第9話「残る余韻」
関係が少しだけ崩れます。
それは壊れるのではなく、形を変えるための揺れです。
業務に、支障はない。
書類は整っている。
判断も、正確だ。
進行にも、遅れはない。
問題はない。
そう、言える状態だった。
——表面上は。
(……乱れている)
思考が、わずかにずれている。
ほんの僅か。
だが、確実に。
制御しきれていない。
処理はできている。
しかし、
集中が、続かない。
理由は、明確だ。
切り離せていない。
あの場。
あの言葉。
あの距離。
——消えない。
(……違う)
否定する。
強く。
あれは業務だ。
ただの再会。
それ以上でも、それ以下でもない。
そうでなければならない。
「グレイフォード」
名を呼ばれる。
反応が、僅かに遅れる。
「……はい」
「珍しいな」
低く言われる。
観察するように。
「何がですか」
「集中が切れている」
即断。
誤魔化せない。
「……問題ありません」
反射的に返す。
「そうか」
短い返事。
それで終わらない。
「手を出せ」
いつもの言葉。
いつもの距離。
拒否するべきだ。
そう理解している。
それなのに。
身体が、先に動く。
止める前に、
手を差し出している。
「——」
触れられる。
指先。
手のひら。
その瞬間。
思考が、整う。
乱れていたものが、
収束する。
(……やはり、そうか)
理解してしまう。
したくないのに。
「戻ったな」
低く言われる。
確認するように。
「……問題ありません」
今度は。
嘘ではない。
「そうか」
短い返事。
手は、離れない。
必要だから。
理由は、それだけだ。
それだけのはずなのに。
(……近すぎる)
距離が、近い。
触れている。
それだけで。
先ほどまでの乱れが、消えている。
否定できない。
事実として。
成立している。
「……離してください」
小さく言う。
必要最低限に。
「嫌か」
静かに問われる。
「……」
答えられない。
拒否すべきだと分かっている。
言葉が出ない。
理由が、揺れる。
「……エリアス」
名を呼ばれる。
近くで。
低く。
それだけで。
思考が、わずかに揺れる。
「まだ残っているな」
「……何がですか」
「昨日の影響だ」
短く言われる。
否定できない。
しても意味がない。
「……問題ありません」
繰り返す。
それしかできない。
「そうか」
短い返事。
それ以上は言われない。
手は、離れない。
距離も変わらない。
近いまま。
触れたまま。
その状態が——
自然になりつつある。
抗えないほどに。
(……違う)
違う。
これは。
契約だ。
業務だ。
そうでなければならない。
それなのに。
この距離は。
あまりにも——
落ち着く。
「……っ」
呼吸が、僅かに乱れる。
自覚してしまう。
この状態を。
求めてしまっている自分を。
「……問題ありません」
繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
それでも。
否定しきれない。
残っている。
あの言葉が。
あの声が。
あの距離が。
消えないまま。
そして。
今の距離と、重なる。
(……なぜ)
理解できない。
理解したくない。
それでも。
身体は、知っている。
どちらも。
手放せないことを。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
消えない余韻を抱えたまま、距離を手放せなくなっていた。
自分の意思ではなく。
距離を保つはずの人間が、距離を誤り始めています。
それがどこへ向かうのかは——もう、止まりません。




