第17話 石と鉄の都市と、719号室の魔法使い
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
チリン、と。 いや、違う。 そんな音は、ここにはない。
石畳の上に荷物を置き、セレンはしばらく立ち尽くした。 目の前に広がっているのは、空を食い尽くすような高さの尖塔だった。石と鉄、そして魔法で積み上げられた、終わりの見えない壁。馬車の車輪が石畳を叩く重い音が絶え間なく響き、商人の怒鳴り声が重なり、どこかの建物の奥から魔導機関の低く乾いた唸りが漏れてくる。
それだけだった。 森の朝に聴こえていたものが、何一つ、ない。
若葉が背伸びをする声も、土の下を流れる水脈の囁きも、苔が水を飲む湿った満足感も。この都市の空気にはそれらが全く混じっていなくて、代わりに、煙と油と石の乾いた匂いだけが鼻の奥に張りついてくる。 足元に意識を向けると、石畳の下から声は届いた。 でも、その声は。
『重い』 『急げ』 『削れる』
ひどく疲れた、諦めきったような声ばかりだった。 セレンは硬い石畳を踏みしめながら、村を出る時のシオンの言葉を思い出した。 ――都市の石たちはね、人の都合で長いこと働かされ続けてるんだ。
あの時は、なんとなくしか分からなかった。 けれど、今なら分かる。この、息が詰まるような感じが、そういうことなのだ。
魔法学校の校舎に繋がる女子寮は、堅牢な石造りの建物だった。分厚い壁。見上げるほど高い天井。どこを見渡しても立派には違いないけれど、木の温もりはどこにもない。 廊下を歩くたびに、石がしずかに呼吸しているのが分かった。 でもその呼吸は、故郷の森のそれとは全く質が違う。森の石が深く眠るような静けさと重みを持っているのに対して、ここの石は、ずっと何かを支え続け、すり減り、疲れたような浅い息をしていた。
階段を上り、廊下の突き当たり。 冷たい木製の扉に、小さな金属の札がついていた。 そこに刻まれた数字は『719』。
セレンは、扉の前でもう一度だけ深呼吸をした。 森の匂いは、もうしない。乾いた埃と、冷たい石の匂いだけが肺を満たす。 意を決して、扉を開けた。
最初に目に入ったのは、空中を漂う荷物だった。 銀色の長い髪を持つ少女が、幾何学の魔法陣を複数同時に展開しながら、荷物を一つずつ棚へ収めていた。 魔法陣の線は、定規で引いたように正確だった。光の膨らみも、揺らぎも、歪みも一切ない。荷物が棚に収まるたびに、魔法陣がすっと消える。無駄がなく、美しく、そしてひどく冷たかった。
「そこ、邪魔」 振り向きもせずに言われた。声の温度も、彼女の魔法と同じくらい冷ややかだった。
「ご、ごめんなさい」 セレンが慌てて横に避けると、少女がちらりとこちらを見る。 「リリア。北方魔導区出身よ」 それだけ言って、また棚の方へ向き直る。
次の瞬間、背中を何かがどつんと叩いた。 「お、新入りか!」 「ひゃっ」 振り返ると、赤茶色の髪を雑に結んだ少女が、豪快な笑顔でそこに立っていた。背が高く、腕が日焼けしている。距離が近いし、声が大きい。
「アタシはカヤ! 南の火山地帯から来た! よろしくな!」 「あ、うん……よろしく」 「都会って空気まずいよなぁ! なんか息苦しくないか?」 「……少し」 「だよな!」
カヤは笑いながら、棚へ向かって荷物を放り込もうとした。次の瞬間、ぼわっと強烈な火花が散る。 「熱っ」 「ちょっとカヤ! 部屋を燃やす気なの!?」 「悪い悪い!」 「笑い事じゃないわよ!」
二人が口論を始める。セレンはそのやり取りを眺めながら、部屋の隅へそっと視線を向けた。 小さな人影が、びくっと肩を震わせていた。 長い前髪で目元を隠した少女が、石壁に背中をくっつけて、大事そうに鞄を抱えている。鞄の口から、磨かれた石や鉱石がちらりと顔を出していた。
「……メイ、です」 声は小さくて、それだけで終わった。すぐに俯いてしまう。
セレンは、その鞄の中の石たちの方へそっと意識を向けた。 穏やかだった。 怖がっていない。安心している。この子のそばで、ゆっくり息をしている。 それだけで、セレンは少し安心した。石に好かれている人が、悪い人であるはずがないと、なんとなくと思った。
その夜、セレンは暗い天井を見ながら、目を開けたまま横になっていた。 明日から、いよいよ授業が始まる。村であらかじめ配られていた教本をめくってみても、そこに並んでいるのは難しい数式や理論ばかりで、半分も頭に入ってこなかった。昼間に見たリリアの、あの完璧で美しい魔法陣が脳裏を掠める。きっとこの学校では、ああいう「正確さ」がすべてなのだろう。そう思った瞬間、なぜか自分の不器用さを突きつけられたような気がして、胸がひどく締め付けられた。
窓辺に置いた鉢植えへ手を伸ばす。 村を出る時、シオンがそっと持たせてくれたものだった。 指先が葉に触れると、か細い声が届いた。 『だいじょうぶ?』
セレンは鼻の奥がつんとした。 「うん」 その一言だけを、声に出すことができた。
消灯時間を過ぎた頃、カヤが魔光石の前に立った。部屋を温める当番が回ってきたのだ。 「よーし、一気にあったかくするぞ!」 ぼわっ、と強烈な熱が広がった。
「熱い! 加減しなさいよ!」 「寒いよりマシだろ!」 「だから制御を——」 リリアが氷の制御術式を展開する。相反する二つの魔力がぶつかり合った瞬間、魔光石が激しく明滅した。バチバチッ。
『いたい』 『やめて』 『こわれる』
セレンにだけ、悲鳴が聴こえた。 ぷつん、と光が消える。 部屋が急に暗くなった。窓から差し込む夜の光だけになり、吐く息が白く見えるほど、空気が冷え切っていた。
「あーあ……」 背後のベッドで、カヤが呆れたような声を出す。 「完全に壊れたわね」
重い沈黙の中で、セレンはそっと前へ出た。 「あの。私、やってみてもいい?」 「無理よ」 リリアが即座に切り捨てる。 「内部流線が焼き切れてるもの。専門の技術がないと——」
だが、セレンはもう魔光石に触れていた。 冷たく硬い石の手触り。その奥から、怯えた声が聴こえた。無理に魔力を押し込まれ、流れを歪められ、壊れかけて縮こまっている声だった。 セレンは両手で、その石をそっと包み込む。
「ごめんね」 声に出したのは、本当に静かな呟きだった。 「痛かったね。びっくりしたよね」
魔力は押し込まなかった。 ただ、暗がりで震えて怖がっている誰かをななだめるみたいに、語りかける。自分の体温を、少しだけ分けるように。 「もう大丈夫だよ。……少しだけ、温かさを分けてくれる?」
かすかに。 トクン、と小さな脈動が、手のひらに返ってきた。 部屋の隅で、メイが息を呑む音がした。
魔光石の奥で、弱々しかった光が、少しずつ灯り始める。 やがて、ぽわぁ……と、柔らかな橙色の光が部屋全体を包み込んだ。 春の日だまりみたいな温かさだった。熱すぎず、痛くもなく、冷え切っていた空気をじんわりと溶かしていく。石が、ほっと安心したように息を吐くのが分かった。
「……嘘」 リリアが呆然と呟く。 「流線は切れてたはずなのに……」 「すっげぇ……」 カヤも目を丸くしている。 メイは魔光石を見つめたまま、小さな声で言った。 「……喜んでる」
セレンは困ったように笑った。 「難しいことは分からないの。ただ……お願いしただけ」
三人は、しばらく何も言わなかった。 昼間に口論が続いていた後の沈黙とは、質が全然違った。 橙色の光が、四人の顔を温かく照らしていた。
その夜を境に、719号室の空気が少しずつ変わり始めた。理論しか信じていなかったリリアが、セレンの感覚を「面白い」と言うようになった。カヤが物に触れる時、前より少しだけ力を緩めるようになった。石を愛するメイは、セレンの隣で小さく笑うことが増えた。
ただしセレンは、まだ知らなかった。 翌日から始まる授業が、村での魔法とはまるで別の「常識」で動いていることを。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




