第1話「恋人のふり」
はじめまして。
本作は「距離」と「選択」をテーマにした物語です。
合理的に生きてきた青年が、“ある関係”をきっかけに少しずつ変わっていきます。
まずは、彼の“基準”からお読みください。
恋人とは、何をもって定義されるのか。
法的拘束はない。
契約もない。
それでいて——
最も曖昧で、最も厄介な関係だ。
エリアス・グレイフォードは、そう結論づけていた。
ゆえに。
自分には無関係のものだと、理解していた。
***
「恋人のフリをしてほしい」
書類から視線を上げる。
声の主を確認するより先に、エリアスは答えた。
「お断りします」
間を置かない。
思考も必要ない。
理由は明確だ。
必要がない。
それだけで十分だった。
「理由は?」
「必要性を感じません」
視線を戻す。
これで終わりだと判断した。
だが。
「なら、必要にする」
その一言で、空気が変わる。
椅子が引かれる音。
足音。
距離が詰まる。
――近い。
意識する前に、身体が反応した。
わずかに指先が強張る。
無意識に、距離を測る癖がある。
それ以上は、危険だ。
「グレイフォード」
低い声が落ちる。
目の前に立っているのは、騎士団所属の男。
アルベルト・フォン・シュヴァルツ。
名を知らぬ者はいない。
それほどの存在。
「形式上で構わない。期間も限定する」
「お断りします」
重ねて言う。
変わらない。
「では、別の条件を提示しよう」
拒否を前提に話を進めるその態度に、わずかな苛立ちを覚える。
だが、それ以上に。
距離が——近い。
「グレイフォード」
再び、名を呼ばれる。
今度は。
逃げ場がなかった。
「触れる」
短く、告げられる。
意味を理解するより先に。
手首を掴まれた。
「——っ」
反射的に振り払う。
強く。
だが。
掴んだ側は、動じない。
むしろ。
「やはりな」
確信したように呟く。
「……何がですか」
声が、わずかに硬くなる。
「触れられるのが嫌いらしい」
観察するような視線。
不快だ。
それ以上に——
落ち着かない。
「業務に不要な接触は控えていただきたい」
「これは必要だ」
即答。
「恋人だろう」
その一言で、言葉が詰まる。
「契約です」
絞り出す。
「なら問題ない」
あっさりと返される。
理解できない。
いや——
理解したくない。
「……受ける理由がありません」
視線を逸らす。
関わる必要がない。
それなのに。
「ある」
断言。
「お前が受ける理由はある」
「断れば困るのは、お前の方だ」
低く、静かに。
「――このままでは、いずれ業務に支障が出る」
「ありません」
即答する。
だが。
「ある」
繰り返される。
「グレイフォード」
低く。
静かに。
「お前の問題だ」
その言葉の意味を、エリアスは理解しない。
したくもない。
「これは命令ではない」
一歩、踏み込まれる。
距離が消える。
反射的に、息が止まる。
「提案だ」
逃げ場は、ない。
「受けろ」
その一言が。
やけに近くで、落ちた。
——その瞬間。
わずかに。
記憶が揺れた。
触れられる感覚。
止まらない刃。
血の温度。
「……っ」
息が詰まる。
視界が、揺れる。
次の瞬間。
手首を、再び掴まれていた。
今度は。
振り払えなかった。
その瞬間。
思考が、わずかに整う。
ざらついていた感覚が、ほんの僅かに静まる。
——あり得ない。
「……エリアス」
初めて、名で呼ばれた。
その一言で。
思考が、止まる。
「これなら、受ける理由になるか」
問いではない。
ただの確認でもない。
結論だけが、そこにある。
——拒否すべきだ。
分かっている。
分かっているのに。
言葉が、出ない。
⸻
その日。
エリアス・グレイフォードは。
最も関わってはならない男と。
契約を結んだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
まだ何も始まっていませんが、すべてはここから崩れていきます。
続きもぜひ読んでいただけると嬉しいです。
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