第10話 あの夜、屋上で
謝れなかった人へ
前回、私は途中まで書いた。
駅に着いた時刻。上がる決心がつかずに歩いた道。着信に出なかったこと。屋上の扉が開いていたこと。彼女が刷ってきたばかりの紙を持って立っていたこと。指を切ったこと。ハンカチのこと。
そして、その後の出来事を、私は作り替えた。
――私は、屋上を出た。 ――私は、建物を出た。 ――そして、見上げた。
書けなかったのではない。思い出せなかったのでもない。あの順番を、私は自分で組んだ。組んだときに、それが偽りだと知っていた。
私は、美月が落ちるまで、屋上にいた。
そこから先だけを抜いて、私は屋上を出た、と続けた。
三つ並べれば、私が美月の転落より前に立ち去ったように見える。
自然に見えるものを、私はいつも正しいものとする。
*
今日、あの夜の最後の事を書こうと思う。思い出す限り正直に。
彼女は私のトートの口を両手で広げ、束を底に置いた。覗いた紙の端を指先で押し込み、そのときに、紙の縁で指を切った。
血が、細く出た。彼女は痛いとも言わずに、その指を見ていた。
私は、コートのポケットからハンカチを出した。考えていない。手が先だった。私は、彼女の指を拭いた。
美月は、拭かれるままにしていた。それから、少し笑って言った。
「こういうときだけ、遥香は早いよね」
「こういうときって何」
「誰かが痛そうにしてるとき」
責める声ではなかった。穏やかな声だった。
穏やかだから、刺さった。誰かの痛みには一秒で動く手が、自分のしていることには十年動かなかった。彼女はそれを、二言で言った。
彼女は足元の藍色の布鞄からボールペンを取り出して、ハンカチの白いところに、三文字書いた。
返して。
そして、それを私に返した。握らせた、という感じだった。
「これだけだと、何を返すのかわからないよね」
私は答えなかった。
「でも、遥香ならわかるでしょう」
わかった。
原稿のことではない。私の名前から、彼女の言葉を外すこと。会報の一行を、ノートの余白を、電話の途中の比喩を、私の本の中から抜いて、彼女の名前の下へ戻すこと。
わかるでしょう、というのは、責める言葉ではなかった。私が、この世界でいちばん丁寧に彼女の文章を読んでいた人間だという、まだ生きていた信頼だった。
そのあとで、彼女は私を見て言った。
「遥香。あなたの文章、もう、あなたの声じゃないよ」
私の中で、何かが切れた。
美月は、私の顔を見て、少しあわてたのだと思う。声の高さを落として、彼女は続けた。
「私、遥香に文章を直してもらうの、好きだったの」
「私が書くと、散らかるんだよ。いちばん言いたいことが、真ん中に埋まっちゃう。遥香は、どこを残して、どこを削れば届くか、わかってた」
「私より上手だった」
風が、フェンスの網を鳴らした。
「でも、直すことと、なくすことは違うよ」
「文章を上手にしたからって、私の名前まで消していいわけじゃない」
「遥香には、遥香にしかできないことがある」
私は、そこで、彼女を憎めなくなった。
否定してくれたなら、憎めた。偽物だと笑ってくれたなら、この人は残酷だったと書けた。あなたには才能がないと言ってくれたなら、私はそれを一生の傷にして、傷を材料にして、たぶん何冊でも書けた。
美月は、そうしなかった。
彼女は、盗んだものと、もともと私のものを、正確に分けようとした。分けたあとに残る私を、それでも書き手だと呼んだ。
耐えられなかった。
分けられてしまえば、私に残るのは、他人の一行の置き場所を直す手だけだ。生む人と、整える人。私は、彼女がその序列を読み上げたのだと受け取った。
美月は、そこから先を、事務の話みたいに言った。
「久我さんに話して、編集部にも話して、どうすればいいか一緒に考えよう」
一緒に、と彼女は言った。
「四十七か所、全部いっぺんには無理だと思う。時間もかかると思う。でも、私が隣にいるから」
「本当のことを言っても、遥香と私は友達だから」
私は、それを憐れみだと受け取った。
盗まれた側が、盗んだ側の後始末を心配している。彼女は、被害者であることまで上手だった。私より正しく傷つき、私より正しく赦そうとしていた。
あの提案を受ければ、私は残りの人生を「美月に赦された人間」として生きることになる。彼女の優しさの下で、二番手の才能として。
「それ、証明できるの」
言った瞬間の、自分の声の冷静さを覚えている。
事実ではなく、定義のほうへ歩き出す。私のいちばんの癖だ。何通なら盗みで、一通なら仕事なのか。何か所なら盗用で、一か所なら影響なのか。私はもう何年も、それで歩いてきた。
「みんな似るよ。十年一緒にいたんだから」
美月は、少し黙った。それから言った。
「証明の話じゃないよ」
「友達なら」と、私は言った。「見なかったことにしてよ」
「それをしたら、もう友達じゃないよ」
そこで、二人の友情の定義は、完全に裏返った。
彼女は、友情を守るために本当のことを求めていた。私は、友情を守るために本当のことを消してほしいと願っていた。
同じ言葉を使って、私たちは反対のものを指していた。十年、そうだったのだと思う。
美月の呼吸が、乱れた。
彼女は、一歩下がった。私から離れようとしたのだと思う。二歩下がって、フェンスに背中が当たった。それから、彼女は網に手をかけて、腰の上あたりまでの高さのそれを越えた。
試したのではない。私を脅したのでもない。
あれは、逃げ場のない場所で、逃げようとした人の動きだった。越えたあとで、彼女は自分がしたことに怯えた。表情が変わったのが、暗い中でもわかった。外側の縁は、靴の幅ほどしかなかった。
「こっちに戻って」と、私は言った。
美月は、言った。
「うん」
彼女は戻るつもりだった。手をフェンスの上の桟にかけて、私のほうへ身体を向けた。
そして、言った。
「遥香。その鞄、置いて」
「鞄を置いて。手を貸して」
彼女が求めたのは、私の両手だ。
片手では、あの体勢の人を引き上げられない。彼女はそれをわかっていて、いちばん短い言葉で頼んだ。
私には、別の声が聞こえた。
原稿を置け。盗んだ人生を置け。私の言葉を手放せ。何者でもない自分として、こっちへ来い。
私は、トートの持ち手を肩から外しかけた。
私は、外しかけた。鞄は肩から落ちて、肘の内側で止まった。あと十センチだった。置けた。置いて、三歩詰めて、両手で掴めた。
そのとき、口の開いたトートの中で、いちばん上の紙が風にめくれた。
一枚目が見えた。
わたしの言葉を、わたしより上手に使う人がいる。
彼女の字だ。丸みのある、少しだけ右上がりの字。
私は、その一行を読んだ。
そして、考えた。
美月が戻れば、四十七か所も何もかも返さなければならない。返したあとに残るのは、他人の原稿を上手に直せる手だけだ。
美月は、それでも友達でいようとする。その優しさの中で、私は一生、返し終わらない。
美月が言った。
「大丈夫。まだ、やり直せるから」
悪意はなかった。彼女は本当にそう思っていた。
ただ、私には、あの夜のどの言葉より残酷に聞こえた。
やり直す、というのは、彼女がいる世界の話だ。彼女がいる世界で、私はいつまでも直す人だ。
そこで、はっきりした願いが、私の中に生まれた。
この人がいなくなればいい。
この人のいない世界でなら、私は自分になれる。
私は、鞄を置かなかった。
肘で止まっていた持ち手を、握り直した。それだけの動きだった。
美月が、それを見た。
「……そっか」
彼女はつぶやいた。声は、責めていなかった。納得の声だった。三年経って思う。あれは、四十七回の信頼が、いちばん最後に閉じる音だった。
風で、彼女の髪が顔にかかった。彼女の向こうに、五階分の夜と、街の明かりがあった。
フェンスの桟にかけた指が、白くなっていた。
私は、その順番を考えていた。
髪。風。白い紙。夜の底。
助けるより先に、私はその光景を、文章として見ていた。どこで息を継ぐか。どの一行を最後に置けば立つか。出来事として見る前に、私はもう、書ける形に並べ替えていた。
美月は、それに気づいた。
たぶん、私の目が動かなかったからだ。人を引き上げようとする人間の目は、そんなふうに止まらない。
「遥香・・・」
桟にかけていた指が滑った。
彼女は飛んでいない。押されてもいない。私は彼女に触れていない。戻ろうとして、体重が外へ行って、足が縁から外れた。
音は、思っていたより小さかった。
*
私は、フェンスへ駆け寄らなかった。
スマートフォンを出した。とっさに通報しなければと思った。
その時、別の一行が私の中で組まれた。
――美月が落ちた。
それを、頭の中ですぐに書き直した。
――美月が落ちてしまった。
次に、手を伸ばさなかった、を、何もできなかった、へ変えた。
美月が落ちて一分か二分だ。私はもう、あの夜を耐えられる文章に変え始めていた。三年かけて書き換えたのではない。三年かけたのは、仕上げのほうだ。下書きは、あの屋上でもうできあがっていた。
風が吹いて、トートの口から出た一枚目がめくれた。
私は、画面を消して、その紙を押さえた。
押し込んだ。さっき、美月が自分の指を切った、あの手つきで。
飛ばされたらいけない、と思った。美月が書いたものだから、なくしてはいけないから。
同じ頭で、私はこうも考えた。警察に渡せば、遺書として扱われる。家族に渡せば、読まれないままどこかに入る。この文章のどこで息を継ぐのかを知っているのは、この世界で私だけだ。
そうやって、私は最初の言い訳を作った。盗んだのではない、預かった。奪ったのではない、守った。
大学三年の秋、鞄の底に封筒を入れたときと、同じ動詞だ。人は、いちばん都合のいい動詞を、一生使い回す。
一枚目より先は、読まなかった。
読めなかったのではない。読まなかった。二枚目をめくれば、彼女が何を書いたのかを知ることになる。知れば、それについて考えなければならない。私は、一枚目の一行だけを見て、束を鞄に押し込んだ。
そのとき私の手がしていたのは、読むことではなかった。運ぶことだった。
白い端が、扇のように出ていた。
私は、束を真ん中で一度だけ折った。
何十枚もの紙が一度に曲がるとき、鈍い、こもった音がする。紙の繊維が向こう側で切れていく音だ。指の付け根に、その厚みの抵抗が残った。
折ったのは、私だ。美月が落ちてから、五分ほど経ったころだ。
折りながら、私は心の中で言った。
ごめん。
でも、こうしないと持って帰れない。
持って帰らないと、あなたは本当にいなくなる。
謝罪と、所有が、同じ文章の中にあった。
手には、ハンカチを握っていた。
返して、と書かれた三文字を、私は屋上の明かりの下で見た。
最初は、原稿を返して、と読んだ。次に、私を返して、と読んだ。そして最後に、こう読んだ。
――美月を、この世へ返して。
それは私にしかできない、と思った。
彼女が求めたのは、私の名前から彼女の言葉を外すことだ。ただ私はそれを、正反対に解釈した。私の名前を使ってでも、彼女の言葉を世に残す。私が書き続けることが、彼女を残すことになる。
美月が落ちて十分も経たないうちに、私はその文を作った。
三年間、私を助けたのは、この一文だった。
ハンカチは、コートのポケットに戻した。
階段を降りた。
エレベーターは使わなかった。誰かと同じ箱に入るのが怖かった、
そう説明できるようにしていた。
でも本当は、見られたくなかった。
階段を下りる途中で、下から声がしたようだった。何を言っているのかはわからなかったが、叫び声のような気もした。
私は、足を止めた。
あそこが、最後の機会だった。声のほうへ降りて、自分が見たことを言えばよかった。屋上にいたと言えばよかった。
止まったとき、トートが肩からずれて、また白い紙が覗いた。
私は、声のほうではなく、紙を押し込んだ。
そして、こう考えた。もう誰かが見つけたのかもしれない。私が電話しなくても、誰かが呼ぶ。今さら戻っても、何も変わらない。
今さら、と私は思った。
今しがたの出来事を、その四文字で過去へ送った。美月の死は、終わった出来事になった。原稿は、これからの出来事になった。
その分類が、あの階段でできた。
私は建物を出た。
映像に映っている。トートの口から白いものが出たまま、うつむいて、行きより遅く歩いている。
なぜ紙を隠さなかったのか。
隠すという考えが、あの時点の私にはなかった。あれはもう、証拠ではなくなっていたからだ。美月から預かったもの、私が守るべきもの、私だけが正しく扱えるものに変わっていた。
歩くのが遅かったのは、茫然としていたから。でも同時に、頭の中では文章を組んでいた。
そこから三年のことを、短く触れる。
母は、玄関で私を見て、何があったのか聞いた。私は答えなかった。
それでも母は、あなたは何もしていない、美月さんがあなたを追い詰めたのよ、と言った。屋上で起きたことを知らないまま、私を守る一文を先に作った。
私は、訂正しなかった。
母は、私の黒いコートを処分した。ポケットに入っていた血のついたハンカチだけは、処分せずに実家へ持ち帰った。三年後、それを白い紙袋に入れて私の部屋へ戻した。
私自身の手で捨てさせるために。
嘘をついたのは母だ。
その嘘を使ったのは、私だ。
三月十三日、二時十七分。
「死ねばいいのに」と打ち、宛先に美月を選び、送信を押したのも私だ。
送った、を、送信済みに残っていた、へと変えた。主語を消して、自分の出来事ではないことにした。
三年後の三月九日。
第一回についた、
綺麗に書きすぎ。
あれを書いたのも、私だ。
美月の古い認証情報で、mizuki_0314 に入った。自分の記事に書き、自分の記事の管理画面から消した。
コメントを書いた本人と、記事を書いた本人。
私は、両方だった。
差出人欄のないDM も、私が送った。
次は、盗んだものの話を書いて。
美月のアカウントから自分へ送り、すぐに取り消した。通知には本文だけが残った。
陸が書いたのは、「手紙だけ?」と「書いたね」の二つだけだ。
私は、自分の告白を、自分で作っていた。軽いほうから順番に出せるように。書くことで懺悔したつもりになっていた。それだけでもずいぶんと心が軽くなった。
パソコンには、「断片」というフォルダがある。
会報から抜いた一行。手紙から抜いた一行。電話で聞いた比喩。美月が送ってきた完成原稿から取り出した表現。
断片、と名づければ、前後が消える。出典が消える。書いた人の名前が消える。
私は、美月の言葉を、誰のものでもない素材に変えた。
前回の記事に、コメントがついた。
――「見た」と「した」は、違います。書くなら、そこを書いてください。
その人は、屋上のことを知らない。
それでも、私が選んだ動詞は見抜かれた。
私は、美月を押していない。フェンスの外へ出したのも私ではない。転落の瞬間、彼女の身体には触れていない。
けれど、助けを求められた意味は理解していた。鞄を置けば両手が使えるとわかっていた。
一度は持ち手を肘まで下ろし、それから握り直した。
三歩を詰めなかった。
手を伸ばさなかった。
落ちたあとも通報せず、原稿を折って持ち帰った。母の嘘を使い、三年間、見た、救えなかった、と書き換えた。この連載でも、出来事の順番を作り替えた。
私は、美月を・・・。
見た、ではない。
した、だった。
(第10 回・了)
*
返すものと、渡すものを書く。
美月の文章は、三つに分かれている。
最初のエッセイ集に混ぜた、四十七か所の言葉。
美月が生前、メールに添付して送ってきた完成原稿。私は死後にそれを開き、句読点と段落をわずかに変え、美月がいなくなった三年前の夏、自分の名前で文芸誌に発表した。翌春に本になり、代表作と呼ばれた。箱のUSB に入っていたのも、それと同じ原稿だ。
そして、あの夜、美月が屋上へ持ってきた別の原稿束。
四十七か所に線の引かれた本と、その出典にあたる会報、手紙、ノート、対照表。美月のメールと添付原稿、箱のUSB、私が発表した一篇との比較資料。あの夜の原稿束。血のついたハンカチ。「断片」フォルダ。
それから、「死ねばいいのに」を送った記録、最初のコメントとDM を私が作った記録、
この連載の編集履歴も出す。出来事の順番を作り替えたことも含めて。
大学三年の秋に渡さなかった、芹沢さんの手紙も返す。
出版社と文芸誌の編集部には、すでに資料を送った。最初のエッセイ集と代表作について、刊行と配信の停止、訂正、回収を申し出た。
美月の名前と権利を戻すこと。
受け取った印税や利益を精算すること。
その先は、出版社と美月のご遺族の判断に従う。
警察にも話す。
三年前の三月十四日、私がどこにいて、何をしたか。何を持ち出したか。
久我さんは、気づいていて黙った。
私は、盗んで、自分の名前で出した。
その二つを、同じ罪として並べない。彼の沈黙を、私の動詞には使わない。
この連載も消さない。
どの回で主語を落とし、どの動詞を軽くしたか。
それも、私がしたことの記録だからだ。
*
引き出しから、あの夜の原稿束を出した。ご遺族へ返すため、輪ゴムを外し、真ん中の折り目を開いた。
最後の一枚を抜いたとき、指に厚みが残った。
一枚ではなかった。
折り目の内側で、もう一枚が貼りつくように重なっていた。
私は、これまで上の一枚を最後だと思っていた。
三月十四日。屋上で、遥香に会う。
その下に、続きがあった。
爪の先で、ゆっくり剥がした。
同じインクの、同じ字だった。丸みのある、少しだけ右上がりの字。
-----ぜんぶ話して、それから、また書きはじめる。
美月は、死ぬために屋上へ来たのではない。
あの夜の先を考えていた。話したあとも、自分の名前で書くつもりだった。
あの束は、遺稿ではない。
読んだら返してもらうはずの原稿だった。
私が奪ったのは、彼女の言葉と、名前と、機会だけではない。
その夜の先だった。
*
涙が出た。 涙がとめどもなくあふれた。
私は涙を拭い、その一行を記事の最後に足した。
そして、気づいた。
この一行を最後に置けば、記事はいちばんよく立つ。
これが、自分の書いた中でいちばんよく書けているとも思った。
そう思ったとき、なぜだかおかしくなった。
美月なら、こう言うだろう。
遥香、それも書くの、と。
書いた。
私は、投稿ボタンを、押した。
(第10話・了)




