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逃げたところの花

 純白の光沢が目立つ眼科のドアを背にしながら僕は立ち尽くす。手には汗、手だけではない。背中、脇、足の裏。全身が妙に湿っている。それに反し、口や唇はカサカサに渇き、水分の循環がおかしくなったのかと錯覚するばかりだ。

 また、僕は逃げてしまった。自分の弱さ、立ちはだかる境遇から僕は逃げた。もう、なにも言う資格もないだろう。生憎、喉も僕が声を出すのを拒んでいる。こんなことを続けていたらきっと僕は自分を見失ってしまう。今日はもう帰ろう。

 帰る、という言葉は逃げるとどう違う。そんなことを考えてしまうほどに僕の心には深く刻まれてしまった。すべては自分のせいだと分かっているのに。自分が発した言葉のせいだと分かっているのに。ただ僕は、人を好きになっただけなのに……。

 もう嫌だ。なにもかもが嫌だ。僕は内科に向かって歩き出す。

 もし僕が内科じゃなかったら、眼科に所属していれば。昼に彼女に会ったとき、上手く話が出来ていたかもしれない。かっこつけるほどにはないにせよ、せめて嘘はつかないほどに。

 病院の壁はどこに行っても白だ。たまにある案内の緑や青の看板がよく目立つ。どれだけ歩いても白しかない。変わり映えのない景観。当たり前だと思っても今はもどかしかった。

 僕は変わりたいのか、変わりたくないのか。

 変わりたいのに、どこか自分の中のプライドや、体裁が邪魔をして変われない。それは本当に心の中から変わりたいと思っていないから……?

 変わらない壁の白色は安定感がある。ここにあるべくしてある存在、そう思わせる何かに満ちている。

 内科までの道は行くときよりとても長かった。気持ちの持ちようだろう。行くときは緊張していたが興奮もしていた。それが今では。

 

 内科に着いた僕は今、すごい顔をしているだろう。なるべく誰にも見つからずに帰ろうと思ったのだが、

「お疲れ様です、先パイ。先パイ……?」

 目立たないように行動するときに限って不自然ゆえに目立つものだ。不自然が理由で挨拶されたわけではないだろうが。

 声の主は関口だ。背中から声がしたが先パイという独特なニュアンスがはいった呼び方をするのはこの病院内でこいつだけなのですぐに分かる。気分的には話したくはないが、再び心の痛む罪悪感に襲われそうだったので振り向いて答える。

 関口はまだ着替えてはいなかった。

「あぁ、お疲れ様、関口さん。あれから大丈夫だった?」

「え、えぇ、まぁ。おかげさまで……。それより先パイこそ大丈夫ですか?なんかお昼のような元気ないですよ?」

「これは……」

 仕事で疲れて、と僕は言おうとした。まただ。嘘をついて逃げようとした。僕の心の中に嘘と逃げる気持ちはもう心の奥底に棲んでしまっているのかもしれない。自分が信じられなかった。

 でも口には出していない。いや、もしかしたら身体が拒否してくれたのかもしれない。

「先パイ?どうしました?」

 途中で言葉を切ったため心配して関口が尋ねてくる。

 着替えていないということは、仕事を今までしていたのか。僕と同じように個人的な事情があったのか、僕を待っててくれたのか……?

 一番最後の答えはないだろう。

「もしかして、疲れてます?」

 本心ではないが言おうと考えていたことを言われて少し驚いた。尋ねる関口の目はいつもより一回りくらい大きい目をしている。好奇心も含まれているのだろうか。

「あたしもお昼に先パイに強引に連れ出してもらえてなかったらこんなに疲れてないですよー。あっ、今のは冗談ですよ」

 先ほどまで大きく開いていた目を今度は瞑って笑いながら関口は言う。僕が返事をしなくても関口は構わないといわんばかりに口を動かす。

 不思議と僕が口を動かさなくても違和感のない雰囲気が互いの間に漂っている。

「先パイのおかげで、ちょっとだけ元気でたんですよ?」

「えっ」

「先パイが、あたしのことあんな風に見ていてくれてるのかって。挫けそうだった気持ちも先パイが立て直してくれました。あたし、本当に失敗ばかりでダメダメで。看護師じゃないほかの友達にもアンタが看護師やってるのはこの世の矛盾とまで言われてて。あっ、別に悪口で言われてるわけじゃないですよ?ちゃんとした子でいい友達なんですけど。でも、自分の中では深刻にもうそろそろ引き際なんじゃないかって思っていたんです」

「関口さん……」

 辛い思いをしていたんだな、と思う。他人事のような自分の感情に腹が立つ。関口さんはこんなにも僕を頼って。飾りつけぐらいにしかならない上辺だけの言葉でここまで僕を信じてくれて。

 気付けば、僕の頬には涙の跡が次々と刻まれていく。

「えっ!先パイ?どうして泣いて……。あっ!あたし、変な事言っちゃいました?ごめんなさいっ!」

「ううん、ちがう。関口さんが僕のことを信じてくれてると思ったら、嬉しくなっちゃって」

 僕は涙声でそう口にした。情けない。実に情けない。一人の女の子の前でこんなにも次々に涙の粒を足元に落として。まるで小学生のようじゃないか。

「先パイ……」

 すこし柔らかな顔でそう言ってくれた関口はそれ以上は何も言わず自分のかばんからハンカチを僕に差し出す。ピンクの肌触りのいいハンカチだ。

「ありがとう」

 受け取ってハンカチを広げることなく頬を二回拭く。

「先パイって、可愛いですね。」

 不意にそんなことを言われて鼻水を噴出しそうになる。

「や、やめろよ……」

 何故か分からないが照れくさくなる。少し恥ずかしくなりながらハンカチを関口に返す。

 関口は微笑みながら受け取る。今の言葉は嘘じゃない……?

 彼女になら言ってもいいかもしれない。彼女なら聞いてくれそうだと思う。アドバイスは貰えないにしても少し自分の中で整理がつくかもしれない。

「関口さん。聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな」

「先パイ?どうしました?」

 少しシリアスな雰囲気で言ってしまったからだろうか。関口は少し怪訝な顔をして僕の顔を覗く。

「僕は、逃げたんだ」

「えっ?」

「僕は自分から逃げたんだ。責任をとらないで。お昼あんなに偉そうなことを言ったんだけど」

 関口は黙って聞いていた。声が出なかったのか、出したくなかったのか。

 沈黙は数秒であっても気まずい雰囲気が漂い始める。モヤがかかったような肌を嘗め回す感触からまた逃れたくて、

「お昼のことは嘘」

 だと思ってくれ、と言おうとした時だ。

「嘘なんかじゃないです!先パイはちゃんとあたしを見てくれてます!」

 急に関口は大声を上げ前のめりになって抗議する。

 関口はまるで僕の言うことが予想できたかのように声を被せてきた。

「関口、さん……」

「う、うまく言えないですけど、先パイはちゃんとあたしを見てます。今日のアドバイスだってすごく心に響きました。もう一回がんばってみようって思えたんです。そのとき先パイが何を考えてたか分からないですけど、百パーセント嘘で言ってたようには聞こえなかったんです。だから……」

 徐々に関口の声は小さくなっていく。

 僕は結局何をしてもらいたいのだろうか。慰め?感謝?容赦?

 自分でもどうして欲しいのか分からない。でも。

「先パイのお話、あの……あたしでよかったら聞きます。」

 関口の澄んだ声は僕の心にすんなりと染みていく。人を癒やす効果でもあるのだろうか。先程塞き止めた涙が再び溢れそうになる。

「甘えても、いいのかな」

 自分に言ったのか関口に言ったのかよくわからない言葉がポツリと零れた。しかし本心だ。僕は誰かに甘えたかったのかも知れない。

「たまには、後輩の言うことも聞いてもいいんじゃないですか?」

「いつも聞いてるよ、関口さん」

 冗談めかして言う関口に微笑みながらそう返したところで突然、関口の人差し指が僕の唇に触れるところまで近づけられる。

「結花って呼んでください」

 女の子が名前で呼んで欲しいとお願いする。これには大抵、深い意味があると……あるのか?

「え?……いいけど、なんで?」

「せっかく先パイの相談に乗ってあげるんですから他の後輩とはちょっとだけ区別して欲しいんです」

 言わせないで、と言わんばかりに膨れ顔で少し早口に言う。

「わかったよ、結花」

「わかりましたか?先パイ」

 そう言うと関口、いや、結花は顔を崩して微笑む。そんな理由で名前を呼ばせるなんてガキっぽいと思った。ガキっぽい奴だと思う反面、自分もそんなガキっぽい奴に甘えるのだから大概だろう。

 しばらく結花はニコニコしていたがやがて気付いたように細かった目を見開く。

「それでは、先パイのお話を聞きにどっか行きましょ!」

「なんか、急に元気になったね」

「そ、そんなことないですよ!ほらはやく先パイも着替えて!」

 結花の両手が僕の背中を押し出し、自らは更衣室に颯爽と入っていった。

 

 しばらくして着替えた僕と結花は共に病院を出た。

「結花はいつも電車だった?」

「そうですね、たまに遅刻しそうなときはタクシー使っちゃいますけど」

「たまに、ねぇ?」

「なんですか…」

 すこし頬を膨らまして反論の姿勢をとる。結花が元気になったのもそうだが、僕も段々元気を取り戻せているようだ。

「どっか行きたい店あるか」

 歩きながら結花に尋ねる。歩幅はお互い揃っている。

「んー、そうですね」

「とりあえず歩いていけるところか、僕の車に乗って行くところかは今決めたいな」

「先パイの車に乗りたいです」

 一瞬で返ってくる、即答だった。

「わかった、理由は聞かない」

「え、なんでですか」

「僕に都合が悪そうだから」

「そんなことないですよー」

「じゃあ、とりあえず僕の車まで歩くよ」

「はーい」

 そんなやり取りをしながら車まで二人で歩く。隣を見れば女の子。こんな経験過去を振り返れば数えるほどしかなかった。

 それを意識した途端、僕の心臓は鼓動を早める。

 私服姿の結花は子供っぽかった。しかし、ナース服に合う化粧をしているせいか、服とのギャップは凄まじいほどある。

 しかも化粧をしても若干残る幼い顔立ち。化粧は大人びた印象を受けさせるがよく見ると顔立ちは幼くて……。

 あーもう!だめだ、意識を逸らせ。

「結花は職場内で仲のいいやついるの?」

「そうですねー、沙耶香先パイは結構面倒見てくれてると思うんですけど」

「沙耶香……、あぁ、菊池か」

「そうです、先パイも沙耶香先パイとは仲いいですよね」

「あぁ、あいつはなんか気が合うっていうか……」

 などと離している間に車に着く。上手く意識は逸らせたようだ。

 風が強かったのか車は一日放置したように砂の付着が目立つ。

「いいよ、入って」

「ありがとうございます」

 助手席に結花を誘導し、エンジンをかける。

「カッコいい車ですねー、ん?」

「どうした?」

 キョロキョロと車内を見回す結花。あまり恥ずかしいからそんなにキョロキョロしないで欲しいのだが。

 しかしどうやら結花は見ているのではなく嗅いでいるらしい。クンクンと鼻を鳴らして犬のようにそこら中の匂いを嗅いでいる。

「なにしてるんだ……?」

「いえ、とてもいい匂いがですね」

「いい匂い?」

 匂いがするものなんて置いただろうか。車の中に置いてある消臭剤も無香料のを使ってとくに香りを付けているわけでもないし。体臭?いや、そんな。体は清潔にしているつもりだ。

 もしかして。

「パンの匂いがするのか?」

「あ!それですそれ!パン置いてあるんですか?!」

「いや、今日パン屋に行っただけだ」

 そういうと結花は目を輝かせながら。

「先パイ、パン屋に行きましょう!」

 本日二回目となるBakery-N訪問の予定が立つ瞬間だった。

遅くなってしまい大変申し訳ないです。これからも暖かく見守ってくださると嬉しいです。

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