第2話「演技の距離」
少しずつ“違和感”が入り始めます。
エリアスの中で、まだ言葉にならない変化が動き始めています。
夜会は、嫌いだ。
理由は明確だ。
無駄が多い。
音楽。
装飾。
会話。
どれも業務として必要最低限を超えている。
そして何より——
距離が、近い。
「グレイフォード」
名を呼ばれる。
振り向く必要はない。
分かっている。
「準備は済んだか」
「問題ありません」
淡々と答える。
視線は書類に落としたまま。
確認は終わっている。
不備はない。
予定も整理済み。
――完璧だ。
そのはずだった。
「なら行くぞ」
短く告げられる。
次の瞬間。
腕を取られた。
「……っ」
反射的に息が止まる。
引かれる。
距離が、一気に詰まる。
距離の取り方が、一般的ではない。
それを自覚している様子もない。
その瞬間。
思考が、わずかに整う。
ざらついていた感覚が、引く。
(……また、これですか)
「離してください」
「無理だ」
即答。
迷いがない。
「夜会では恋人だ」
当然のように言われる。
「演技です」
「分かっている」
ならば、と言いかけて。
言葉が止まる。
理解しているのに、やめない。
それが一番厄介だ。
「行くぞ」
拒否の余地はない。
そのまま歩き出される。
逃げる理由はある。
だが。
止まる理由がない。
それが、問題だった。
***
会場に入った瞬間。
空気が変わる。
音楽。
光。
人の気配。
すべてが一度に押し寄せる。
(……問題ありません)
処理する。
これは業務だ。
そう結論づける。
だが。
隣の存在だけが。
処理できない。
「近い」
小さく呟く。
「恋人だからな」
当然のように返される。
腕を引かれる。
さらに。
距離が詰まる。
肩が触れる。
布越しの体温。
呼吸の気配。
(……近すぎる)
身体が、拒否する。
思考が追いつく前に。
反応が先に出る。
「顔が硬い」
低く言われる。
「……問題ありません」
「あるな」
即座に否定される。
「笑え」
短く命じられる。
「無理です」
「ならこうする」
次の瞬間。
顎に触れられた。
「——っ」
思考が止まる。
強引に視線を上げさせられる。
距離が、消える。
呼吸が、近い。
その距離で。
また、整う。
拒否するべきなのに。
(……どうして)
離れるべきだ。
そう理解しているのに。
身体が、それに従わない。
「形だけでいい」
低く囁かれる。
「できるだろう」
逃げ場がない。
視線も。
距離も。
すべて塞がれている。
「……」
呼吸が乱れる。
拒否はできない。
契約だ。
これは契約だ。
そう思考を固定する。
ゆっくりと。
口角を上げる。
「……これで」
「足りない」
遮られる。
次の瞬間。
腰に手を回された。
「……っ!」
完全に距離が消える。
逃げ場がない。
引き寄せられる。
強い。
だが。
乱暴ではない。
逃げられない形で。
固定される。
(……無理です)
思考が揺れる。
拒否と。
別の感覚が混ざる。
触れられるたびに。
整う。
それが——
否定できない。
「……グレイフォード」
耳元で、低く。
「震えている」
「……問題ありません」
「嘘だな」
即断。
否定できない。
手が震えている。
止まらない。
理由は分かっている。
だからこそ——
言えない。
「……エリアス」
名を呼ばれる。
その一言で。
思考が揺れる。
「力を抜け」
低く言われる。
押しつけではない。
ただ、そうするのが当然のように。
「……できません」
正直に答える。
それしかできない。
「そうか」
短い返事。
次の瞬間。
手の力が変わる。
押さえ込むのではなく。
支えるように。
逃がさないまま。
負担だけを減らす。
「……」
呼吸が整う。
思考が静まる。
揺れが消える。
——あり得ない。
(……なぜ)
理解できない。
理解したくない。
それでも。
身体が知っている。
この距離が。
この接触が。
必要だと。
「そのままでいい」
低く言われる。
理由はない。
説明もない。
ただ——
そうあることが当然のように。
距離は変わらない。
触れたまま。
離れない。
(……違う)
これは契約だ。
そうでなければならない。
それなのに。
この距離は——
あまりにも、理屈に合わない。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
演技の距離を、理解できなかった。
距離は、まだ保たれています。
ですが——その基準は、もう揺れ始めています。




