第10話「許容量」
ここが一つの転機です。
これまでの“前提”が、静かに崩れます。
業務は、滞りなく進んでいる。
書類は整っている。
判断も正確だ。
遅れもない。
問題はない。
そう、言える状態だった。
——表面上は。
(……限界です)
そう結論づける。
思考は、明確にそう判断している。
処理はできている。
しかし、
維持できない。
集中が、続かない。
理由は分かっている。
切り離せていない。
あの声。
あの言葉。
あの距離。
そして——
今の距離。
(……完全に重なっている)
分離できない。
過去と現在が。
同じ場所にある。
「グレイフォード」
名を呼ばれる。
反応はできる。
まだ。
「はい」
「報告だが」
差し出される書類。
内容を確認する。
問題はない。
理解できる。
処理も可能だ。
集中が、続かない。
「……問題ありません」
答える。
自分でも分かる。
精度が落ちている。
「そうか」
短い返事。
視線が外れない。
観察されている。
測られている。
「手を出せ」
いつもの言葉。
いつもの距離。
拒否するべきだ。
そう理解している。
それなのに。
止める前に、
手が動く。
差し出している。
「——」
触れられる。
指先。
手のひら。
その瞬間。
思考が、整う。
揺れていたものが、
収束する。
(……これが、必要だ)
理解してしまう。
したくないのに。
「戻ったな」
低く言われる。
「……問題ありません」
今度は、
はっきりと、言える。
「そうか」
短く返される。
手は離れない。
距離も変わらない。
近いまま。
触れたまま。
(……近すぎる)
理解している。
この距離が、異常だと。
それなのに。
拒否できない。
理由が、変わっている。
必要だからだ。
拒否できない理由に。
「……離してください」
言葉にする。
形だけでも。
「嫌か」
静かに問われる。
「……」
答えられない。
拒否すべきだと分かっている。
だが。
言葉が出ない。
理由が揺れる。
「……エリアス」
名を呼ばれる。
近くで。
低く。
その距離で。
思考が、わずかに揺れる。
「まだ保っているな」
「……何を」
「限界だ」
断定的に。
「……問題ありません」
反射的に返す。
「そうか」
短い返事。
それ以上は言われない。
距離は変わらない。
触れたまま。
離れない。
(……限界)
言葉が、残る。
否定する。
強く。
まだ、問題はない。
維持できている。
崩れてはいない。
そのはずだ。
それなのに。
ふとした瞬間に。
ズレる。
視界が。
音が。
思考が。
制御が、外れる。
ほんの僅か。
だが、確実に。
「……っ」
息が乱れる。
一瞬だけ。
抑えきれない。
その瞬間。
手の感触が、強くなる。
引き寄せられる。
「落ち着け」
低く言われる。
近くで。
逃げ場を塞ぐ距離で。
呼吸が、整う。
思考が、戻る。
崩れかけたものが、
繋がる。
(……まただ)
繰り返される。
同じことが。
触れることで。
保たれている。
自分が。
「……問題ありません」
繰り返す。
それしかできない。
それでも。
理解している。
これは。
正常ではない。
依存に近い。
否定できないほどに。
それなのに。
手放せない。
理由が。
成立してしまっている。
(……違う)
否定する。
強く。
これは契約だ。
業務だ。
それだけだ。
そうでなければならない。
それなのに。
この状態は——
あまりにも。
長く続きすぎている。
切り離せないほどに。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
限界に気づきながら、それを手放せなかった。
手放すことを、選べなかった。
もう、元には戻りません。
この距離は——選ばれ始めています。




