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第8話 母の嘘

謝れなかった人へ

実家へ帰った。三年ぶりだった。

三年前のあの夜、私が戻ったのは、この家ではない。今も住んでいる、私の部屋だった。

母とは月に一度会っていた。いつも母のほうが、日用品を持って私の部屋へ来た。あの夜もそうだった。母は合鍵で先に入り、帰りの遅い私を待っていた。

この家に帰ると、息のしかたを思い出さなければならなくなる。玄関に立った時点で、私は自分の言葉を選び始めている。

母は、私を見て驚かなかった。

いつものように私の頬に手を当てて、おかえり、と言った。

私は、その手を外した。

「お母さん。三年前の夜のこと、話して」

母の顔から、笑みが消えた。消えたのに、驚いた顔にはならなかった。用意していたものを、しまう顔だった。

*

居間で向かい合って座った。母はしばらく湯呑みの中を見ていた。それから、話し始めた。

「あなたは、あの夜、ずっと部屋にいたわけじゃない」

三年間、母は反対のことを言い続けてきた。逆の一文が出てくるまでに、母は十秒もかけなかった。

「じゃあ、どうして」

「あなたが、夜中に帰ってきたからよ」

母は、私の質問の順番を無視して答えた。答えたい順番があるのだと、そのときわかっ

た。

「玄関であなたを見た瞬間に、わかったの。何かあったって。震えてた。目が、ここにあらずで。話しかけても、最初は、お母さん、って、それだけ繰り返してた」

うつむいて、行きとは別人のようにゆっくり歩いていた、映像のあの女。

母は、あの女がどこから帰ってきたのかを知らないまま、玄関で迎えたのだ。

母は、私が何をしたのかまでは知らなかった。 けれど、私が「美月が落ちた」と口にしながら、異様な状態で戻ってきたことは知っていた。

「私、ほかには何か言った」

「しばらくして、美月さんが落ちた、って」

母は、そこだけはっきり言った。

「その言葉だけ繰り返していたわ。何があったのか聞いても、それ以上は言わなかった」

*

母は順を追って話した。家事の段取りを説明するときの声だった。

私が着ていた黒いコートを、母は処分した。

「どうして」

「いらないと思ったから」

「それだけ?」

「それだけよ」

母は、コートに何がついていたとは言わなかった。汚れの話も、においの話もしなかった。ただ、いらないと思ったから捨てたと言った。

それが、いちばん怖い言い方だった。何かがついていたなら、母はそれを落とせばよかった。落とせるものなら、捨てる必要はない。母が捨てたのは、あの夜、私があのコートを着ていたという事実のほうだ。

膝丈の、黒いコート。仕事に行くときも、美月に会うときも着ていた。私はそれを、第四回に書いた。管理人の言葉として書いた。黒いコートの女、と。

母は、その一行を読んでいた。読んで、何も言ってこなかった。言ってこられるものが、もう家にないからだ。

「それから、あなたのスマホを見たわ」 「……見たの」 「あなたがお風呂に入っているあいだに」

暗証番号は、母が知っていた。何かあったときのため、と言われて、以前、私が教えていた。母は機械に詳しくない。それでも、着信の通知を開き、履歴の画面までたどることはできた。

「着信が、何件も残ってた。美月さんから。メールも来てた。あなたは、一度も開いてなかったわ」

私は湯呑みを持ったまま、動けなかった。

美月は、あの夜、私に電話をかけていた。

母は、件数を言わなかった。陸は言った。二十二時三十四分、二十二時五十一分、二十三時六分。三回だ。

私の端末に、その記録はない。母が消したから残っていないのだと、いま、そう並べることができる。並べたとたんに、自分がまた軽くなるのがわかった。

鳴っていたのは、あの夜だ。出なかったのは、私だ。母が消したのは、そのあとの話だ。

「消したの」

「消したわ」

母は湯呑みを置いた。

「あなたと美月さんが、あの夜、連絡を取り合っていたことになるでしょう。何時に何回かかってきたか、そんなものが残っていたら、誰かが数えるじゃない」

数える人がいるとしたら、それは警察だ。母は、警察という単語を使わなかった。三年間、一度も使わなかったのだと思う。

「他には」

「他には、何も」

「私が送ったメールは、消した?」

母は、きょとんとした。

「あなたが送ったもの?」

私が第三回で書いたのは、あとになってパソコンの送信済みフォルダで見つけた一通だ。 三月十三日、二時十七分。件名だけの一通。

母が見て、消したのは、スマホに残っていた着信履歴と、美月から届いた連絡のほうだった。私から美月へ送ったものまでは、見ていなかった。

私が三年、いちばん見なくて済んだ一通が、母の手の届かない場所に残っていた理由が、それだった。

*

「鞄は」と、私は聞いた。

「紙が、いっぱい入ってた」

母は、両手で幅を作った。トートの口の幅だった。

「口が閉まらないくらい。玄関で、はみ出したのが何枚か落ちたわ。私が拾って、あなたに渡した」

「どんな紙だったか、覚えてる」

母は少し考えた。

「端が、青くなってたわ。にじんだみたいに。あなた、昔から紙を汚すから」

あの藍は、三年前のあの夜、すでに紙に移っていた。母が、それを見ている。私が第六回で「言い切れない」と書いた色を、母は玄関の明かりの下で見ていた。

「捨てなかったの」

「捨てられないでしょう」と、母は言った。心底、不思議そうな声だった。「あなたのお仕事のものだと思ったんだもの。原稿を捨てる母親なんて、いないわ」

母は、コートを捨て、着信を消し、紙には触れなかった。

だから、あれは残っていた。

「あなたは、鞄から紙を出して、引き出しの奥に自分で入れたの。あのときだけ、手がしっかりしてた。何をしてるのって聞いても、返事もしないで」

その光景を、私は思い出せない、とは書けない。 引き出しの取っ手も、輪ゴムの感触も、母の声に返事をしなかったことも、断片なら残っている。 私はそれらを、ひとつの出来事として並べなかった。

私は三年間、あの夜のことを一度も文章にしなかった。文章にしていないものを、私は起きなかったことの側に置いてきた。置き場所と、記憶の有無は、別のものだ。

*

「お母さんは、私が何をしたと思ってるの」

長い間があった。

「知らないわ」と、母は言った。

「私は、あの夜、あなたの顔を見ただけよ。それ以上のことは、何も見てない」

母の声は震えなかった。三年、頭の中で繰り返してきたのだろう。震えることも、なくなるくらいに。

「じゃあ、何を守ったの」

「あなたよ」

「私の、何を」

母は答えなかった。かわりに、こう言った。

「美月さんが、あなたを追い詰めたのよ」

そう言うときの母の顔を、私は三年見てきた。この一文だけは、母は最初から持っていた。あの夜の玄関で、私が何も言わないうちに、もう用意されていたのだと思う。母は、何が起きたのかを知らないまま、それを説明する一文を先に作った。

母は、真相を知りたくなかったのだ。

知れば、守れなくなる。知らないまま守るには、話の形を先に決めてしまうのが早い。私と母は、同じことをしていた。母は玄関で、私は原稿で。

「私は、あなたを守った」母は湯呑みを握りしめた。「母親として当然のことをした。何が、いけないの」

その顔は、確信に満ちていた。

*

母は、私を守ったのではない。

母は私から、話す機会を奪った。

あの夜、私が全部を話していたら。記録が残っていたら。私は何かを問われて、答えて、そこから先の三年を、別の三年として生きたかもしれない。

けれど、そこまで書いて、私は自分の手を止める。

母が奪ったのだと書けば、私はまた守られる。三年前も、私は同じ形で守られた。

母は、あなたは家にいたと言った。私はそれを訂正しなかった。訂正しない文章は、長く置けば、事実の顔をする。嘘をついたのは母だ。使ったのは、私だ。 第五回に、私はそう書いた。今度は、母の口から聞いたあとで書いている。

大学三年の秋、私は美月の手紙を渡さなかった。渡さないことで、彼女から返事を書く機会を奪った。

三年前、母は私から、話す機会を奪った。私はそれより前に、美月から、書く機会を奪っていた。

二つは似ている。けれど、母にされたから私もした、という順番ではない。

そう書けば、私はまた母のせいにできる。収まりがいいものを、私はいつも信用しすぎる。

*

クローゼットに置かれた白い紙袋を思いながら、私は聞いた。

「ハンカチのことを、聞いてもいい」

聞いてから、自分がなぜそれを聞いたのか、わからなかった。母は、まだ一度もその単語を出していない。

母の指が、湯呑みの縁を二度なぞった。

「コートのポケットに入っていたハンカチは、私が持って帰ったわ」

「実家に?」

「ええ。あなたの部屋には置いておけなかったから」

「三年間、ずっと持っていたの」

「ええ」

「じゃあ、白い紙袋を置いたのは」

母の手が止まった。

「私よ。あなたが手紙のことを書いた、その次の日」

「どうして、私の部屋に戻したの」

「あなたに捨ててほしかったから」

母は、ためらわずに言った。

「自分で捨てれば、もう書かないと思ったの。証拠を捨てたことまで、あなたは書けないでしょう」

母は、私に思い出させようとしたのではなかった。 私自身の手で、沈黙を完成させようとしたのだ。

実家から戻って、私はクローゼットを開けた。

白い紙袋は、コートの前に置かれていた。口は、内側へ二度折り込まれている。母の折り方だった。

今度は、開けた。

袋の中に、小さな缶が入っていた。蓋を外すと、折り畳まれたハンカチがあった。

私のハンカチだった。三年前まで使っていた木綿の白い布だ。洗われていない。

白かったはずの一部が、黒ずんだ赤に変わっていた。

折り目をひらいた。

血の跡を避けて、白いところに文字があった。黒いペンで、繊維に沿ってにじんでいる。血がついたあとに、書かれたものだ。

返して。

丸みのある、少しだけ右上がりの字だった。二月十一日の紙切れと、同じ傾き方だった。 美月の字だった。

私は、捨てなかった。

(第八回・了)

*

この記事を投稿したのは、四月十三日の二十三時五十分だった。前回から、四日が空いていた。

実家から帰ったのは、その前の夜だ。母は泊まっていきなさいと言った。私は断った。断りながら、自分でも驚いていた。三年ぶりに帰った家で、私は一度も、靴を脱いだ場所より奥へ心を置かなかった。

靴を履くとき、玄関のコート掛けに、母の黒いコートがあった。膝丈で、私のものと形が近い。三年前と同じものだ。

捨てられたのは、私のコートだけだった。

第四回で、私は管理人の言葉のあとに、母のクローゼットを置いた。あのとき私が使おうとしたものは、いまも、母の家の玄関にある。

*

記事に書かなかったことを、ここに書く。

母から着信が四件あったのは、第七回を投稿した夜だ。留守番電話は、一件も残っていなかった。母は、用があるときは必ず吹き込む人だ。吹き込まないのは、私の声で確かめたいことがあるときだけだった。

私は、かけ直さなかった。かけ直さないまま、実家の玄関に立った。かけ直せば、母は電話で話をまとめてしまう。まとめられた話は、私にとって都合がよくなる。都合のよさに、私はもう耐えられなかったのだと思う。耐えられなかった。

居間で、母は一度だけ私の名前を呼んだ。

遥香。

書くのを、やめてほしいとは言わなかった。第五回のときは言った。昨夜は、言わなかった。

言わなかった理由を、私は帰りの電車で考えていた。答えは一つしか出なかった。母は、もう止まらないことを知っている。三年待てた人だ。待つのをやめる時期も、たぶん自分で決める。

もうひとつ、書いておく。

母は、私が「家にいた」という話をどう扱うかについて、何も言わなかった。撤回してほしいとも、そのままにしろとも言わなかった。

だから、私が決めることになった。

三年間、私は「あの夜、私は家にいた」という文章の中に住んでいた。あれは母が建てたものだ。昨夜、母は自分で壁を抜いた。抜いたあとの場所に立っているのは、私ひとりだ。

もう、家にいたとは書けない。

書けないことは、前からわかっていた。第四回で降車の記録を書き、第六回で映像を見た。それでも私は、母の一文が残っているあいだ、まだどこかで「母がそう言った」と書ける気がしていた。

その言い方が、昨夜、なくなった。

*

反応は、二つだけだった。

――お母さんを、これ以上、責めないでください。

――お母さんが嘘をついたなら、遥香さんはその夜、どこにいたんですか。

二つ目は、答えを持っている人の書き方だった。持っていて、私に言わせようとしている。同じことをする人を、私はもう一人知っている。

mizuki_0314からは、何も来なかった。

来ないほうが、怖かった。

*

メールは、まだ開いていない。

日付が変わった夜に届いた、あの一通だ。差出人、三枝美月。件名、私を、物語にする人へ。

通知の一覧に、まだ残っている。四日のあいだ、私は何度もその行までスクロールして、指を止めた。件名の上で、指が触れる位置まで下げて、それから画面を消した。何度そうしたかは、数えていない。数えたくなかった。

開けば、私はそれについて書かなければならない。

三年前と同じことを、私はまた繰り返している。読まないものを一か所に集めて、開ける順番を決めているあいだ、いちばん恐ろしいものに触らずにいられる。

けれど昨夜、私を守っていた一文が、もう一つなくなった。

家にいた、という一文だ。

次に書くことを、私はもう選べない。

(第8話・了)

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