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天憫罪(旧題:浴槽は舟には成り得ない)  作者: 露おちぬ
第2章 戸が喰らうは神の痛切
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第9話 邂逅

※後半に虫の表現あり

苦手な方、注意です。

「というわけで、いってらっしゃい」

冥の奉神は、先に自動ドアを通過しようとした空知要の背を指先で軽く押した。冴里にとって、大事な友人である空知要の姿がドアの向こうに消えた。慌てて走りより、自動ドアの向こうを見渡すが、喧騒漂う街の景色しか存在しない。そこに、友人の姿は無かった。


背後に立つ冥の奉神という男は、冴里と交わしたばかりの約束を秒で破った。驚愕の表情を王原に向ければ、「ほらな、言わんこっちゃない」と肩を竦めた。

「ちょっと!5分前に言ったこと忘れたんですか!?」

「忘れてないさ。空知要をちゃんと家に返すために必要な事だ。」

冥の奉神は、唇の端をつり上げただけの体力を使わない省エネな笑みを浮かべた。疲弊を滲ませる目元に、まつ毛の濃い影が落ちる。外見年齢相応の大人びて落ち着いた笑みとも捉えられるが、冴里の目には笑みを浮かべることさえ億劫に感じているように思えた。

「空知はど…どこに行ったんですか。」

「我らが祖国、不死国(しなずのくに)だ。」

ファミレス店員の訝しげな視線を感じつつ、冴里は質問を重ねる。

「空知を安全に家に帰してくれるって、約束したじゃないですか。なんでそんな場所に…」

「ちゃんと家に帰すために必要なことなんだ。」

ふらりと視線を彷徨わせた冥の奉神は、腕を重そうに持ち上げて王原の腕を掴んだ。

「君はちゃんと帰って―。」

腕を掴まれた王原は驚きに目を見開いた表情を浮かべた瞬間に、冥の奉神とともに自動ドアの向こうへ消えた。人々は自動ドアの前に立ち尽くす冴里を迷惑そうによける。自動ドアを抜けた瞬間に彼らが他の世界に飛ばされるなんてことはなく、彼らは単調に歩みを進め、各々の日常へと帰っていった。

冴里は、最後に冥の奉神が発した言葉を脳内で反芻した。

『彼の帰る場所(日常)になるんだ。』


……



トンネルだ。

長年、人の手が入らずに鬱蒼とした森の中に佇む石積みのトンネルの前に、空知要は座り込んでいた。ファミレスのドアを開けて、外に出た瞬間、トンネルの前に自分がいることに気づいた。冥の奉神、冴里、王原の姿は見えず、胸の奥に空虚な風が吹いた。

「冥さん、ここは」

最近の癖で冥の奉神に問い掛けるが、低く淡い優しさが滲む声による返答はない。

「進むしかないのか?」

自身がファミレスからトンネルの前へと移動した件について、簡単に事実を整理してみた。第一に、奉神の仕業であることは確実だ。であれば、ファミレスに存在した奉神は冥の奉神と王原だが、「開く」もしくは「繋げる」という事象となれば自ずと冥の奉神の仕業だと考えられる。なぜなら、「全てが開く」事象を引き起こした本人であると同時に、他の奉神と違い「開」などと唱えずとも空間を繋げられるようだ。事実は簡単に表層に浮び上がるが、事実に紛れていたひとつの疑問が胸中を占めた。

「冥が何故、俺一人を謎の場所に飛ばしたのか。」

流れで考えるならば、「空知要をこの場所へ飛ばすこと」が王原の件を解決するために必要なことなのだろう。で、あるならば…

突如漂い始めた腐臭が鼻を突いた。空知要は思考を中断して、勢いよく振り返った。空知要の背後に全身を灰色の外套に包んだ人物が、漂う海月のように上体を不気味に揺らしている。コンクリートで膝下を固められたかのように、身じろぎすることもできずに立ち尽くす空知要に目もくれずに、灰色の人物はぎこちない動きでトンネルに向かって進んでいく。

ぼとりと空知要の足元に黒いナニカが落ちた。

黒いナニカは、謎の人物の顔から落ちたように見えた。

目線だけを足元に落とす。

黒く蠢くそれらは、無数の蛆の塊であった。黒に見えたナニカは酸化した血のようだ。突如、気味の悪い思考がわき起こる。蛆と血の塊を口に含んだならば、自分はどのような感情を抱くのか。わからないならば、行動に移せばいい。

目の前の汚物に手を伸ばし、親指と人差し指で摘み上げ、口に運ぶ。


“簡単なことだろう”


目や肌に刺激を感じるほどの腐臭とおぞましい思考に、空知要は自由な右手で自身の口元を覆った。覆わなければ、あのまま汚物を見つめていたら、突如沸き起こった思考通りの行動をしていたことだろう。混み上がる胃液を飲み込み、脂汗を流しながらも吐き気に耐える空知要を尻目に、”蛆が湧く者”はトンネルへと歩みを進めていった。


ずるり

ずるり


夥しい蛆を食らい、新たな蛆を生み出す者、異様さに慄きながらも、空知要の頭は冷静に思考する。

(背が低すぎる。大人ではなく子供か。)

生じた疑問はトンネルへと歩みを進める姿に注目したことで解決された。”蛆が湧く者”は動かない膝下を引き摺り、辛うじて役に立つ膝で歩き回っていた。故に、歩くという動詞は目前の異様な存在には適していない。這いずっている。その動詞につきる。



ずるり

ずるり



空知要の脳は理解まで追いついていなかったが、“空知の目”は理解していた。

トンネルの中を進ませていいものではない。

トンネルの向こうの世界にとっても害悪なものだ。

トンネルの向こうとは。

トンネルの向こうには不死国がある。

冥や誘惑の奉神たちが住まう、妖しき者共が住まう儚くも美しい国だ。


空知要の目は、不死国を瓦解させるための最初の一手が、自ら盤上に身を進めていく様を捉えていた。


トンネルの壁へと身を預ける。

場に漂う腐臭と、”蛆が湧く者”が這った跡に残る蛆と黒い血を視界に入れないように俯いた。

あれは、空知要には止められない。

不死国に行ったこともないため、不死国が瓦解することに憐憫はあれど、悲哀はない。

ただ、見逃さざるを得ない自分に無性に苛立ちを覚えるだけだ。1人反省会を繰り広げる空知要に、人影が重なった。

先程とは異なり、腐臭はしない。

正常に存在する者の影だと気づいた。



春の新芽のような柔らかな香りがする。

浴槽に沈む直前に嗅いだ香りだ。

「早くも冥に飽きられたか?空知要。」

熟しすぎた赤に鋭い眼光を隠した青年が、空知要の目前に立ちはだかっている。

王原の探し人、幸福の奉神が立っていた。

彼の奉神の姿を見て、冥の奉神の意向を理解した。

冥の奉神が空知要を不死国へと放り投げた目的は、蛆が湧く恐ろしい者を止めることではない。

こんな面倒そうな男の相手も俺には荷が重すぎるよ、なんて独りごちる。

だがしかし、蛆が湧く謎の存在よりは、見た目だけは人間と同じ存在を相手取ったほうがましではある。空知要はダンゴムシの様に小さく丸めていた姿勢を正し、右手を差し出した。


「俺が飽きる方が早いかもしれないよ。

 何やら仕向けられた者同士で仲よくしよう、レンジ。」


浴槽に沈むまでの数時間で、何度か呼んだ彼の名前を呼ぶ。

「俺は電子レンジの奉神ってわけじゃないんだがな…。」

林檎色の髪をかき上げて、にやりと彼は笑みを浮かべた。

歯を見せずに、引き結んだ唇の端を軽く引き上げる。目元も柔らかく弧を描き、見る者を安心させる笑みだった。

電子レンジから出てきたときに浮かべていた笑みと同じものだ。

今なら、彼の笑みが心の底から浮かんだものではないとわかる。

「俺にあんたに付き合わなきゃいけない道理はないんだが、お話する良い機会だ。

 あんたの目的が終わる時までは、付き合おう」


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