第9話 私は屋上にいた
謝れなかった人へ
三年前のあの夜のことを、書く。
もう、家にいたとは書かない。母と一緒にいた、とも書かない。嘘だから。
私は、あの夜、美月のマンションの屋上にいた。
夕方、美月から連絡が来た。
――話したいことがある。今夜、うちに来て。屋上で待ってる。
屋上、というのが引っかかった。部屋ではなく、なぜ屋上なのか。それでも、行くことにした。断れば、彼女は別の日を指定する。そのあいだ、私は待たなければならない。待つより、行くほうを当たり前のように選んだ。
最寄り駅に着いたのは、花屋の前で写真を撮った二十二時十七分だった。
屋上へ上がったのは、二十三時を過ぎてからだ。
そのあいだ、私は歩いていた。同じ道を、何度も。上がる決心がつかなかった、と書けば、少しは綺麗になる。本当は、彼女が何を言うか、だいたいわかっていた。
そのあいだに、着信があった。二十二時三十四分、二十二時五十一分、二十三時六分。三回とも、私は出なかった。
屋上への扉は、開いていた。
美月は、フェンスの手前で、街の明かりを見ていた。 私の足音に気づいて、振り返った。 街の明かりを背にしたその顔を、私は今も覚えている。泣いたあとの顔だった。それでも彼女は、少しだけ笑おうとした。昔の、あの笑い方で。うまく笑えていなかったけれど。
足元に、藍色の布の手提げ鞄が置いてあった。給水塔の影になるあたりに、口を開けたまま。なぜ鞄を持って上がってきたのか、そのときは考えもしなかった。
今ならわかる。
あの中に、彼女のスマホが入っていた。画面を伏せて、録音を始めたまま。前に触れた十四分の音声だ。
二十三時十分から、はじめの十一分は、風の音と紙の音しか入っていない。
美月は、誰もいない屋上で、十一分、待っていた。来ない相手を、録音を回したまま待っていた。着信が途切れたあとで、彼女は録音を始めたのだと思う。
声が入っているのは、最後の三分だけだ。
美月は、手に紙の束を持っていた。角の揃った、新しい紙だった。
「さっき、印刷してきた」と、彼女は言った。「家では出したくなかったから」
コンビニの複合機のレシートが、鞄の口から覗いていた。街のどこかの機械で、彼女はこれを一枚ずつ出して、待っていたのだ。私に読ませるために。
その紙を私に見せる前に、彼女は別のことを聞いた。
「二月に、箱に入れたの」と、美月は言った。「開けてないよね」
二月十一日、私が廊下で重版の電話を受けているあいだに、彼女が段ボール箱へ入れたもののことだ。メモ紙と、USBと、四十七か所に線を引いた私の最初のエッセイ集。
私は、答えられなかった。
「怒ってるわけじゃないの。ううん、怒ってた。すごく。でも、ここまで来たら、通り越しちゃって」
彼女は、手の中の束を、少し持ち上げた。
「これは、それとは別」
箱のUSBに入っていた一篇――生前、彼女がメールに添付して送ってきた完成原稿――とも、別の文章だった。彼女がこの一か月のあいだに書いて、刷ってきたものだった。
「読んで」と、美月は言った。「今度は、私が書いたものとして」
「直さなくていい。あなたの名前もいらない。読んだら、返して」
彼女は、束を両手で抱えた。それが自分自身であるかのように。
「私がまだ書けるってこと、あなたに分かってほしいの」
そのとき、私が何と言ったか。
録音に残っている。三年後に、私は自分の声で、それを聞くことになる。
――あなたがいなければ、私だって書けた。
言ってから、自分が何を言ったのかがわかった。分かってほしいと言われて、私が返したのは、あなたがいなければ、だった。彼女の存在そのものを、邪魔だと言ったのだ。
美月は、何も言い返さなかった。
音声は、そこで切れている。
二十三時二十四分。
止めたのは美月だと、私は思った。
彼女は私の前まで来て、私が肩から下げていた濃紺のトートバッグの口を、両手で広げた。そして、抱えていた束を、そのまま中へ入れた。
乱暴ではなかった。順番を崩さないように、角を折らないように、彼女は刷ったばかりの紙を、私の鞄の底に置いた。
紙が擦れる、乾いた音がした。
鞄の口は、閉まりきらなかった。折らずに入れれば、その厚みで縁が浮く。白い紙の端が、合わせ目から覗いていた。彼女はそれを、指先で少しだけ押し込んだ。子どもの服の裾を直すみたいな手つきで。
そして、指を離したとき、押さえていた紙の縁で、指を切った。
自分の原稿で、切ったのだ。
血が、細く出た。彼女は、痛いとも言わなかった。ただ、その指を見ていた。
私は、コートのポケットからハンカチを出した。とっさに出た。この三年間で、私がまともにしたことが、あの夜のそれだった。彼女の指を、拭いた。
美月は、拭かれるままにしていた。それから、足元の藍色の鞄からボールペンを取り出し、ハンカチの白いところに、何かを書いた。
私に、返した。
握らせた、という感じだった。
書いてあったのは、三文字だ。声では、言えなかったのだと思う。
そのあと、彼女は私を見て、言った。
「遥香。あなたの文章、もう、あなたの声じゃないよ」
その一言で、私の中の何かが切れた。
私には、私の声がない。書くものは、全部、借り物だ。美月がいなければ、私は空っぽだ。三年どころか、もっと前から、私がいちばん怖れていた言葉だった。
彼女は、それを言葉にした。いちばん優しい顔で、いちばん残酷なことを。
そこから先の何分かを、私は今ここに書かない。書けないではなく書かないと決めた。
私は、屋上を出た。
歩き出したとき、鞄の中で紙が鳴った。その音は、もう録音には入っていない。
私は、建物を出た。すぐには駅へ行けなかった。道に立っていた。何分かは、わからない。
そして、見上げた。
私は、美月が落ちる瞬間を見た。
それから、私は、部屋に帰った。母が、合鍵で先に入って、私を待っていた。
母は私を見て、何も聞かなかった。玄関に置いた鞄の、閉まりきらない口を、しばらく見ていた。一枚も、抜かなかった。
母は、私に言った。
あなたは、何もしていない、と。
(第九回・了)
*
この記事を投稿したのは、四月十七日の四時十一分だった。夜が明ける前だった。
書き終えられなかったのは、前の夜だ。屋上を出るところまで書いて、私は手を止めた。その先に、一行、書かなければならないものがあることは、わかっていた。
そして、あのメールを開いた。
通知では件名しか見ていなかったメール。 美月が三年前、私宛てに書き、送らないまま下書きに残していたものを、陸が宛先を変えずに送信した。 私は、それを四日のあいだ開けずにいた。
私を、物語にする人へ。
本文があった。
遥香へ。
これを送るかどうか、まだ決めていない。決められないまま、書いています。
私は知ってる。あなたがいつか、私のことを書くって。あなたは、そういう人だから。悲しいこともつらいことも、全部言葉にしないと生きていけない人。私とのことも、いつか、読まれるための形に整えると思う。
私は、そういうあなたが好きだった。今でも、たぶん、好き。
あなたはきっと、綺麗な文章にする。私が泣いていたことも、あなたが苦しんだことも、全部、読める形に並べる。読んだ人は、あなたに同情するだろうね。かわいそうな遥香。傷ついた遥香。
でも、あなたは、いちばん大事なことだけは書かないでしょう。あなたは、そういう人だから。自分がいちばん傷つくことだけは、いつも、そっとよけて通る。
だから、お願い。
書くなら、それだけは、あなた自身の言葉で書いて。
あなたが、私に、何をしたのか。
私は、スマホを落とした。
画面にひびが入り、ひびの向こうで、彼女の文字が光っていた。
この文章を、彼女は生きているあいだに書いている。送るかどうか決めていない、と自分で書いている。遺書として残した言葉ではない。私に読まれる日が来ることを、彼女はまだ未来の側に置いていた。
あなたが、私に、何をしたのか。
四時十一分に投稿して、私は横になった。眠れなかった。
反応は、朝までに、二つだけついた。
――遥香さん、次を書かないでください。もう、じゅうぶんです。
――「見た」と「した」は、違います。書くなら、そこを書いてください。
二つ目を、私は長いあいだ見ていた。
私は第四回の記事に、二時十七分に一行を足した。私は、美月が落ちる瞬間を見た、と。 三年前も、私は同じ動詞を選んだ。「いた」ではなく、「見た」を。
今夜も、そこへ帰ってきた。
mizuki_0314からは、何も来なかった。
*
昼過ぎに、陸からメッセージが届いた。
――記事、読みました。
――録音のファイルを、詳しい人に見てもらいました。
――停止操作をしたときに残る終了処理がなく、書き込みが途中で切れているそうです。端末の保存容量が尽きたときに起きる終わり方と一致すると言われました。
――姉が止めたのではありません。誰も止めていません。十四分で、勝手に終わったんです。
私は、画面を見ていた。
続きが来た。
――警察の記録では、姉が落ちたと推定されるのは二十三時二十九分頃です。
――防犯映像で、あなたが建物を出たのは二十三時五十一分です。
――記事には、屋上を出て、建物を出て、外から見上げたと書いてあります。
――その順番だと、あなたは二十三時二十九分より前に外へ出ていたことになります。
――映像とは、二十分以上ずれています。
責める文章ではなかった。数字が四つ、並んでいるだけだった。並べ方に、感情の置き場所がなかった。
最後に、一行だけあった。
――あなたは、姉が落ちた時刻には、まだ建物を出ていません。
私は、言箱の管理画面を開いた。
第九回の本文を、下へ送った。
――私は、屋上を出た。
――私は、建物を出た。
――そして、見上げた。
その三行の上で、カーソルを止めた。
「思った」と書いた場所は、いくつもあった。美月が止めたのだと思った、とも書いた。推測の形にしておけば、あとで動かせる。
けれど、屋上を出て、建物を出て、それから見上げたという順番には、そういう逃げ道を作らなかった。
その順番を書いたとき、私は、自分が何をしているかを知っていた。
削除ボタンは、すぐそこにあった。
押さなかった。
(第9話・了)




