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天憫罪(旧題:浴槽は舟には成り得ない)  作者: 露おちぬ
第2章 戸が喰らうは神の痛切
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第1話 移動

空知要は誘惑の奉神(ぶしん)と相対していた。

「念の為聞くが、空知についてお前は理解しているのか。」

「名字ってことぐらいしか知りませんよ。」

誘惑の奉神は、空知について聞いてくるが、俺の名字ということしか知らない。

それに日本中に空知さんなんて数え切れないほどいるはずだ。誘惑の奉神は空知要の言葉に嘘はないと感じ取ったようで、眉間に手を当てている。頭が痛くなるようなことがあったようだが、今は他に気にすべきことがあると思うのだ。

「俺たち、なんで水に浸かってるんですか。」

誘惑の奉神と空知要は二人そろって、動物園のガラス張りの展示室のような水場に立っていた。


足、冷たい。


…………


遡ること2時間前、現国(うつしくに)に顕現を試みた童心の奉神を止めるべく校舎裏に集合した

空知要、端山賢、間川智の三人は、目の前で奉神が“石”に変わるさまを目撃した。

端山賢と間川智の前世は、童心の奉神の両親であったらしく、一時的に記憶を取り戻した二人は我が子の石化に酷く狼狽えていた。現国に不法入国(使い方は間違っていないはずだ…)をした童心の奉神を捕縛しに現れた誘惑の奉神によって連行された空知要は、第3校舎の窓を通過した瞬間に水の中にいたというわけだ。


置いてきてしまった端山(はやま)間川(まがわ)、小さな石になった童心の奉神のことが気がかりだった。

「この場所も気になりますが、なぜ端山と間川も置いてきたんですか。」

「二人は転生体だとしても、本来は不死国に関りがない人間だからだ。反対に、おまえさんは不死国(しなずのくに)に関りがあるから連れてきたんだ。さて、おまえさんは不死国のことについて奉神のことしか知らないという認識で間違いないか。」

端山と間川二人は転生体で確定なのか、と独り言ちる。

余談であるが、空知要の「転生」にまつわる知識は、両親の韓国・中国ドラマ好きに端を発する。

「その通りです。」

空知要の曇りない眼に、誘惑の奉神の苦虫を数十匹嚙み潰したような顔が映りこむ。

「あの糞上司、適当なことを抜かしたな!?空知は全てを知っているんじゃなかったのか!?こいつが全部知ってる前提で遠回しに助言したんだぞこっちは!」

「なんなんだこの空知への凄い期待は…。」

誘惑の奉神からの助言なんて思い当たる節はなかった。しかし、頭の中の引き出しを引っ張ってみれば、夕闇の中で間川と端山の身体を乗っ取った存在の言葉が思い出された。

『戸は部屋に、路に、繋がっている。善きにしろ悪しきにしろ繋がっている。』

「あの意味わからん言葉か」

目の前で怒りだした大人に一線引いた冷ややかな視線を向ける。

「その意味わからん言葉は、俺が上司に言えと言われていった言葉なんだよ。」

情緒不安定気味の不健康な男は、背広の内ポケットから赤い菓子箱を取り出す。袋をピリリと開けて、細い棒状の菓子を口に運ぶ。随分と不味そうに食べるものだ。

「お菓子好きなんですか。」

到底好きそうには見えないが。

「あ?これか?糞上司がタバコは好かんから、口寂しいならこれを食ってろと寄越してきたんだよ。別段食べなくてもいいんだがな…なんだ、菓子は嫌いか。」

「お菓子は好きですよ。俺が最近知り合った奉神もずっとお菓子を食べてるので、奉神は皆お菓子好きなのかと。」

「それは…」

息を飲み、眉をひそめて言葉を発した誘惑の奉神だったが、ガラスを必死に叩き大声で叫んでいる様子の女性によって遮られた。

「なんか嫌な予感がする。」

幸福の奉神と出会ってから約2週間で身についた危機察知能力は、今回も空知要を裏切らなかったらしい。

「最近、どの戸も調子が悪いんだよな。」

誘惑の奉神はオールバックをくしゃりと掴んだ。曰はく、2週間前に起きた“すべてが開く”現象以降、許可を得て現国に顕現している奉神が各地への移動のために使用できる戸の調子が悪い。具体的には、現秤探題の部署に戻ろうとしたのに地方の市役所のトイレに繋がったり、スーパーの関係者以外立ち入り禁止の倉庫、動物園の猿山など、散々な場所に繋がってしまっているらしい。

「それでも何度か試せば、目的地には着くんだよ。」

「お疲れ様です。」

「その余裕もいつまで続くかな。お前さん、後ろを見てみな。」

絶対嫌な展開だ。長い髪のお姉さんとかがいませんように…。

恐る恐る振り返った先には、大きく口を開いた(ワニ)が存在していた。

「爬虫類園かよ!」

「次はどこに繋がってるかな~」

「は…?ちょっ…」

鰐の口が閉まる瞬間に、誘惑の奉神は空知要の手首をつかみ、展示室の扉に手をかけた。

厳重なはずの展示室の扉に注連縄が現れる。

「開」

誘惑の奉神が一言呟くと、注連縄は中心で切れる。

誘惑の奉神は、勢いよく扉を開き自身と空知要の身体をわずかに空いた隙間に滑り込ませた。

扉の向こうで鰐が勢いよく顎を閉じた光景が見える。

閉じた先に自分の頭がなくてよかったと心底ホッとした空知要であった。


不思議な感覚も特になく、戸を開き潜り抜けた先には、神社の社務所に似た光景が広がっていた。

鼻腔が紙と墨の香りに満ちる。何とも居心地の良い空間だ。心なしか空気も澄んでいるように感じる。

「運がよかったな。最近じゃ2回目で目的地にたどり着けることは少ない。

 お前さんは戸に愛されているらしい。」

冗談めかして語る彼の姿に、不健康そうな見た目に反して陽気な面も持ち合わせていることを察する。

黒革靴の踵が木造の床を鳴らす。硬質な音とも柔らかな音とも表現できない、木特有の柔らかくも芯のある音が響く。

「ここは現国における不死国の住人の取り締まりや裁判を取り仕切る場所だ。本来なら人間は立ち入ることさえできない。」

誘惑の奉神は振り返った。先ほどの愉快気な表情は鳴りを潜めて、仕事人としての責任感のある面持ちだ。

「つまりはじめての人間だ。こんにちは空知要。ようこそ現秤探題(げんしょうたんだい)へ。」


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