第1話:世界で一番、うるさくて静かな落ちこぼれ
はじめまして。
『神耳の落ちこぼれ
〜世界の声が聴こえる少女は、魔法だけが下手だった〜』
を読んでいただきありがとうございます。
自然の声を聴く力が魔法の才能に直結する世界で、主人公セレンだけは誰よりも世界の声が聴こえるのに、魔法だけが上手く使えません。
これはそんな落ちこぼれ少女が、自分だけのやり方で世界と向き合い、仲間と出会いながら成長していく物語です。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
チリン、と。
朝霧の向こうで、目覚めたばかりの若葉が背伸びをする音がした。
足元の土の下では、冷たい水脈が「おはよう」と囁きながら、ゆったりと流れていく。
一キロ先の蟻が石を運ぶ足音。地中深くで岩が数ミリずれる、重い息。西の山の斜面で、苔がゆっくりと水を飲む、湿った満足感。
それらが全部、同時に。
九歳の少女・セレンの耳には、世界が奏でるそんな声が、いつも痛いほど鮮明に聴こえていた。
鬱蒼と茂る木々に抱かれた魔族の集落。セレンは頭上の葉に乗った朝露を狙い、両手の人差し指を天へ突き出した。風の魔力でそっと包み込み、手元の硝子瓶にぽとんと落とすだけの、子供でもできる基礎魔法だ。
ただし問題があった。
魔力を集めようとした瞬間、足元の土の中で、小さな幼虫が「引っ張らないで」と訴えてくる声が聴こえてしまった。それから気を取られた次の刹那、枝の上でバランスを崩しかけた雀の『落ちちゃう!』という焦った声が鼓膜に飛び込んできて、そして――
――ボフンッ。
気の抜けた音と共に、セレンの指先から飛び出したのは爽やかな風ではなく、なぜか少量の「土」だった。それが頭上の葉っぱに直撃し、弾かれた朝露と泥が混ざって、顔面にビシャッと降り注ぐ。
「ぶふっ! げほっ、また間違えたぁ……!」
顔を真っ黒にしてむせるセレンを見て、広場で朝の作業をしていた大人たちが、クスクスと笑い声を漏らした。
「ふふふ。セレンちゃん、また風と土の魔力を混同したのね」
「耳ばっかり良くて、魔法の腕はからっきしだな」
悪意のない、けれど確かな「落ちこぼれ」を見る目が、セレンの胸をチクリと刺す。
(……ごめんね、無理やり引っ張って痛かったよね)
セレンは泥だらけの手で、足元の土をそっと撫でた。
大人たちは知らないのだ。魔族にとって「自然の声が深く聴こえる者ほど、強く美しい魔法を使える」のが絶対の常識であるこの世界で、セレンだけがその常識から外れていることを。誰よりも鮮明に世界の声が聴こえるのに、それを魔力として出力する回路だけが、壊れているということを。
完璧な絶対音感を持ちながら、自分の喉からは雑音しか出せない。
そのもどかしさと共に生きることが、セレンにとっての「当たり前」だった。
「セレンちゃんには、誰にも負けない耳があるじゃないか。学校で基礎を学べば、きっとすごい使い手になれるさ」
近所のおじさんが大きな手でセレンの頭を撫でてくれる。
セレンは「ありがとう」と笑った。きっとなれる、という言葉の優しさと、でも今は何もできないという静かな痛みを、両方抱えたまま。
今日も平和で、美しい朝が始まる。そう、誰もが信じて疑わなかった。
――その時だった。
『――――ギィィィィン……ッ!!!』
音ではなかった。
鼓膜を通り越して、魂の底を直接引き裂くような何かが、セレンの頭蓋骨の内側に叩き込まれた。
「っ……!?」
セレンは耳を塞ぎ、その場の土の上にへたり込んだ。
痛い。痛い。痛い。
今まで聴いたことのある森の声とは、何もかもが違った。土の下で虫が泣く声でも、岩が割れる声でも、嵐で枝が折れる声でもない。自然界には存在しないはずの、無機質で冷たい「刃」が、生きた命を噛みちぎっていく音。何百年も、何千年もそこに立ち続けてきた古木が、正しい死のサイクルとは全く関係のない「暴力」によって、根ごと引き裂かれていく絶望だった。
『痛いっ! やめて、体を切らないでっ!!』
『熱いっ……わけのわからない煙が、苦しいっ!』
方角は西。人間たちの国との境界を隔てる「不可侵の森」の奥深く。
「森が……! 森が、噛みちぎられてる……っ!!」
セレンは耳から手を離し、痛みに歪んだ顔を上げて絶叫した。
しかし、広場の大人たちは誰一人として気づいていない。ただ、突然うずくまって泣き叫び始めた九歳の少女を、きょとんとした顔で見つめているだけだった。
「セレンちゃん? どうしたんだい、急に」
村で一番の魔法の使い手である長老のオルバスすら、困惑したようにお茶のカップを置いている。
この未曾有の悲鳴を聴き取ったのは、世界でただ一人。
一番魔法のヘタクソな、セレンだけだった。
走った。
家に飛び込んで、両親に訴えた。息を切らして、冷たい汗を拭うのも忘れて。でも両親の目に浮かんでいたのは、深い愛情と、それゆえの「哀れみ」だった。
「セレン。不可侵の森には強固な結界がある。人間ごときが立ち入ることは絶対に不可能だ」
「熱でもあるんじゃないの? 少し横になっていなさい」
「違う……違うの! 本当に聴こえてるの!」
「大丈夫よ、セレン。さあ横になって」
ベッドに寝かされ、毛布を掛けられ、部屋が暗くなった。
今もずっと、聴こえる。ジリジリと膨れ上がる巨大な悲鳴が。
このまま眠ってしまえば、きっと森は死ぬ。
セレンは天井を見上げながら、決定的な事実を理解した。
――言葉では信じてもらえない。どれだけ必死に訴えても「魔法が下手な子供の勘違い」として押しつぶされる。大人たちの「常識」が分厚い壁になっている。
(証拠が必要だ。絶対に目を背けられないような、決定的な証拠が……)
その時、セレンの脳裏に一つの記憶が閃いた。
幼馴染のカイが、得意げにこっそり見せてくれたあの道具。黒い鉄と革でできた四角い箱に、分厚いガラスの「目」がついた機械。カイはそれを「カメラ」と呼んでいた。
『このガラスの目で見た風景を、そのままガラス板に閉じ込めることができるんだ。魔法なんか使わなくてもね』
(そうだ。あのカメラで「鉄の牙」の姿を写し取ってくれば――)
――大人が動かないなら、私がやる。
怒られたっていい。森が死んでしまうより、ずっといい。
セレンは毛布を力強く跳ね除け、音を立てずにベッドから抜け出した。窓枠に手をかけ、外へと身軽に抜け出す。
九歳の少女は、村の掟と親の愛を背中に振り切り、小さな一歩を踏み出した。
第1話を読んでいただきありがとうございました。
セレンが聴いた「森の悲鳴」とは何なのか。
なぜ大人たちは異変に気づけないのか。
次回から物語が大きく動き始めます。
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また次話でお会いできれば嬉しいです。




