み込み、威圧的な声音で言い放つ。
「言い訳は無用だ。蒼琳様は優しきお方ゆえ、貴様のような人間の小賢しい手口に気付かれないだけだ。側近としても、これ以上、我が主をたぶらかすような真似をされては非常に困る」
伊織さんのその侮蔑に満ちた言葉は、私の料理人としての誇りと、ここで築いてきた大切な日常への姿勢を真っ向から踏みにじるものだった。
怒りで心臓が早鐘を打つ。けれど、ここで感情的に言い返しては、お店の品位に関わる。
私はしっかりと背筋を伸ばし、怯むことなく伊織さんの冷たい瞳を真正面から見据えた。
「たぶらかしているなどと言われる筋合いはありません。私はただ、目の前に来てくださったお客様に、心からの最高のおもてなしをしているだけです。それが私の料理人としての誇りですから!」
私の毅然とした態度に、伊織さんはわずかに眉をひそめ、さらに険しい表情を浮かべた。
二人の間の空気がピリピリと張り詰め、一触即発の緊迫した沈黙が店内に重く垂れ込める。
しばらくそのまま睨み合っていたけれど、伊織さんから耐えかねたようにふっと視線を逸らし、「とにかく、二度と我が主をたぶらかせることのなきよう。次はないと思え」そう言い残すと、荒い音を立てて店を出て行った。




