第11話「残響」
ここから関係の“違和感”がはっきりと形になります。
まだ言葉にはしませんが、もう無視できない段階です。
音が、遅れて聞こえる。
書類をめくる音。
ペンが走る音。
人の気配。
すべてが。
わずかに、ずれている。
噛み合わない。
(……問題ありません)
思考は、そう判断する。
処理はできている。
手も動く。
視線も、ぶれていない。
それなのに。
現実だけが。
遠い。
手応えがない。
「グレイフォード」
名を呼ばれる。
反応は、遅れない。
「はい」
「この数値だが」
差し出される書類。
確認する。
理解できる。
問題はない。
——はずだった。
数字が、一瞬だけ。
形を失った。
「——」
視界が、揺れる。
ほんの僅か。
だが、確実に。
(……違う)
違う。
これは。
ただの疲労だ。
そう結論づける。
次の瞬間。
手の感触が、蘇る。
温度。
重さ。
止まらない動き。
「——っ」
呼吸が、乱れる。
抑えきれない。
思考が、滑る。
現実から。
別の記憶へ。
引きずられる。
白い床。
赤い色。
滑る。
広がる。
止まらない。
手が。
自分の手が。
離れない。
止まらない。
(……違う)
違う。
違う。
これは過去だ。
今ではない。
そう、切り離す。
だが。
できない。
「グレイフォード」
低い声。
近い。
現実に引き戻される。
「……問題ありません」
言葉が出る。
反射的に。
だが。
正確ではない。
「顔色が悪い」
「問題ありません」
繰り返す。
それしかできない。
それでも。
視界が、揺れる。
完全には、戻らない。
残っている。
さっきの感触が。
消えない。
「手を出せ」
短く言われる。
いつも通り。
拒否するべきだ。
そう理解している。
それなのに。
手が動く。
差し出している。
考えるより先に。
触れられる。
「——」
息が止まる。
その瞬間。
現実が戻る。
ずれていたものが、
揃う。
音が。
距離が。
思考が。
正しい位置に戻る。
(……まただ)
理解してしまう。
したくないのに。
「落ち着いたな」
低く言われる。
「……問題ありません」
答える。
今度は。
ほぼ本当だ。
だが。
完全には、戻らない。
残っている。
あの感触が。
手に。
残っている。
触れているのに。
別の感触が。
消えないまま、重なっている。
(……離れない)
記憶が。
離れない。
「……エリアス」
名を呼ばれる。
近くで。
低く。
それだけで。
思考が揺れる。
「何を見た」
断定的に。
静かに問われる。
逃げ場はない。
「……何も」
答える。
反射的に。
「嘘だな」
即断。
否定できない。
しても意味がない。
「……業務です」
繰り返す。
それしか言えない。
それ以上は。
言ってはいけない。
「そうか」
短い返事。
それ以上は、踏み込まない。
手は離れない。
距離も変わらない。
触れたまま。
固定される。
(……なぜ)
理解できない。
理解したくない。
それでも。
この距離がなければ。
保てない。
思考も。
現実も。
すべてが。
崩れる。
「……問題ありません」
繰り返す。
それしかできない。
それでも。
分かっている。
これは。
もう——
限界を、越えている。
戻れないほどに。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
消えない記憶と、切り離せなくなり始めていた。
自分の意思とは関係なく。
距離は、理由ではなく感覚で選ばれ始めています。
それを否定できないことが——一番の変化です。




