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『距離を測るのをやめた日、騎士団長の恋人になりました』 ― 距離と契約の境界線 ―(彼氏×彼氏の事情)  作者: つるぎまる


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第6話「名前」

ここから関係の“意味”が少しずつ変わり始めます。

まだ誰もそれを認めてはいませんが、距離だけは確実に動いています。


 業務は、問題なく進んでいる。


 書類は整っている。

 進行にも遅れはない。

 判断も、正確だ。


 いつも通り。


 そう、言える状態だった。


 ——表面上は。


 そう見えるだけで。


(……安定している)


 思考が、乱れない。

 不要な感情が、混ざらない。


 処理は明瞭で、無駄がない。


 それが、何によるものか。


 理解している。


 したくはないが。

 理解してしまっている。


 視線を、わずかに横へ。


 そこにいるのは——

 アルベルト・フォン・シュヴァルツ。


 特に何もしていない。


 書類に目を通し、必要な指示を出す。

 それだけだ。


 それなのに。


(……影響している)


 明らかに。


 距離。

 存在。


 それだけで。


 自分の状態が変わる。


 あり得ない。


 そう結論づけているのに。

 否定できない。


「グレイフォード」


 名を呼ばれる。


 反応は、遅れない。


「はい」


「この案件だが」


 差し出された書類を受け取る。

 内容を確認する。


 問題はない。

 処理も可能だ。


 だが。


 その中に。

 一つだけ。

 引っかかる単語があった。


「……騎士団関連の再編成、ですか」


「ああ」


 短い返答。


 それだけで、十分だった。


 騎士団。


 その単語が。

 わずかに、思考を鈍らせる。


(……問題ありません)


 処理する。

 これは業務だ。

 個人的感情を挟む余地はない。


 そう、判断する。


「補助職の再配置も含まれる」


 続けられる説明。


 必要な情報。

 理解はできる。


「該当者のリストだ」


 書類を一枚、追加で渡される。


 視線を落とす。

 名前が並んでいる。


 数名。


 その中に——

 あった。


「——」


 思考が、止まる。


 一瞬。


 本当に、わずかな時間。


 だが——

 確実に。

 止まった。


「……どうした」


 低く問われる。


 すぐ近くで。

 いつもの声で。


「……問題ありません」


 反射的に答える。


 いつも通りに。

 変わらないように。


 そう、振る舞う。


 だが、

 視線が、動かない。


 書類の一点に。

 固定されている。


「……そうか」


 短い返事。


 それで終わらない。


「グレイフォード」


 もう一度。

 ゆっくりと。


「……問題ありません」


 繰り返す。


 それしか言えない。

 言ってはいけない。


 それ以上は。


「その名前か」


 低く、言われた。


 核心に触れるように。

 逃げ道を塞ぐように。


「——」


 否定が、出ない。

 できない。

 する意味がない。


「……業務です」


 絞り出す。

 唯一の防衛。


「そうだな」


 あっさりと肯定される。

 それで終わらない。


「ルーカス・フェルナー」


 はっきりと。

 名前が発音される。


 その瞬間。

 ——呼吸が、止まった。


「……っ」


 音にならない。


 視界が、歪む。


 記憶が。

 強制的に、引き上げられる。


 止まらない刃。

 血の温度。

 離れない手の感触。


 ——止められなかった。


(……違う)


 違う。


 これは過去だ。

 今ではない。


 そう切り離す。


 だが——

 できない。


「知り合いか」


 淡々とした問い。


 感情はない。

 ただ、事実を確認するだけの声。


「……」


 答えられない。

 答えるべきではない。

 そう判断する。


 それなのに。

 身体が、動かない。


「……業務です」


 ようやく出た言葉。


 意味のない防衛。

 繰り返し。


「そうだな」


 再び、同じ返答。


 今度は——


「なら、会うことになる」


 結論だけが落ちる。

 逃げ道のない形で。


「——」


 否定が、出ない。

 できない。


 論理が、崩れる。


 業務として正しい。

 拒否する理由がない。


 それが——

 問題だった。


(……会う)


 思考が、固定される。


 逃げられない。

 避けられない。


 そう理解する。


 その瞬間。

 手が、震えた。


 わずかに。

 だが、確実に。


「……エリアス」


 名を呼ばれる。


 低く。

 近くで。


「顔に出ている」


 短く言われる。


 否定できない。

 しても意味がない。


「……問題ありません」


 繰り返す。

 それしかできない。


「そうか」


 短い返事。


 次の瞬間。

 手首を掴まれる。


 ——引き寄せられた。

 机の縁に、軽く背が触れる。


 距離が、近い。

 近すぎる。


「——っ」


 息が詰まる。

 逃げようとする。


 だが。

 逃げ場がない。


 手首は固定されている。

 視線も、逸らせない。


「……測るな」


 低く、落ちる声。


「お前は」


 それ以上は、言わない。


 それだけで十分だった。


 ——距離が、壊れる。


 思考が、止まる。


 同時に。


 揺れが、消える。

 雑音が、消える。


 さっきまでの崩れが——

 なかったことのように、戻る。


(……また、これですか)


 理解してしまう。

 したくないのに。


 この距離がなければ。

 保てない。


「落ち着いたか」


 淡々と問われる。


「……問題ありません」


 声が、わずかに低い。

 自分でも分かる。


 ——さっきより、近い。


「そうか」


 手は、離れない。


「……離してください」


「無理だ」


 即答。


「必要だからな」


「——お前にだけ」


(……)


 その一言が。

 予想外の位置に、刺さる。


 業務として。

 契約として。

 そう理解する。


 それしか、できない。


 それなのに。

 心のどこかで。


 別の意味を探している自分がいる。


(……違う)


 否定する。


 強く。


 それは違う。


 これは契約だ。


 そうでなければならない。


 そうでなければ——


 保てない。



 その日。


 エリアス・グレイフォードは。


 避け続けてきた名前から——

 そして、測り続けてきた距離から——

 完全に、逃げ場を失った。

触れる理由は、まだ必要です。

——ですが、その“必要”の形が変わり始めています。

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