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寝顔は

 悲劇の食欲を丸出しに暴露し売店を出た僕と菊池は分かれてご飯を食べることになった。なんでも菊池は他の人と食べるらしい。同席については、菊池も菊池も待っている人も構わないと思ってくれているらしい。しかし僕は自分の意思で断った。この職をはじめて今までの三年間の昼食をほとんど一人で食べてきたため、大勢で食べるということに違和感を覚えてしまうからだ。別段、一人が好きなわけでもないし、女子に紛れて何かをするというのも仕事柄もう慣れた。

 僕の意思を汲み取ってくれたのか菊池もしつこく僕を誘おうとはせず、ありがとねー、と軽く言いさっさと待たせている同僚のもとへと向かっていった。

 まさかお礼を言われるとは。

 いや、菊池も悪い人間ではない。むしろいい奴である。男性が極端に少ないこの職場で唯一男っぽく話せる奴だし、一番仲がいいといってもいい。だからこそ、お礼をあらためて言われると頭の後ろがかゆくなるような、そんな感じに見舞われる。

 親しき仲にも礼儀あり、ってことかな。

 そういう小さな気遣いが出来たら、僕ももしかしたら。

 僕はそこで考えを止め、手に持ったふたつのおにぎりに目を落としどこで食べようかということに考えをシフトする。まだ十分ちょっと残る休憩時間には感謝の極みだ。

 というのもこんなに休憩時間が長かったのかというくらい今日は暇だ。周りを見回しても忙しい雰囲気は感じられない。一応、いつ召集がかかっても対応できるような準備はしてあるが、そのような気配もない。よく考えれば病院が暇なのは平和でいいことじゃないか。日ごろの公衆衛生活動の賜物である、と実感しながら何気なく歩く。公衆衛生活動なんて手洗いの推奨くらいしかしてないが。

 僕の足が目指すのは朝集まった会議室だ。あそこなら人もいないし、呼び出されてもすぐ対応は出来る。白い体育館シューズのようなゴム製の履物の音を響かせ会議室に向かう。聞こえる足音はひとつだけ。ゴムが擦れる独特な音には聞き慣れた。

 しばらくして会議室に着く。もちろんドアを開けて中に入る。誰もいないという先入観を抱いて。

 ドアノブを九十度右に回し体重を前に預け押し開ける。

 ……扉の向こうには、誰かがいた。会議室のずっと奥。顔は見えない。

 硬直。

 誰もいないと思っていたから僕は驚く。声は出なかった。

 僕に背を向けるその姿をまじまじと見てみる。

 看護師だ。白い服装に茶色のセミロングの髪。腕を組み伏して、顔は僕がいる方と反対の方向を向いている。

 寝ているのか。ガチャというドアが開く音にも反応した様子はなかった。随分ぐっすりなようだ。というか、なんとなくその姿には見覚えがあった。まさかな。

 予想を確信へと換えるべく、僕は彼女の元へ歩く。意識はしているつもりはないがやはり歩幅は小さく、なるべく音を立てないような歩き方になる。

 彼女に近づくにつれ自然に確信へと換わっていくのを感じる。彼女を起こさないようにそーっと顔を覗く。

 やはりそうだ。僕の後輩、今朝の騒動の原因の関口である。

 なんで寝てるんだと疑問に思うが別に昼の休憩だ、すぐに出れる用意をしていればどんなことをしていても構わない。モラル的なのは一切抜きにしてだが。しかし、誰もいない会議室で寝るというのはモラル的にもギリギリ許容範囲だろう。

 寝息を立てて眠る関口は年より十若く見える。言いすぎな表現だと思うが、誰かに中学生と言われたら納得出来るだろう。机の上で腕を組んで更にその上に頭を乗せている。起きた時に腕が痺れる経験を思い出し少し鳥肌が立つ。

 さて、起こそうか、否か。

 起こさないと起きた時になんでいるんですかーと叫ばれ変態先パイの異名を担ぐことになりそうだ。

 しかし起こしたとしてもなんですやすや寝てるのに起こすんですかーと、言われはしないだろうが内心思われたままぎこちない関係になってしまう可能性もある。

 結論、どっちも関口が怒ることに関しては怖くもなのだが付随する様々な影響を考えた場合、起こさないほうがいいだろう。変態と言われるのなら僕一人で済む。機嫌を損ねられたら周りの人に迷惑が及んでしまうからだ。

 というのは言い訳で関口がいるならこのままでも別に構わないと思ったからだ。寝顔もちょっと見ていたいし。

 そこまで考えたところで本当に自分が変態先パイだと気付く。構わない。そんな異名、男にとっては嬉しい称号だ。

 関口の顔が見れる位置に回りこみ、椅子に座る。手に持つおにぎりのうち一つを机に置き、もうひとつのフィルムをはずす。辛子明太子だ。

 食べながら関口の姿を見る。本当に幼い。だからといって仕事をしっかりやってくれないと困るのだが。

 そういえば、菊池が見た関口の姿はどうだったんだろう。パンを買ってこなかったおかげで聞きそびれてしまった。パンを買ってくる条件で関口の様子を見てもらう約束だったから聞けないのは当然といえば、当然か。今日の仕事終わりに聞くにしても、また思い出させてお腹に鉄拳を食らうのは容赦願いたい。

 失敗続きの関口の周りの評価も決してよくはないが大きなミスは今までないらしい。運が良いのか、緊張感を感じることで実力が出せるのか。医療の現場に立てば、今回はよくても、次回はどうなるかわからない。すべては臨機応変な決断と、それを実行する行動力だ。それが生まれついて、いや、言い過ぎかもしれないがそのような感性を関口が持っているとしたなら。これはすごい武器になる。それなら日頃のミスが起きる原因がわからないが、キャラと言ったり性格と言ったりすれば、それなりにはフォローできるんじゃないだろうか。

 まぁ、まだ新人だ。これから色々得ていけばいい。自分もまだ三年目。関口からすれば先パイかも知れないが、まだまだ僕も新人だ。

 二つ目のおにぎりに手を伸ばす。ラベルに印刷してある文字はツナマヨ。売店内で急いで菊池にカゴを持っていくときによく見もしないでカゴにぶち込んだ結果の二つのおにぎりにしてはいいチョイスをしたと思う。

 僕と関口しかいない会議室は静かで、僕の咀嚼の音と関口の寝息くらいしか聞こえない。

 関口の寝顔を見るのにも飽き、いったい僕はなにをしているのだろうと正気に戻りかけたとき、関口は起きた。

 眠たそうな目を擦りながら二、三回身体をもぞもぞとさせて正面の僕と目が合う。

 僕も関口と目が合う。やばい。

「おはよう、関口さん」

「おはっ、へっ、えっ?先パイ?えっなんで?」

「あー、ご飯を食べようとここに寄って関口さんが寝てたんだけど起こすのかわいそうだからこのままにしたんだけど、駄目だったかな?」

 平静を保ってはいるが内心はドキドキだ。突然目を覚まされたのだから。声も出し始めの二文字くらいは若干裏返って出ている。しかし努めて紳士的に言葉を選び声を発す。

「あっ、その、あたし、寝てました?す、すいませんっ」

 ばたばたと身体を手で叩いてなぜか謝ってくる。まだ寝ぼけているのか。

「あ、起こしちゃったかな。ごめんね」

「あっ、その。い、いえ……」

 急にしおらしい返事を口にする。何かを思い出したように。

「そろそろ仕事の時間だけど。こんなとこでよく眠れた?」

 すこし冗談っぽく言ってみる。しかし返ってくる返事はやはり元気のないものだった。

「は、はい」

 深く聞いても解決出来る自信はなかったが、なぜか僕は

「どうしたの?」

 と、声を出していた。

 自分でも何故かはわからない。ただ、少し放っておけなかった、それだけかもしれない。

 関口は言おうか悩んでいる様子だったが、首をぷるぷるっと横に振ったかと思うと僕に目を合わせた。その目は力が入ってない弱いものだが言おうと決心はしてくれたようだった。

 僕は関口の声を聞く体勢になる。その一瞬で腕時計を確認するが、まだ休憩が終わるまでは時間はある。

 関口は口を開く。

「あの、……あたし、自信が持てないんです」

 発せられた言葉は予想外のものだった。いや、予想したくなかった答えと言うべきであろうか。関口の言葉を聴いた耳は痺れ、脳の中を揺らすような衝撃が襲う。

「関口、さん……?」

「あたし、この仕事、やっていけそうにないです。今日だって失敗するし、先パイは優しく許してくれたけど、でもあたしの中ではなんかしっくりこなくて……」

 段々と弱まる声は悲痛に満ちるものだった。こんなに悩んでいることに僕は気付かなかった。

「で、でもミスしたのは今朝だけだよね?」

 あの後の様子など見ていない。菊池に聞きそびれたからであるが一か八か僕は口にした。

「そうなんですけど……。でも、あたしみたいなドジばっかの子、こんなところにいても」

 関口のこんなところにいても、という言葉を聴いた瞬間、脳を揺らす原因がわかった気がした。

 関口は今逃げようとしている。自分が置かれている状況から。自分が今後背負う責任から。

 逃げると言うキーワードが頭の中で暗く瞬く。同時に胸がきつく締め付けられる。

「……関口さんはがんばってると思うよ」

 何もいえない。僕も逃げたから。一方的に桜井菜々に言い放ち、嘘までついて誤魔化し、都合が悪くなったから逃げたんだ。関口に気の利いた言葉や、先パイとしてのアドバイスなど言えるはずもない。

 僕の心は暗く沈む。

「そんなこと、先パイくらいにしか言ってもらえないですよ」

 薄い苦笑いを浮かべながら関口は言う。

 その表情や、声、姿勢を見るとまるでおびえる小動物のようだ。不安で仕方がないんだろう。

 僕は覚悟と決意を胸にとめて言う。

「関口さん、僕も人のこと言えないけど、今おかれている状況から逃げちゃ駄目だ」

 後半、息が詰まるような声でそう言う。言ってしまった。

「えっ」

「今はつらいかもしれない。失敗ばかりで、いつ大事なときに失敗するかもわからない。逃げたくなる気持ちもわかる。でも」

 関口は黙って僕の目を見る。自分を棚に上げて言う言葉の重みと罪悪感がさっきから僕を焦らせる。でも、いまここは関口を救いたい、先パイとして。ここで逃げてはならない。

「関口さん、君は必要だ。頭数を合わせるとかじゃなくて、君と言う個性の人間が必要なんだ。誰にだってミスはある。その中で、関口さんはいつもミスをしても前向きに反省していたじゃないか。それは決して無駄な失敗なんかじゃないと思う」

「先パイ……。でも」

「でも、じゃない。関口さん、今まで大きなミスはないよね。それは小さなミスの反省が生かされているからだと思うんだ。今まで関口さんを苦しめた小さなミスが、大きなミスを救ってくれているんだよ」

「大きなミスだってしないとは限らないじゃないですか……」

「確かにそうだけど。ねぇ、今朝、増田さんは何て言った?」

「えっと、失敗を次に生かしてくださいって」

「関口さんは、裏切れる?」

「……」

「責任から逃げたい気持ちもわかる。でも責任から逃げると言うのは信頼してくれている人たちを裏切る結果にもなる。関口さんならどっちが大切か分かるよね」

「あたし…」

「僕はみんなの笑顔がみたくて看護師になった。でも人に心の底から笑顔を見せるにはその人を信用しなくちゃいけないんだ。だから僕は信用だけは失いたくない」

「あたしも、です」

 関口は顔を上げ、ぎこちなかったが少し僕に向かって微笑んだ。

「あたしもみんなの笑顔がみたいです」

「僕も手伝うよ」

 僕は笑顔で言う。

「さ、午後の仕事がんばろう」

「はい」

 まだ、いつもの関口ではなかったがだいぶ元気を取り戻してくれたようだ。

 会議室を出て僕らは二手に分かれる。関口が角を曲がった途端、僕は壁にもたれ掛かる。

 関口をなんとかしてやりたい気持ちはあったがこんなに説教たれるつもりはなかった。関口があんな短時間の説教でもやる気になってくれたことは救いではあるが。しかし、自分は逃げたのに何故こんなに偉そうに語っているのか、という罪悪感が僕を蝕む。

 しかし仕事もある。関口に説教した手前、自分が仕事をサボるわけにもいかないだろう。

 鉛の詰まったような手足を動かしながら僕は仕事へと向かった。

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