第2話 空知
どこの家具店で購入できるのか想像もできない、青海波のソファに誘惑の奉神は痩躯を沈めた。竹節虫のような、長く骨ばった脚はソファの外へと投げ出されている。
仕事を終えた社会人の疲弊した姿を眼前で見せつけられ、心底社会に出たくは無いと感じた空知要であった。相手は社会人どころか神であるのだが、神の世にも苦労は付き物なのだろう。
「おまえさんも、そっちの目が悪くなりそうなソファに座りな」
目が悪くなりそうな、と称された工の字を組み合わせた柄のソファに腰を落とす。内部のバネが強く、変に沈みこまないソファは空知要好みであるといえよう。
空知要がぼよんぼよんとソファを堪能していると、生暖かい視線を感じた。
「しばらく遊んでていいぞ。おじさんは気にしないからな。」
「あ…遊んでないですよ。いいソファですね。」
空知要が頬を染めて雑に話題を逸らしても、追求して茶化すことのない誘惑の奉神の姿に少しの尊敬を覚える。冥が相手なら簡単には流されてくれないだろうから。ここぞとばかりに、にこやかな笑顔で追求してくる男の顔を思い出して顰め面を作る。
誘惑の奉神は眉間の皺を残しながらも、口端を引き上げるという器用な表情を浮かべて見せた。眉間の皺は最早、彼の顔のパーツなのだろう。
「奉神に知り合いがいると言っていたな。よほど仲が良いらしい。」
「良くないですよ。何の奉神か、とかは聞かないくていいんですか。」
「探題の目を欺けるやつはいないさ。奉神が現国に渡るには、いくら位が高かろうと探題を通過しないといけないからな。」
「…“すべてが開いた“とか言ってたけど…」
「痛いとこを突くな…。」
誘惑の奉神は、忌々しげに舌打ちをする。お手本の様な高らかな舌打ちである。天晴。
「クソ現象のせいでな、お前が遭遇した童心の奉神やらが現国に現れちまってるんだ。こちとらてんてこ舞いだぞこの野郎。」
凡そ元凶と思われる、お菓子食べまくり男を思い出す。2週間と少ししか経っていないのに、人の記憶に残ることが上手い奴である。しかしだ。空知要は某奉神のことを脳内で隅に押しやる。考えるべきことは、今はいない男のことではなく、現状の把握と誘惑の奉神の目的である。
「俺に教えたいことがあるから、貴方が所属する組織の事務所に連れてきたんですよね。」
「話が早いって言われ慣れていそうだな。おまえさんの言うとおりだ。俺たちが所属する現」
「私たち現秤探題は、“空の下のすべてを知る者”の瞳に用があったんだ。」
誘惑の奉神の疲弊の滲む低音に重なるようにして、幼くも色香を感じる声が聴こえた。
「さっきぶりだ。たくさん走ったようだけど、腕の調子はどう?」
「貴方に走らされたようなものなんだけど…。」
教室前で見えた白い髪の少女が、空知要の座るソファの肘掛に腰掛けていた。空知要が、「そこは肘を掛ける場所なのだが」と嗜める視線を送るも、少女はたじろぐ様子を見せなかった。思えば彼女も奉神なのである。人では無いのだから、経ている年数も違うはずである。一人で貫禄の理由に納得していると、白糸が空知要の灰の瞳に迫った。灰と紅が交差する。
「不思議な瞳だな。すべてを知るにしては無垢すぎる。」
空知要の両頬に手を添えた少女は数十秒ほど動きを止めた。少女と少年の戯れを見せつけられた誘惑の奉神は、砂糖と苦虫を一緒くたにして噛んだような顔をしている。
「婆よ、説明を奪うな。」
「お主がかったるいからだ。さっさと説明しろ。」
「婆が坊主から離れたならな。」
婆と呼ばれた少女は、容姿には似合わないが態度を考えれば納得できる呼称を否定することはなく、鷹揚に首肯する。空知要の頬から手を離して誘惑の奉神を見つめた。彼女が横を向く瞬間に、白い髪が空知要の頬を叩いたのは、偶然か必然か。文字通り神のみぞ知るというやつである。
「“すべてが開いた”日から、奉神の石化という異変が確認されている。数十年前か数百年程前かは記憶が定かではないが、空知の名は“空の下のすべてを知る者”として不死国では有名なんだ。ただでさえも最高位の奉神が失踪して久しく、不死国の住民は不安感を抱きながらも表面上は凪ぎの平和を保ってきた。内情は、指先一本で崩れる砂の城なんだがな。」
寝転がったままであろうと、理路整然と奉神が空知を必要とした理由を教えてくれる。
「神も人に縋りたいときがある。石化の原因や解除方法を探すべく、我ら探題のクソ上司、秤の奉神が俺たちに命じたのさ。要約するとこうだ。『空知にすべてを教えてもらってこい。何か迷っているようであれば手助けしろ』奉神は、例外を除いて人と関わることはしないから、歴代でも奉神に接触した空知はお前さんがはじめてだろうな。」
俺たちも人と直接話す機会はそう多くないから新鮮な気持ちだと感想まで述べてくれる。
優しさと気遣いを与えられても、空知要に言えることは一つである。
「おれは何も知りませんよ。」
「空知として本領発揮できるように探題も手を尽くすさ。
それはさておき、おまえさん。」
「何ですか。」
重たげな目蓋の先には、かつて人々を誘惑した虎の瞳が存在している。
「なにか、忘れていやしないか?」
2週間前に、薄暗い浴槽の中で空知要に投げかけられた言葉を思い出す。
朧げな青い光に照らされた、鼈甲の瞳が焦がれるように輝いた。
『一緒に国を滅ぼそうって、君が言ったんじゃないか。』
仮にかつての空知要が冥の奉神に言ったとして、物騒な内容を覚えていない訳がない。
空知要は目を伏せた。
空の下のすべてを知るという灰の瞳は閉ざされる。
俺は絶対に忘れてなんかいやしない。




