第22話「名前のない感情」
感情が明確になります。
ただし、まだ名前は与えられていません。
静かだった。
部屋の中。
音はある。
紙の擦れる音。
外の足音。
それでも。
どこか遠い。
(……集中できている)
思考は、正常に動いている。
判断も、問題ない。
処理も、滞りない。
それでも。
意識が、別の場所にある。
さっきの中庭。
ルーカスの言葉。
そして——
その後。
(……違う)
否定する。
考えるべきではない。
必要がない。
それでも。
消えない。
あの瞬間。
迷わなかった。
理由を考える前に。
拒否した。
ルーカスを。
そして——
選んだ。
アルベルトを。
(……選んだ)
その事実だけが残る。
言い訳はできない。
必要だから。
合理的だから。
そう処理することもできる。
それでは足りない。
説明がつかない。
あの一瞬の速さ。
あの感覚。
思考を通していない。
それなのに。
確信していた。
「……」
手が止まる。
気づけば、書類の上で動きが止まっている。
(……なぜ)
問いが残る。
分かっている。
もう。
答えは出ている。
それでも。
言葉にできない。
したくない。
そこまで認めれば——
戻れない。
「……エリアス」
声がする。
振り向く。
アルベルト。
いつも通りの距離。
触れない位置。
それなのに。
(……近い)
視線が、自然に向く。
距離を測るように。
そして。
無意識に。
足が動く。
ほんの僅か。
だが、確実に。
近づく。
「……何だ」
低く問われる。
変わらない声。
「……いえ」
言葉が出る。
続かない。
それでも。
離れない。
距離を保たない。
そのまま——
そこにいる。
沈黙。
短い。
だが、濃い。
(……落ち着く)
はっきりと分かる。
この距離。
この存在。
それだけで。
揺れが消える。
整う。
それ以上に——
(……安心)
その言葉が浮かぶ。
知らない感覚。
必要とも違う。
依存とも違う。
もっと。
単純で。
曖昧で。
それでいて。
確かに、そこにある。
「……どうした」
再び問われる。
低く。
静かに。
その声が近い。
それだけで。
胸が、わずかに熱を持つ。
「……」
言葉が出ない。
分かっている。
この感覚の正体を。
完全ではない。
それでも。
もう、否定はできない。
(……これは)
その先を。
言葉にしようとして——
止まる。
その瞬間。
距離が、動いた。
「——」
わずかに。
アルベルトが、一歩引く。
ほんの僅か。
だが。
確実に。
距離が、開く。
「……っ」
息が止まる。
理解が追いつかない。
さっきまでの距離。
さっきまでの感覚。
それが。
切り離される。
「……業務中だ」
低く言われる。
変わらない声。
わずかに。
線を引くように。
「必要以上の接触は控える」
淡々と。
事実だけを告げるように。
それだけ。
それ以上はない。
それなのに——
(……遠い)
さっきより。
明確に。
遠い。
空気が変わる。
音が戻る。
思考が、乱れる。
整っていたものが。
崩れる。
「……問題ありません」
反射的に言う。
声が、わずかに揺れる。
自分でも分かる。
説得力がない。
「そうか」
短い返事。
それ以上は踏み込まない。
距離は、そのまま。
戻らない。
(……違う)
違う。
これは。
正しい。
これが本来の距離だ。
そうでなければならない。
それなのに。
足りない。
明確に。
何かが。
足りない。
(……さっきの距離)
思考が戻る。
あの位置。
あの感覚。
あの温度。
それが。
ない。
「……」
動けない。
戻れない。
進めない。
ただ。
その場に立ったまま。
理解してしまう。
自分が。
何を求めていたのかを。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
その感情に、名前を与えられなかった。
そして——
初めて。
“失った感覚”として、自覚した。
分かっているのに、言葉にできない。
それでも——もう否定はできません。




