第5話「許容された距離」
ここから少しずつ、“理由では説明できない距離”が混ざっていきます。
異常だ。
それが、最初の結論だった。
書類に視線を落としながら、エリアス・グレイフォードは思考を整理する。
文字は読めている。
内容も理解できる。
処理も、問題ない。
それなのに。
(……静かすぎる)
異様なほどに。
思考が、乱れない。
余計なものが、混ざらない。
まるで——
誰かに、整えられているように。
理由は分かっている。
分かっているからこそ、認めたくない。
昨夜の、接触。
あの距離。
あの状態。
本来であれば。
乱れるはずだった。
だが。
(……問題が、ない)
むしろ。
整っている。
それが、異常だった。
「グレイフォード」
名を呼ばれる。
視線を上げる。
そこにいるのは——
アルベルト・フォン・シュヴァルツ。
「顔色がいいな」
「問題ありません」
即答。
変わらない。
変えてはいけない。
「そうか」
短い返事。
視線が、外れない。
観察するように。
測るように。
「手を出せ」
唐突に言われる。
「……理由をお聞かせ願えますか」
「確認だ」
それだけ。
説明にはなっていない。
それ以上は語られない。
(……拒否する理由はある)
あるはずなのに。
言葉にならない。
論理が組み立てられない。
それが、問題だった。
「……業務に必要な範囲であれば」
条件をつける。
逃げ場を残すために。
「問題ない」
即答。
余地がない。
つまり——
拒否できない。
ゆっくりと。
手を差し出す。
次の瞬間。
触れられた。
指先から。
手のひらへ。
自然な動作で。
だが——
逃げ場のない形で。
「——」
思考が、一瞬止まる。
身体が先に反応する。
拒否よりも先に。
(……楽だ)
その感覚が、先に来た。
あり得ないほどに。
自然に。
強張っていたものが。
ほどける。
張り詰めていたものが。
落ちる。
思考が、静まる。
「どうだ」
低く問われる。
近い。
声が。
距離が。
「……問題ありません」
答える。
だが——
それは正確ではない。
「そうか」
短く返される。
視線が細くなる。
確信したように。
「やはりな」
「……何がですか」
遅れて問い返す。
「安定している」
短く。
断定的に。
「……何が」
「お前の魔力だ」
その一言で。
思考が止まる。
「——あり得ません」
即答。
迷いはない。
そうでなければならない。
「俺もそう思っていた」
あっさりと返される。
否定しない。
「現実だ」
逃げ道はない。
「……証明は」
言いかけて、止まる。
既に。
身体が理解している。
(……違う)
否定する。
強く。
これは偶然だ。
そうでなければならない。
「もう一度」
低く言われる。
今度は——
逃げ場がない形で。
指が絡む。
「——っ」
息が、揺れる。
先ほどよりも。
はっきりと。
強く。
思考が整う。
雑音が消える。
揺れが消える。
すべてが。
過剰なほどに、静かになる。
(……これは)
理解してしまう。
したくないのに。
触れているだけで。
整う。
落ち着く。
戻る。
自分が。
(……必要だ)
その認識が。
初めて、形になる。
「……契約です」
ようやく絞り出す。
最後の防衛。
「そうだな」
肯定。
あっさりと。
それなのに。
手は離れない。
「なら問題ない」
結論だけが落ちる。
迷いなく。
当然のように。
「……離してください」
「嫌か」
静かに問われる。
逃げ道を残さない形で。
「……」
答えられない。
拒否すべきだと分かっている。
だが。
言葉が出ない。
理由が、崩れている。
「……エリアス」
名を呼ばれる。
低く。
近くで。
それだけで。
思考が、わずかに揺れる。
「これは使える」
淡々とした声。
感情はない。
ただ——
事実として。
「……業務ですか」
確認する。
そうであってほしい。
「そうだ」
即答。
迷いがない。
「恋人としてもな」
付け足される。
軽く。
当然のように。
「——」
言葉が出ない。
出せない。
論理が崩れる。
整理できない。
ただ一つ。
確かなのは。
この接触が。
“必要”だと。
身体が、理解してしまったことだった。
離れない。
離れられない。
触れているだけで——
保てるから。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
その距離を——
初めて、自分の意思で許容した。
ほんのわずかな変化ですが、確実に何かがズレています。
その違和感が、後に大きな意味を持つことになります。




