嘘を本当へ
「あたしもみんなの笑顔がみたいです」
「僕も手伝うよ」
つい今後輩に言った言葉は頭の中をぐるぐるして僕に吐き気をもたらす。勢いに任せて言ってしまった上に、こうして自己嫌悪に陥っているということは言わないほうがよかったんだろうか。
真っ白で無機質に冷たい壁にもたれながら先程から何度も考えている。確かに、あのままの関口を見るのは辛かった。なんとかしたかった。自分を棚に上げてまでなんとかする必要はあったのかもしれない。
しかし考えてしまう。自分のケジメについて。僕は逃げたんだ。それが自分で追いやった心の奥で怪しく響く。
舌打ちをして気持ちを切り替える。今は仕事だ。長いと思われた休憩も今は終わりもう五分経つくらいになった。
これじゃ遅刻だ。早く向かわないと。もたれていた壁に身体を押し付けその反動で身体を起こす。そのまま前傾姿勢になり持ち場に小走りで向かった。
仕事をしている間はなにも考えずに無心であった。仕事中の五時間はあっという間で、もうあと三十分足らずで帰れるという時間になっている。その間関口もどうやら普通だったらしい。何故、今になって関口は僕に話してくれたんだろう。溜め込んで発散してしまったのか、それとも今日のミスが偶々心に深く突き刺さったのか、僕には分からない。
なんにせよ、説得力なさげな僕の言葉がちゃんと届いてくれているようで安心した。いや、関口は俺が逃げたことなんか知らないんだから説得力がなさげかどうかなんてわからないか……。ただ、先パイのアドバイスを真摯に受け止めた。それがまた背徳感を呼ぶようで息が苦しくなる。やめよう。
そうだ、今は他に考えることがある。桜井菜々。僕は嘘をついた。桜井菜々の担当の看護師になった、と。
昨日会ったときと違う、白いふわふわとした服の上に赤いストールを羽織っていた姿。初めて聞いた彼女の声はとても透き通っていて彼女に似合う、とてもかわいらしい声だった。やはり僕は桜井菜々に惚れている。これは紛れもない事実だ。ならば、僕がすべき行いはひとつしかない。
「嘘を本当に変える。やってやる」
僕は意気込み、呟く。
僕が彼女の担当の看護師になる、それで全て辻褄が合う。
方法は簡単だ。しかし、問題となるのはその行程。
僕の所属は内科だ。対する、桜井菜々が通うのは眼科。同じ科なら担当も変えやすいし、そもそも担当医はいても担当の看護師なんてまずつかない。看護師なんて正直誰でもよいのだ。しかし桜井菜々の病気や、今後を考えれば担当医だけでなく担当の看護師としてお願いしても受け入れられる気がする。一生付き合っていく病気であるし、不可能ではないと思う。
今日は朝から仕事が少なく、午後も忙しい用事も少なかった。おかげでスムーズにいけたし、このままこの仕事が終われば定時で帰れるだろう。そのあと、桜井菜々の担当医に交渉しに行く。嘘が本当に変わることが出来ると思うと気が楽になるが緊張感も高まる。
あと三十分、集中してがんばろう。
患者の状態が記入されている紙を張られているバインダーごと手元に引き寄せる。それを見ながらキーボードを打ち込みPCの画面を文字で埋めていく。
カタカタと響く自分のキーボードの音が耳心地よい。自分も含めた看護師が書いた入院患者の体温、血圧などは紙に一度書きそれをまとめてPCに記録するという方法を取っている。それとは別にタブレットがあるがこれは患者の情報や特記事項が他科の入院患者も含めてすべて載っているというものだ。タブレットに記録してデータ送信したほうがいいとは思っているのだが、アナログで書く様子が患者に見られたほうが受けがいいという理由だけでこんな規則になっている。
たしかに体温測ってタブレットを触っているより、紙に書いたほうが印象はいいとは思うけども。
しばらくしてPCへの記録が終わる。保存し、ソフトを閉じる。今日の仕事はこれで終わりだ。
関口の様子も気になったが、今からは自分の落とし前をつけなければならない。桜井菜々の担当医の名前は梅原大二。眼科の診療室も把握している。
今の時刻は六時半。外来診療は終わり、少し落ち着きを見せていることだろう。もっとも、朝から忙しくないのだが。
立ち上がり、体中の毒をすべて出し切るイメージで深呼吸をする。僕は梅原先生の元へ歩を進めた。
なんと言えば自然なのだろうか。
「桜井菜々の担当をさせてください」
用件は分かりやすいが理由もなく突然すぎる。怪しい上にそもそも僕は眼科の人間ではない。看護師に対してもある程度自由の幅はあるとは思うがとても直球に言ったところで相手はしてもらえないだろう。
「桜井菜々とは面識があるので」
いや、それでは嘘に嘘を重ねてしまう。それは避けたい。経験上それではいい結果にならない。今を誤魔化し信用された上で真実を話すのは今はすこしリスキーすぎる。
「眼科には以前から興味がありまして」
どうしてこのタイミングなんだ。それにこれでは運よく眼科に転科出来たとしても、桜井菜々の担当につけるとは限らない。
「桜井菜々に興味があって」
確かにそうではあるが、理由にもならない。
「眼科の看護師と交代させてください」
交代してくれる看護師を知らない。そもそも今まで眼科に関わったことすらなかった。だから眼科の位置も曖昧だったのである。
だめだ。いい方法が思いつかない。意気込んで歩き始めたのはよかったが自信も段々なくなってくる。焦れば焦るほどいい案は思いつかなくなる。しかし、足だけは止めるわけにはいかない。眼科まであと十メートルで着く距離にまで来てしまったのだ。今更足を止めても意味はない。
自信……。昼に関口が口にした言葉が蘇える。
「あたし、自信が持てないんです」
顔を赤くしていたのは、泣きそうなのを堪えていたからだろうか。自信が持てないのは今の僕も同じだ。緊迫した空気を僕一人だけ感じて歩いている。他のすれ違う患者や、看護師、医師はみんな和やかな笑顔だ。彼らは自信を持っているのだろうか。
僕にも自信はあったのだろうか。
焦りと不安でどうしてもネガティブなことを考えてしまう。気付けば、もう眼科のドアの前に立っていた。
こうなったらなる様になる。無理やりにでも自信を持たせるための自分へのエールを小声で低く呟く。光を反射する真っ白いドアを手の甲で二回ノックする。感じるドアからの熱は冷たい。コンコンと響いた後、すぐに中から返事が返ってくる。
「すみません。内科の看護師の相川と申します。梅原先生はいらっしゃいますでしょうか」
中から聞こえたどうぞ、という声に少し遅れてドアを開ける。
「失礼します。突然申し訳ありません。折り入って相談したいことがあるのですが……」
中には男性一人だけ。この人が梅原先生だろう。本当の年齢も分からないがかなり若く見えた。きっと僕より五歳くらい年上なだけじゃないだろうか。
優しそうな目をした梅原先生は少し笑いながら言った。
「あはは、敬語なんて使わなくていいですよ。普段、あまり使わないでしょう?」
「あ、いや、……はい。」
「医師と看護師なんて同じ医療従事者なんですがね。なんでこう上司と部下みたいな関係になってしまうんでしょうか」
僕の話など聞いていなかったように、梅原先生は話し始めた。
「学力の違いなどという人たちもいますが、業務内容が違うんだから仕方ないですよね。看護師の方には看護師の方なりの仕事があるでしょうし。プロフェッショナルや、専門家として見れば、私たちは同等の存在のはずなんですがね」
少し不満気に梅原先生が話すのを僕は黙って聞いていた。
「あぁ、ごめんなさい。つい、関係ない話にいってしまうのがクセで。それで、お願いというのは?」
「昨日、初診で来院した、桜井菜々という患者をご存知ですか?」
取ってつけたような自分でも苦手と意識する敬語に梅原先生はすこし微笑んだ。確かに梅原先生は正しいとは思うが梅原先生以外の先生の中には上下優劣をハッキリさせる先生もいるからだ。
敬語は得意じゃないがいざ先生を目の前にするとぎこちのない言葉の羅列を口にしてしまう。
梅原先生は瞳を上に持ち上げ思い出す仕草をする。
「桜井さん……、昨日初診の全盲の方ですかね?どうかしたんですか?」
フルネームで伝えてしまったからだろうか。少し眉を寄せて怪訝な表情を僕に向けてくる。
「単刀直入に申し上げますと、僕を彼女の担当の看護師にして欲しいんです。」
寄せた眉は今度は横にばっと広がり目も大きくなる。感情の豊かな人だな、と感じた。
確かに驚くだろう。急にこんなことを言うなんて何か特別な事情があるに違いない。しかし、僕の理由はあくまで個人的なもの。これをどう伝えようか……。
「えっと、転科という形で……?相川さんは内科ですよね?」
予想通りの返答。しかし答えなど用意していない。
「駄目でしょうか……?」
なんて厭らしい答え方なんだろう。性悪だと思われても仕方のない。しかし今はこれしか思いつかない。
梅原先生は困ったように再び眉を寄せたまま僕に言う。
「いやいや、駄目というより……。転科の時期でもないですし……。それに今内科の看護師は一人抜けても大丈夫なんですか?」
そうだ。僕が抜けていい訳がない。しかも特別な理由もなく。
僕はその質問には答えず再びお願いする。
「無理を言っているのはわかっています。でもどうしても僕は……」
「叶えてあげたいですけど……。眼科の方は忙しいですが人数が足りてないわけでもないですし、内科さんの方が正直言うと足りない感じがするのですが」
「……彼女が、彼女のことが心配なんです」
僕は何を言っているんだ。たった一人の女性に惚れただけでこんなに周りの人間を困らして。
「お知り合いですか?」
患者の名前をフルネームで聞いたことにようやく合点が言った様子で梅原先生は聞いてくる。
しかし、僕の口は開かなかった。唇は乾き、喉の奥はピリピリとした膜に包まれている。
何で、僕は桜井菜々の担当になろうとしたんだろう。頭の中は根本に戻る。彼女が好きで、嫌われたくなくて嘘をついた。嫌われたら終わりだと思った。だから僕は嘘を本当に。あれ?
「言えない様な理由、なんですか?」
ずっと黙っている僕に少し心配した様子で梅原先生は尋ねてくれる。
言えない様な理由。梅原先生の言葉が反芻する。一人の少女に惚れた。それが理由で僕はここにいる。裏を返せば、それだけだ。嘘を本当に?そんなこと最初から無理だったんじゃないか。落とし前とか格好つけても結局、彼女に嘘をついた事実は消えない。
「やっぱり無理ですよね、あははははっ」
努めて笑顔で僕はそう言う。
梅原先生は困った顔のままだ。
「申し訳ありません、お手間を取らせてしまって。用件はこれだけです。ありがとうございました」
なんとなく間が気持ち悪くなり早口にそういってしまった。途端、既視感に襲われる。
桜井菜々のときと同じ、あの感覚。あの時もそうだ。僕は早口に言って逃げた。
逃げた、というワードが僕の胸を締め付ける。
もう、逃げたくないと思ったのに!
しかし気付けば、僕の身体はもう部屋の外にあった。
シリアスすぎるのもよくないということで番外編で官能小説を書きました。
パスワードは主人公、相川の同僚の下の名前です。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3668692.doc.html




