第13話 試練と新たな一手
風花亭の誇る広大で美しい中庭に、木造建築の居酒屋『やどりぎ』がその店舗を構えてから、いくつかの穏やかな日数が過ぎ去っていった。
夕暮れの茜色から深い宵闇へと移り変わる空の下、中庭の木立の間にぽっかりと浮かび上がるあたたかな赤提灯の光と藍色の暖簾は、この庭園の新しい風物詩となっていた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
毎晩の営業が始まれば、路地裏の店舗時代からの熱心な常連客である門兵の迅さんや翔琉さん、そして時には麗しの九尾の女将・玉藻さんといった顔ぶれが、変わらず足を運んでくれる。
彼らは「この中庭の雰囲気は最高だな」「どこに店を移そうが、千歳の作る料理の美味さは変わらねぇや」と、いつものように豪快にビールや冷酒を傾け、温かい笑い声を響かせてくれていた。
それは料理人としてこの上なく嬉しいことだし、心からの支えだった。
けれど、問題はその先──本来のターゲットであるはずの、『風花亭』に宿泊している一般の宿泊客たちの足が、一向に伸びてこなかったことだった。
本館のロビーや中庭の飛び石のあたりを通りがかる若い宿泊客たちは、『やどりぎ』の佇まいを見て「おや、こんなところに面白そうな飲み屋ができたんだ」「赤提灯が灯っていて風流じゃないか」と興味を持って足を止めてくれる。そんな少し冒険心のある旅人たちは、その物珍しさに惹かれてちらほらと暖簾をくぐってきてくれるのだが、数が圧倒的に少なかった。
そして、風花亭のメインの宿泊客層である、長年この宿を愛用している保守的な高位のあやかしや、格式高い懐石料理を心から楽しみにやってくる年配の宿泊客たちに至っては、店先を遠目に見るだけで、「ふん、老舗の庭に似つかわしくない、泥臭い居酒屋だな」「あんなところで酒を飲んで騒ぐなど、風雅の欠片もない」といった冷ややかな視線を向け、そのまま本館の静かな個室や茶寮へと足早に通り過ぎていってしまうのだ。
やっぱり、何百年もの伝統と格式を誇る高級老舗宿のなかで、一介の居酒屋がその存在感を定着させるというのは、想像以上にハードルが高いことなんだ……。
私は仕込みの合間にふとため息をつき、カウンターの隅でしょんぼりとうなだれていた。
「ちとせ、そんなに落ち込まないで……! あたし、もっと元気に呼び込みのお手伝いしてくる!」
看板娘のミミちゃんが心配そうに私を覗き込み、頭の上の三角の耳をペタリと伏せながら元気づけようとしてくれる。その足元では、看板狐のコユキも「キュウ……」と切なげに鳴きながら私の足首に自分の体をスリと擦り合わせた。
「ありがとう、ミミちゃん。私の力不足で……。せっかく大旦那の夜光さんがこんな素晴らしい場所を用意してくれたのに、宿のお客さんの心を掴みきれなくて……」
私の言葉に、ミミちゃんはぎゅっと小さな拳を握りしめた。
「ううん、そんなことない! ちとせのご飯は世界一美味しいもん! まだ皆、その美味しさに気づいてないだけなんだから!」
ミミちゃんの健気で真っ直ぐな励ましに、私は胸が熱くなるのを感じた。
そうだ、ここで落ち込んでいる暇なんてない。何がダメなのか、どうすればもっと足を向けてもらえるのかを考えて、新しい一手を探さなければ。
そう決意を新たにしたちょうどその日の昼下がり、私は仕込みの区切りをつけ、少しだけ息抜きを兼ねて、中庭の木漏れ日の中を歩いていた。
向かったのは、風花亭の最上階にある趣深い茶寮『紅の雫』だった。
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障子戸を静かに開けて茶寮『紅の雫』の中へ足を踏み入れると、そこには外の喧騒が嘘のように穏やかで、時がゆったりと流れるような静謐な空間が広がっていた。
アンニュイな色気と妖艶な美しさを纏う赤髪の女性──茶寮の女将である紅音さんが、磨き上げられた木目のカウンターの向こう側で、一人静かに茶器の手入れをしていた。
「あら、いらっしゃい。千歳ちゃんじゃない。どうしたの、こんな昼下がりに。仕込みはもう終わったのかしら?」
紅音さんは私を見つけると、ふわりと柔らかく優雅な笑みを浮かべた。
そのすぐ後ろから、「お邪魔しまーす!」と軽やかな足取りでついてきたのは、筆頭仲居の凛子さんだった。彼女もちょうど午後の休憩時間だったらしく、私と一緒に息抜きをしようとついてきてくれたのだ。
「紅音さん、こんにちは。実はちょっと、お話ししたいことがあって……」
私が少し申し訳なさそうな顔をしながらカウンターの席に腰を下ろすと、凛子さんもその隣にコロンと軽快に座った。
「ふふ、顔を見ればすぐに分かるわよ。最近の『やどりぎ』の客足についてでしょう?」
カウンターの向こうで、紅音さんは手元の布巾を置いて、まるで私の心をすべて見透かしているかのように優しく微笑んだ。
「さすが紅音さん……。その通りなんです。常連の皆様は相変わらず温かく通ってくださるんですけど、肝心の風花亭の宿泊客の皆様、特に格式を重んじるようなお客様たちが、なかなか中庭の『やどりぎ』に足を向けてくれなくて……。若い方々は物珍しさでたまに来てくださるんですけど、それだけではどうしても限界があって……私、どうしたらいいものか、すっかり悩んじゃって……」
私がテーブルの上で両手を組みながらトボトボと悩みを打ち明けると、凛子さんは「あー、やっぱりそこ壁になってるよねえ」と大きく頷きながら、自分の前に出されたお冷やのグラスをコツンと持ち上げた。
「私もね、仲居たちのまとめ役として、館内のあちこちでお客さんの様子を見聞きしているんだけどさ。やっぱり長年この『風花亭』を定宿にしてくれているようなお上品なお客さまたちからすると、『中庭の居酒屋なんて、若い人向けの賑やかな遊び場でしょ? 私たちのいくような場所じゃないわ』っていう先入観がどうしても強くてねぇ」
凛子さんはそう言って、やれやれといったふうに小さく肩をすくめた。
「私もね、ここに立って『中庭の「やどりぎ」というお店は、ただの居酒屋ではなく、我が宿が誇る最高の料理人が営む素晴らしい場所ですよ』って、一生懸命宣伝してあげてるんだけどねえ……」
紅音さんは首を横に振りながら、少し困ったような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、紅音さん……! そうやって宣伝してくださっているお気持ちだけでも、本当に嬉しいです……」
「いいのよ、事実なんだから。ただ、人々の長年染みついた先入観やプライドっていうのは、言葉だけで簡単に覆せるほど単純なものじゃないの。だからこそ、頭ごなしに『来てください』って言うよりも、お客様の方から『どうしても一度、自分の足で入ってみたい』と思わせるような、何か強烈なきっかけ……つまり、『これ目当てに中庭へ行きたい』と思わせるような、圧倒的な魅力を持つ【目玉商品】が必要なんじゃないかしらね」
紅音さんのその的確すぎるアドバイスに、私はハッと息を呑んだ。
「目玉商品……ですか」
「そうよ」
まだ昼下がりの時間帯であるため、この茶寮『紅の雫』で本格的なお酒の提供は夜の営業まで控えている。その代わり、現在は特製の自家製フルーツジュースやハーブティーを楽しめる時間帯だった。
紅音さんはカウンターの冷蔵庫から、今日仕入れたばかりという鮮やかな紫色をした『特製ぶどうジュース』を取り出し、私と凛子さんのグラスにトクトクと上品に注いでくれた。
「はい、まずはこれを飲んで頭を冷やしなさい。冷たくて甘酸っぱくて、今のあなたの焦った気持ちをスッとクールダウンしてくれるはずだから」
「ありがとうございます……いただきます」
私は差し出された涼やかなグラスを受け取り、ひんやりと冷えたぶどうジュースをそっと口に含んだ。
芳醇なぶどうの濃厚な甘みと、爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、モヤモヤしていた頭の芯がスーッとクリアになっていくのが分かる。
「ぷはぁ〜っ、生き返るぅ……!」
隣で同じようにジュースを飲み干した凛子さんが、満足そうに息をついた。
「ねえ、紅音さんの言う通りだと思わない? いつもの焼き鳥や煮込み料理も最高に美味しいけれど、それだけだと『どこにでもある美味しい居酒屋』の枠を出られないのかもしれない。『風花亭』に泊まるような目の肥えたお客さまたちの虚栄心や好奇心を良い意味で刺激して、『何だあれは!』って思わず二度見しちゃうような、強烈なインパクトと、それでいて忘れられない美味しさを兼ね備えた、看板メニューが絶対に必要なんだよ」
凛子さんのその言葉に、私の料理人としての血が、ふつふつと熱くたぎり始めた。
そうだ。ただ「美味しい料理を出しているから来てください」と受動的に待っているだけではダメなんだ。この『風花亭』の厳格な空気感や、格式高い常連客たちの凝り固まった先入観を、一撃で打ち破るような、圧倒的な存在感を放つ新メニュー。
「目玉商品……。『やどりぎ』の新しい看板になるような、特別な一品……」
私はグラスをテーブルに置き、真剣な表情で考え込んだ。
頭の中で、これまでに培った料理の引き出しや、神恵堂のシステムで扱えるようになった様々な食材の数々を猛烈なスピードでめくっていく。
高級懐石にはない、けれど誰が食べてもその美味しさに魂を奪われてしまうような、最高の料理……。
その時、私の脳裏にふと、前世の記憶の片隅に眠っていた、あの誰もが知る国民的なメニューの姿が鮮やかに蘇ってきた。
幾重ものスパイスの芳醇な香り、煮込まれた野菜や肉のとろけるような旨味、そして純白のご飯を包み込む黄金色のルー。
「……あ」
私は思わず小さな声を漏らした。
「どうしたの、千歳ちゃん? 何か良いアイデアでも思い浮かんだ?」
私のただならぬ気配を察知したのか、凛子さんが身を乗り出して尋ねる。カウンターの向こうでグラスを拭いていた紅音さんも、興味津々な瞳をこちらに向けた。
「あの……これまでの和食や居酒屋の定番とは少し違うんですけど、私が前世の故郷でよく作っていた、とっておきの一品があるんです」
「ほお……? 前世の故郷の料理、ね。それは一体どんなものなの?」
「はい! それはですね……『カレーライス』っていうんですけど……」
「かれーらいす……?」
紅音さんと凛子さんが、揃って不思議そうに首をかしげた。かくりよの世界では全く耳慣れないその響きに、二人は顔を見合わせる。
「聞いたことがない名前ね。それはいったい、どんなお料理なの?」
「はい! カレーライスっていうのはですね……何十種類もの多様なスパイスや香辛料をじっくりと調合し、玉ねぎが飴色になるまで炒めて、お肉や野菜と一緒に何時間もコトコト煮込んで作る、それはもう香りが豊かで、スパイシーな煮込み料理なんです!」
私の説明に、凛子さんは目をパチパチと瞬かせた。
「スパイスを何十種類も……? それって、薬膳料理みたいなものかしら?」
「薬膳に近いかもしれません! クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン……色とりどりのスパイスが絶妙なバランスで組み合わさることで、食欲をそそる強烈な香りが立ち上るんです。それを、炊き立てのふっくらとした白いご飯の上にかけて食べるんですよ」
私が熱を込めて語ると、紅音さんは艶やかな黒髪を揺らしながら、興味深そうに微笑んだ。
「ふふ……なんだか、話を聞いているだけで、お腹の底からじわっと熱くなってくるような、不思議な魅力のあるお料理ね。でも、『かくりよ』のあやかしたちの間では、そういうスパイスをふんだんに使った辛い料理って、あまり馴染みがないかもしれないわね」
「そうなんです。あやかしの世界では、出汁の旨味や素材の味をそのまま活かした上品な和食や、甘辛い味付けが主流ですから、こうした『スパイシーで辛い料理』というのは、ある意味ですごい冒険になるかもしれません。でも……!」
私は両手をギュッと握りしめ、二人の目をまっすぐに見据えた。
「だからこそ、この『カレーライス』がいいと思うんです! 上品でお高くとまっている宿泊客の皆様の鼻腔を、あの圧倒的なスパイスの香りで強制的にノックアウトして、『何だこの魅惑的な匂いは!』って中庭へ引きずり出す……。そんな、今までの『風花亭』にはなかった全く新しい衝撃を、この一皿で起こしてみたいんです!」
私のその熱意に満ちた提案を聞いた瞬間、凛子さんは「いいねぇそれ!」と大興奮で手を叩いた。
「最高じゃない! 上品な懐石ばかり食べていて少し刺激に飢えているような若い客層はもちろん、格式高いお年寄りたちだって、その芳醇な香りを嗅いだら、絶対に好奇心を抑えきれなくなって暖簾をくぐりたくなるはずだよ! 刺激的で、すごく面白い試みだと思う!」
紅音さんも、優雅に口元に手を当てながら、楽しそうに微笑んだ。
「ええ、私も賛成よ。あの静かな中庭に、そんなスパイシーで魅惑的な香りが漂ってきたら、それだけで最高の宣伝になるわね。『やどりぎ』の新しい目玉商品としては、これ以上ない選択だわ」
二人の心強い後押しを受け、私の胸の内でモヤモヤと燻っていた不安や焦りは、すっかり綺麗に吹き飛んでいた。
「ありがとうございます! 私、絶対に最高のカレーライスを作ってみせます!」
私が勢いよく立ち上がると、凛子さんは満足そうに頷きながら笑顔を向けた。
「その意気だよ、千歳ちゃん! 私たちも、館内でさりげなく『中庭で何やらとんでもなく美味しい香りの新しい名物が始まるらしいよ』って噂を流してあげるからね」
「ふふ、まだ始まったばかりの挑戦だものね。これからよ、千歳ちゃん。あなたのその情熱があれば、どんな壁だってきっと乗り越えられるわ」
紅音さんの温かいエールに背中を押され、私は心からの感謝を告げると、すぐに仕込みの残る自分の店へと駆け足で戻っていった。
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夕暮れの茜色が再び中庭の木々を染め始める頃。
『やどりぎ』の厨房に立った私の胸中には、かつてないほどの高揚感と創作意欲が満ちあふれていた。
神恵堂のシステムを開き、極上のスパイスの数々と、じっくりと炒めた玉ねぎのペースト、そして煮込み用の最上級の牛肉を次々と調達していく。
トントン、トントン……と、心地よい包丁の音が、静まり返った厨房に響き渡る。
鍋に火を入れ、スパイスを油でじっくりと炒め上げた瞬間、キッチンいっぱいに、これまでにこの皇都の誰も嗅いだことのないような、芳醇でエキゾチックな香辛料の香りが一気に立ち込めた。
その香りは、『風花亭』の美しい庭園の風に乗って、本館の回廊や客室の近くへとゆっくりと流れ出していく。
「ふふ……さあ、どうなるかな」
私は木製のしゃもじでルーを優しく混ぜ合わせながら、思わず口元に笑みを浮かべた。
上品で静寂に包まれた高級老舗宿『風花亭』の夜空の下に、今、世界で最もスパイシーで新しい風が吹き荒れようとしていた。




